金魚

ちくわノート

第1話

 夏祭りの金魚すくいで金魚を二匹貰った。自力で掬い上げたものではない。何度やってもすぐにポイを駄目にしてしまう私を見かねて、屋台のおじさんがおまけでくれたものだった。透明なビニールの袋の中で二匹の金魚は幻想的に泳いでいた。私はその金魚にそれぞれ金、銀と名前をつけた。

 その翌日、私は父と共に金と銀を入れるための水槽を買いに行った。その間、金と銀は家にあった銀色のボウルの中に張られた水の中で泳いでいた。彼らの仮設住居だなと父は言った。

 金魚を入れる水槽といえば私は丸い球型の金魚鉢を想像していたけれど、父が選んだのは四角い水槽だった。空気の循環器や金魚の餌、水槽に入れる砂利を一緒に買った。家に戻り、水槽に水を張った。カルキ抜きをするためにそのまま一日それを放置する必要があるそうだ。私はボウルの中の金と銀を眺めながら、カルキとやらが抜けて行くのを待った。ボウルの銀色には金と銀の鮮やかな赤やオレンジが反射して映って、たくさんの金魚が泳いでいるみたいだった。

 次の日、私が起きて、金と銀に餌をあげようとボウルを覗き込むと銀がひっくり返ってぷかぷかと水面に浮かんでいた。魚が死んだらどのようになるか、という知識を一切持っていなかった私でもそれは異常なことで、銀はとても大事なものが損なわれてしまったのだと分かった。生き物が死んだら悲しむべきだと思っていたけれど、その時、その銀の姿を見て私が感じたのは強い恐怖だった。未知の物に対しての畏れだった。

 父は丁寧に銀の死体を掬い上げると、庭の隅に埋めた。穴を掘るのは私も手伝ったけれど、最後まで銀の身体に触れることはできなかった。姿かたちは昨日と何も変わらないのに、決定的なものが銀の体から抜け出てしまっていた。

 金はたった一匹で新品の大きな水槽に入れられた。金はそこがボウルの中だろうが、水槽の中だろうが全く拘泥していないように見えた。一緒に泳いでいたはずの銀のことすら。

 毎日、金に餌をやることを私は忘れなかった。定期的に父と一緒に(父が出張でいない時は母と一緒に)、水槽を掃除し、水を入れ替えた。

 私は毎朝、去年買ってもらった赤のランドセルを背負って、金に「行ってきます」の挨拶をした。金はそんな私のことを無視して、お尻に長いフンをくっつけながら、水槽内を泳いでいた。

 しばらくして、父が別の金魚を買ってきた。「金だけだと寂しいだろ」そう言って、三匹の金魚が新たに水槽に入れられた。

 彼らは私が見ている限りでは仲良くやっているようだった。いや、仲良く、というよりはお互いのことを全く意識していないのだ。彼らはその空間に自分しかいないと思い込んでいるようだった。私は変わらず、彼らの世話をした。

 一ヶ月も経たないうちに、新しく入ってきた三匹のうちの一匹がひっくり返って浮いていた。環境に慣れなかったのだろうか。私にはそうは見えなかった。餌だってちゃんと食べていたし、他の金魚にいじめられていたということもなかった。その金魚は銀の隣に埋められた。私はその時も死んでしまった金魚の身体に触れることはできなかった。

 さらにその一週間後、もう一匹が死んだ。さらに2ヶ月後には新しい仲間の最後の一匹が死んで、水槽には金だけが残った。金だけが他の金魚よりも丈夫だったのかもしれない。あるいは金が他の金魚たちの命を吸い取ってしまったのだろうか。金はずっと変わらずに水槽の中を泳いでいる。

 それからはその水槽に新たな金魚が迎えられることはなかった。その大きな水槽の中には金だけがいつもいた。

 私が小学3年生に上がる頃、父の転勤が決まった。引っ越しをする必要がある。父は言った。

 それから、担任の先生のはからいで、クラスではお別れ会が開かれることになった。いつも仲良くしていた子やあるいはほとんど話したことのなかった男子からもお別れの手紙をもらった。中には泣いてくれる子もいた。私はそれをどこか他人事のようにしか感じることができなかった。まるで知らない映画を観ているような気分だった。

 家に戻ると段ボールの山が既に出来上がっていて、母はその山の隙間から顔を出しながら、あんたも荷物纏めちゃいなさい、と言った。それから、母はリビングの水槽に目を向けた。金も連れて行くことはできないだろうねえ。そのぼそりとした呟きは確かな質量を持って私の耳に届いた。なんで? どうして? 意味わかんない。私の言葉に母は困ったように眉を顰めるだけだった。

 父が仕事から帰ってきた時に、私はもう一度、今度は父に向けて、金も一緒に連れて行く、と言ったけれど、父もやはり残念そうに首を振った。

「明日、川に逃しに行こうか」

 金魚が川で生きていくことができないと私は知っていた。金がひっくり返って水面に浮かぶ姿を想像した。気分が悪くなり、早い時間にも関わらず、寝室に引っ込んだ。

 その日の夜、私は目を覚ました。それは私にとって珍しいことだった。いつもなら朝が来るまで私はぐっすりと、たとえどんなに大きな音が起きようとも眠り続ける。それなのに、こんな真夜中に私ははっきりと目を覚ましている。一切の眠気を感じずに。父は隣でいびきをかいて寝ている。母は私に背中を向けた姿勢でやはり規則正しい寝息を立てている。私は父と母を起こさないように慎重にベッドから抜け出した。

 裸足でひんやりとしたフローリングを踏みしめながらリビングに向かう。リビングには金がいる。水槽の中でいつもと変わらない表情で。

 私は水槽の前にしゃがみこみ、金を眺める。その綺麗な赤色を見る。オレンジの鰭を見る。

「ねえ金」

 小さな声でそう話しかける。寝静まった世界に気づかれないように。

「明日、川に流されちゃうんだって」

 金は何も言わない。

「金も死んじゃうのかな。銀たちのように」

 金はゆらりと泳いで、それから黒い目を私に向けた。向けたように見えた。

 その目には命が宿っていた。力強い、誰にも干渉のされない孤高のエネルギーだった。

 そうだ。死なない。金は死なない。

 私は立ち上がり、台所からマグカップを取ってきて、それをそっと水槽に沈める。水槽の水がマグカップに流れ込む。少しして金はマグカップの中に入ってきた。すかさずマグカップを引き上げる。

 マグカップの中には金がいる。初めて会った時と同じ美しさで。たおやかに泳ぎ、どこまでも超然としている。

 私はマグカップに口をつける。

 そして中身を一気に飲み込んだ。

 何か大きなものがするりと喉を通過していく。

 マグカップを見ると、底に小さな水滴だけが残っていた。


 次の日、両親は水槽の中に金の姿がないことに疑念を持ったようだったが、私が金は一匹で逃げ出したんだよ、というと釈然としないまでも、しかしその一匹の金魚の喪失には特に深く考える必要はないと結論づけたようだった。

 引っ越しの準備は怠りなく予定通りに進められていった。


 それから、私はよく夢を見るようになった。いつも同じ夢だ。

 私は原っぱにいる。そこには誰もいなくて、穏やかな心地のいい風が静かに吹いている。私はそこで走り回って遊んでいるのだけれど、急に具合が悪くなる。日射病かもしれない。そう思って日陰を探す。でも十分な大きさの日陰はどこにも見当たらない。具合はどんどん悪くなる。そしてとうとう吐いてしまう。

 しかし出てきたのは胃酸に溶かされた昨晩食べたご飯ではなくて、赤い金魚だった。それも一匹じゃない。数え切れないくらいの無数の金魚が私の口から一斉に飛び出てくる。

 ああ、金だ。私にはわかる。それは金の子どもたちだ。金の子どもたちは宙を泳ぎ、群れを成して、空を赤色で埋め尽くす。

 綺麗だ、と思う。その幻想的な美しい光景を私は忘れないようにいつまでも眺め続けている。

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金魚 ちくわノート @doradora91

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