白昼夢であれ

夢見ルカ

白昼夢であれ

蛇口をひねると当たり前に流れ落ちていく水を、ぼんやりと眺める。勢いよくステンレスの上に飛んで跳ねて水紋を描いては、排水溝に流れていく様を。

どれくらいの時間、こうしているのか自分でもわからない。なにせ、頭は働くことを放棄しているらしく、思うように体が動かせないから。

もしかすると、水が思考も気力も何もかもを奪い、流したのかも。などと、どうでもいいことばかり浮かぶ。

水音が僕の体を巡り、床に足を縫い付けていた。涼し気な風鈴の音がするまでは。

ちりん——。

風の吹き込む隙間すらないこの部屋から、響いた音と共に現れた和装姿の“なにか”。

目元を隠す笠と、唯一、感情が見て取れる紅の引かれた唇。重力の存在など知らぬといった風に空中に浮いている足。笠に隠された耳元から吊るされた風鈴。

「お主はなぁにをしておるのじゃ。まぁた、余計なことを考えておるな」

風より軽い声が耳から侵入して、水音をかき消していく。重かった頭を上げて、声の主である自称“人”ではないらしいそいつを見るが、くすくすと笑うばかりで、流し続けたまま放置された蛇口の水には目もくれない。

ただ、水にさらしていた僕の手を見つけると勝手に手を取り、自分の方へと引く。

急に現れて、いったい何をするのかと文句を言うために口を開くも、きれいな弧を描き笑む、その赤に見とれてしまい、言いたいことは喉に張りついたまま自分の中へと溶けた。

「な、んでもいいでしょう。手を離してください」

「そう喚くな。なにもお主を責めてはおらぬよ」

ちりん——。

風も吹いていないのに、くるりくるりと裏に表にと遊んでいる。風鈴から伸びる短冊が揺らげば、舌がまぁるいガラスの外見にあたり音を鳴らす。まるで話しかけるように繰り返し。繰り返し。

「うるさいです、どうにかできませんか。それ」

「これこれ、八つ当たりをするでない。これも私の一部よ」

宥めるためか頭に伸ばされる手を煩わしく思い振り払った。それなのに手はどこにも触れることなく空を切り、何事もなかったように頭を撫でられた。

あちらからは好き勝手触れてくるのに、こちらからは決して触れることのできないことが腹立たしく思える。

ちりん——。

あんなに響いていた水音は、鳴りやまない風鈴の音にのまれ日常の音になっていた。

「それで、お主は何をしておったんじゃ。怪我をしておるというのに、水にさらすなど」

すりっと擦られた手、正確には料理中に誤って切ってしまった指が擦られたことにより痛みを訴えている。しかし、深く切ったというのに一滴も伝い落ちることはない。

傷口にじわりと滲み出た血はその場に留まり丸く膨れると、指を汚すことなく、それどころか赤い結晶となりころりと床へと落ちていった。

血液だったものは床に色づけることなく、満足するまで跳ね転げ、終いにはそこに留まり続けている。窓から差し込む陽光を取り込んできらきらと光り輝いている結晶。自分の体から出た、なにか。

「水にさらせば…。一緒に流されてくれるのではないかと、ありもしないことを期待しただけです」

答え合わせは必要ない。排水溝を見なくたって、僕はずっと見ていたのだ。期待を裏切り、流れることなく溜まっていくそれを、ずっと、ずっと。

自分が、人とは違うという事実を。見つめることしか出来ずにいた。

ちりん——。

体は固く、心は重く沈んでいくなか、風鈴だけが軽やかに歌う。くるくる、ちりん。寄り添いもせず、楽し気な歌声に体から余計な力が抜けていく。

足元を見ると風鈴の外見も光を反射して床に色を落とし込んでいた。風鈴と結晶、ふたつ仲良く並ぶ光の影。

「ふむ。面白いことを考えるな。私からすればお主も、そこいらにいる人の子と変わらぬよ」

「貴方に言われても」

「寂しいことを言うでない。私とて傷つくぞ」

よよよ。なんて、涙のひとつも出ないくせに、袖を笠下の目元に持っていき噓泣きをする様を無視する。反応がないことがわかると、諦めたのか腕を下す。思い立った様子で空に浮いていた足を床につけ、勢いのまま倒れ込み、絹にも負けない艶のある長髪が汚れることも厭わないのか、頬を寄せた。

「人のこと、よくは知らぬ。それでも、私はお主のこれが好きじゃよ。美しいとさえ思う。まぁ、なにより…」

赤い、赤黒い結晶を一粒。透けるほど白い指が拾い上げ、鮮やかな紅をひいた唇へと運ぶ。

そどこか見てはいけない雰囲気から視線を外したが、その先できらきらと床を飾り付けていた光の影が一つ消えていくのを見てしまった。

途端に恥が顔を覗かせて、じくりと胸が痛んだ。震える指先、耳も熱い。これ以上は自分の中の大事ななにかがダメになりそうで、瞼を下ろす。強く、強く。

ちりん——。

視界を閉じた僕の世界に入り込んだのは、聞きなれてしまった風鈴の音だけだった。

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