終わりなき南中

深 夜

第一話

 森の中にぽつん、と盛り上がった小さな丘がある。

 きれいに伐採された芝生におおわれたいただきには高い送電塔が建っていて、その下でいちにち本を読むのが少年は何より好きだった。

 少年はひとりでいることが多かった。

 父の転勤が多いせいでなかなか友だちも出来ず、そんな暮らしを長く続けるうちに、いつか少年は人との関わりに多くを望まぬようになっていた。

 鉄塔の土台にもたれ、今日は恐竜の滅亡について書かれた本を読んでいた。

 進化のきわみに達した怪物たちはやがて環境の変化にたえきれず、なんの罪もないのに死に絶えて行くのだった。

 少年はふと本から目をあげた。

 蜜のような静けさがあたりを包んでいる。

 風はとぎれ、草や木の枝は囁きをやめ、燃えさかる太陽はちょうど今、子午線の真上にあった。

 とつぜん少年は恐ろしい真実をさとった。

 この世にただ一つしかない、真にその名にふさわしい最初にして最後の真実を。

 いつかはぼくも死ぬのだ。

 いや、ぼくだけではない。仲のいいあいつらも、大好きだったけど一言も口をきいたことのなかった、前の学校にいたあの娘も、友達の少ないぼくを心配してくれるあの先生も、みんなみんな人はいつか、一人のこらず死んでしまうのだ。

 そしてそれより早く、ぼくはいつかパパやママの死と向き合うことになる。

 少年は震え出した。今まで考えたこともなかった。

 そんなことに耐えられるのか?

 しかし思いはそこに留まらず、さらにくるったように飛躍し始めた。

 すべての人が死にたえたって、時間はおかまいなしに流れて行く。一体いつまで? そうだ時間は、宇宙は、あまりに永すぎる。大きすぎる!

 そして、ああもうすぐ夜がやってくる。宇宙の大きさに比べたらほこりの一つぶほどもないあの太陽は、夜のあいだに吹き消されたりはしないだろうか? あしたも陽は昇るだろうか? あしたも僕は生きているだろうか? パパやママはまだそばにいてくれるだろうか?

 草のうえに本をほうり出し、少年は全力で走りだした。

 たったいまこの瞬間にも、母はあの懐かしい家の台所で、ひっそりと息絶えているかも知れなかった。

 つぎつぎ額に生ずる汗のつぶを、木立を吹き抜けてきた冷たい風が流れる落ちるより早くぬぐい去ってゆく。走れば走るほど少年の家は、彼方へと遠ざかって行くようだった。


          ★


 本棚の影でコオロギが不意に鳴き止んだ。

 「坊主は寝たかい」

 ナツメ球の灯る子供部屋へ入ってきた夫は、息子の寝顔に見入る妻の背にむかって言った。

 「とても安らかな寝顔をしてるわ」

 静かな声で妻は答えた。

 「晩ごはん食べるまでは、見たこともないくらい淋しそうな顔をしてたんだけどね」

 「学校で何かあったのか」

 「今は夏休みよ。もう忘れたの?」

 ベッドのかたわらにしゃがんまま妻は微笑んだ。

 「誰もが経験することよ。どんな命にもかならず終わりがある。いずれは両親もいなくなるし、自分自身さえいつかはこの世に別れを告げるときが来る。その変えられない事実を、この子もとうとう知ってしまったわけ」

 長い間、二人は黙って息子の寝顔を見つめていた。

 「今日、辞表を出してきたよ」

 そう言って夫はベッドに背を向け、煙草をくわえた。

 「町を出るのね」

 「ああ。坊主ももう前までのように、泣いて騒いだりはしないだろう」

 「そろそろ話してあげる? 私たちのこと」

 沈黙が戻った。やがて虫の声が途絶えるのを待ち男は呟いた。

 「もう70年か。この町へ来て」

 口許で煙草がぽっ、と燃えて、夫の若々しい口許に刻まれた細かく深い皺を照らし出した。

 「坊主は六年生を、これで5回やった事になるのか」

 「もう記憶の封鎖もきかなくなる年ごろよ」

妻は息子の頬をゆっくりと指でなぞった。

 「覚えてるかい。ぼくらが吸血をやめた時の事」

 「ええ。あれはまさに無間地獄だったわね」

 塗炭の苦しみの果てに太古よりの悪習を克服したとき、かれら闇の一族は真の不死者となった。いまや十字架は彼らの敵ではなく、陽のひかりも流水もかれらを傷つけることはできない。

 「しかし俺には今でも分からない。昔からは想像も出来ないくらい穏やかなこの暮らしが、神から授かった最初の恩寵なのか。それとも最後の呪いなのか」

 「今はまだどうでもいい事じゃない?」

 妻の優しげなまなざしに、かつて果てしない生に倦み疲れていた夫を魅了した荒々しい楽天主義が、おだたかな微笑となってよみがえった。

 「この子の前にはこれから通り抜けてゆくべき幾千万の、恋と戦いの日々が待ってるのよ」

 「――今度は港町に住もう、と思う」

 雲間から現れた月を見上げながら、夫は腰に両手を当てた。

 「坊主に水平線を見せてやりたいんだ」

 窓から射す月光のなかで、何の夢を見たのか少年は驚いたように小さく身じろぎをした。

 「そうね。この子はまだ海を見たことがなかったっけ」

 少年の頬を流れ下った一筋の涙を、妻は鋭い爪の先端でつい、と拭い取った。

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終わりなき南中 深 夜 @dawachan09

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