宵の明星
♠️
「こんな時間からどこ行くの?」
「星のカンサツ。暗くならないと見えないじゃん。六時には絶対帰る」
「誰か一緒?」
「ひとりだよ!」
宿題がまだ完成してないと言って家を出てきた。
マツムラさんを送ってから家に帰ると、多分六時を回ってしまう。
母さんになんて言おう。
児童公園まで行ってた。一番見やすいから。これは絶対。
あとスケッチに時間かかった。
うーん、いや、途中で雲が出てきて晴れるのを待った。
うん、これだ。これにしよう。
宵の明星は一人でも見れるけど、マツムラさんと見たいと思った。
マツムラさんが行くって言ってくれた。
だから絶対に門限までには家に帰さなくっちゃ。
それが今日のボクのシメイだ。
ピアノ教室終わったら児童公園に来てくれるって約束した。
公園の大時計が五時半を指したぞ。
マツムラさん、そろそろだな。
🖤
迷ったけどやっぱりママにはちゃんと話したの。
タカシくんと星の宿題の残りやるって。
門限は守りますって約束した。
問題はカコに話すかどうかだったけど、カコ今日のピアノお休みした。
昨日児童公園からの帰り道、ちょっと熱っぽいかもって言ってたから、熱出ちゃったのかな。
大丈夫かな、カコ。
昨日みんなでカンサツ会をやって、宿題はそれだけでも一応出せるけど、タカシくんの誘いを受けちゃった。
星のこと一生けん命話してくれたから。
ああいう時のタカシくんって、なんかいいな。
うん、なんかいい。
びっくりしたけど、うれしかった。
ぼんやり昨日のこと思い出していたらピアノの順番が来て、あわてて弾いたら二か所も間違えた。
「集中しなさいね」って先生に叱られちゃった。
あーあ。
でも、そろそろ終わりの時間。
タカシくん、来てるかな。
♠️
公園の入り口で待っていると、間もなくマツムラさんが走って来た。
ちゃんと来てくれた。
うれしい。
「おはよう」
つい言葉がそう出た。
「え?」
「あ、いま夜か。え、夕方?」
「ふふ」
「こんばんわ? なんかヘンな感じ」
「こんばんわ、だね」
マツムラさんはそう言って、けんばん模様のレッスンバッグを肩から下ろして両手で持った。
ボクは自転車を押して歩き出した。
「ピアノ、練習できた?」
「今はね、ショパンのプレリュード練習してるの」
「ショパン?プ、プレ?なんかわかんないけど、すごいね」
「今日はいっぱい間違えちゃった」
照れた顔がかわいい。
🖤
タカシくん、ちゃんと待っててくれた。
来てなかったらどうしようって思ってた。
うれしい。
「バッグかして。ここに入れとくね」
「うん」
自転車の前カゴにバッグを入れてくれた。
ありがとう。
「ジャングルジムの上行く?」
「うん。登ろっか」
二人でジャングルジムに登った。
「ほら、あれ。あれが宵の明星」
タカシくんが指さす。
「わー、きれいによく見えてる」
「一番に輝いてるでしょ」
「うん、すごく明るい」
暗くなったばかりの西の空に、雲の切れ間から金星がくっきりと輝いていた。
「金星は英語で、ビーナスって言うんだよ」
「ビーナス!」
「愛と美の女神」
「そうなんだ、女神さまなんだ」
ロマンチックなこと言うな。タカシくん。
♠️
君はボクの女神だよ。
なんちゃって。
そんなジョーダン絶対言えないけど。
「何ひとりで笑ってるの?」
「え、あ、別に」
笑ってた?見られた?
あせったー。
「あのさあ、えと、えと、コロボックル来た?」
「え?来てないよ。タカシくんところは?」
「来てなーい」
「来たらいいね」
うん、そうだよ。
絶対にいると思うんだ。
二人の家に来てくれないかな。
🖤
小人なんてやっぱりいないと思うの。
いないと思うけど、いるって信じてるタカシくん、かわいい。
でも、おんなじ本を読んでたのは正直びっくりした。
面白いって気持ちが一緒だったのがうれしかった。
だからかな、タカシくんのこともっと知りたいと思った。
あーでも、もう時間。
「んと、そろそろ帰らないと」
「あ、そうだね」
「ママと約束したから」
「うん、わかった」
本当はもうちょっといたい。
もうちょっと。
もう、ちょっとだけ。
♠️
「家まで急ぐから後ろ乗って」
自転車にまたがってボクは言った。
「え、」
「いいから」
「送ってくれるの」
「早く、乗って」
「う、うん」
マツムラさんが後ろの荷台に横座りした。
「じゃ、行くね」
「はい」
はいだって、返事がかわいい。
力いっぱいペダルを踏んだ。
すっかり日の暮れた街の空気がほほに冷たい。
寒いはずだけど、背中で感じるマツムラさんの気配が、心にぽかりあったかい。
「あっ」
小石を踏んでバランスを崩しかけた。
「えっとさ、ボクのダウンつかんで」
「……」
ペダルを踏む足を休めずに言った。
勇気がいったけど言った。
顔が見えないから、思いきって言えた。
「スピード出すから」
「……」
だって、落としちゃうし。
あっ、つかんでくれた。
うれしい。
「しっかり持っててね」
「うん」
ちゃんと送り届けなきゃ。
マツ……、クミちゃん。
🖤
「えっとさ、ボクのダウンつかんで」
「……」
えーどうしよう。
誰かに見られないかな。
ちょっとはずかしい。
「スピード出すから」
「……」
あぶないもんね。
そう、だよね。
わかった。
タカシくんのダウンジャケットの腰辺りをつかんだ。
照れくさい。
でも、なんかうれしい。
「しっかり持っててね」
「うん」
今、一位……かな。
うん。
♠️🖤
「六年はクラス替えないもんね」
「うん。先生、言ったよね」
「来年も一緒だね」
「うん。一緒だね」
よろしくね、と声には出さずボクは思った。
よろしくね、と心のなかでワタシは思った。
ひとつになった二人の影が緩やかな坂道を駆け下りていく。
しっかり握ったブレーキと、しっかり掴んだジャケットの裾。
そしていつしか舞い落ちてきた白いもの。
それはすごく儚げで、地面に届かず消えていく。
手の内に隠れそうな淡く仄かな温もりは、小さく健気に寄りそいながら、しんと冷えた空気の中を真っ直ぐに走り抜けていった。
街が冬の静寂に包まれている。
そうしてキセツが一歩、歩きはじめた。
おわり
歩きはじめたキセツ コロガルネコ @korogaru_neko
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