FLASHBACK
宇野六星
FLASHBACK
寒い。暗い。息ができない。体がどこも動かせない。というか、手足がどこにあるかもわからない。
一瞬前、あたしは大きく撥ね飛ばされて道端に投げ出された。周りが叫んだり呼びかけたりする声がわんわんと響いて、でもそれもどんどん遠くなっていった。
真冬の水が流し込まれてるみたいに急速に体が冷えていく。
(嫌だ)
あたしの意識は必死でもがいた。
(死にたくない)
真っ暗な視界の中に色とりどりな光の残像が現れ、めちゃくちゃにスパークし始めた。それでも体は動かなかった。
(まだ死ねない! こんな形で死にたくない…!)
抗って抗って、まばゆい光に包み込まれながらもその先へ抜けようとしたとき、ふわりとすべてが楽になった。
光は突き刺さるような眩しさではなく、優しく柔らかく目の前を照らし、やがて穏やかに風景を浮かび上がらせた。
『――セーラ』
気づくとあたしは、ひざまずく一人の騎士に手を取られていた。見上げるその瞳に懐かしさがこみ上げる。あたしはこの人を知っている。これがどんなシーンだったのかも覚えてる。とても大切で愛おしい思い出。
きっとこれは、瀕死のあたしが見ている走馬灯なんだ。
そう心の奥で察しても、湧いてくるのは喜びの感情だけ。あたしの意識は自然と人生で最も素晴らしかった時代へと向いていった。
あたしと彼は、大きな街を見下ろす小高い丘の上にいた。
『セーラ、…プリンセス・セーラ・シディア。どうかこの僕――ギルバート・アベルハイムの妻になってほしい』
彼は微笑みながら、だけれど真剣な眼差しであたしを見つめた。とっくに思いを通わせ合っていたからこれはただの確認のはずなのに、それでもあたしの心臓は息詰まるくらいどきどきして、指先もかすかに震えていた。
『…ええ、喜んで。ギルバート』
あたしが答えると、彼はぱっと笑みを顔全体に広げた。そうすると急に子どもっぽい。その顔も好きだ。
ギルバートは立ち上がり、あたしを抱きしめた。
『ありがとう、セーラ! 幸せにするよ。…ああ、君を心から愛してる』
『あたしもよ、ギルバート』
彼の腕の中であたしも答える。足元の花々が静かに揺れていたのも、彼の手が優しくあたしの頭を撫でていたのも覚えてる。
今まで生きてきた中で一番幸せだと思った瞬間だった。
もちろんその後も幸せな瞬間を幾度となく味わったけど、あの時ほどあたしの全てが報われたと感じた時はない。それまでの人生での苦労も、その前の人生での不運も、みんなこの瞬間を迎えるためのものだったと思った。
あたしはかつて、悪役令嬢だった。この乙女ゲームの世界で、ヒロインを様々な形で追い落とそうとする役回り。
けれど、前世の記憶とともにこれがそんなゲームの世界だということを思い出したのは、最後のシナリオが終わろうとしているときだった。何をしようにも全てが手遅れで、あたしはゲームの舞台から黙って退場するほかなかった。寝て起きたら幼少期に逆行してるなんてこともなかった。
何より辛かったのが、当時あたしの婚約者だったその国――エフガリアの第二王子に見限られたことだった。実にわかりやすくヒロインに心変わりし、婚約破棄を突きつけてきた。
でもそんなのはもう何年も昔のことだからもういい。破棄理由にでっち上げた冤罪のことももういい。あの国で起きたことは全てカタが付いている。
シディア公国の第四公女だったあたしは政略結婚の駒としての価値しかなく、すぐに他国の王子との縁談を言い渡され、その国に送られて婚儀の日まで過ごすことになった。その時護衛の騎士として派遣されてきたのがギルバートだった。
道中で魔物に襲われたのをいいことに、あたしはギルバートと共に逃げ出して庶民に紛れ込み――それから色々あった。日銭を稼ごうとするうちに辺境の村の人々に頼られるようになったり、行きがかり上魔物の討伐に参加する羽目になったり、かつてのヒロインに取り憑いた瘴気を祓ったりついでに元婚約者にざまぁしたり…そんな中で、実はギルバートがあたしの縁談相手だったことがわかり、それで喧嘩したり仲直りしたり。ようやく互いの身分を明らかにしてアベルハイムの宮殿に迎え入れられた。
それからは貴族や有力者相手の駆け引きを必死で切り抜け、悪徳商人や癒着貴族を告発したり商品開発を支援して財政建て直しを図ったり、あたしにちょっかいかけてきた海向こうの王様をギルバートに追い払ってもらったり。
そんな風に、シナリオのない世界を無我夢中で駆け抜けてどれくらい経っただろう?
もう何にはばかることもなく、やっとあたしも自分の気持ちをごまかしたりせず、こうしてギルバートと向かい合うことができている。
何て幸せなんだろう。
あたしたちは、国中のあらゆる民から祝福されて結婚した。内政は安定していたし子宝にも恵まれて幸福は続いた。時おり災害や不作があったり、他国の政情不安のあおりで難民が押し寄せたりということもあったけど、概ね乗り越えられない苦労はなかった。
子どもたちは皆聡明で懐深く、ギルバートは即位して期待通りの名君となりますます国を栄えさせた。
それからさらに時は流れ――
玉座は息子に譲られ、ギルバートとあたしは時々孫たちの相手をしながら共白髪で穏やかな余生を過ごした。そしてギルバートはあたしに見守られながら息を引き取り――
あたしも今また子や孫たちに囲まれながら、彼の元へ行こうとしてる。
ああ…充実した人生だった。後悔はない。完璧に満足している。終わりよければ全てよしとはこのことよ。
あたしの意識はふわりと浮き上がり、豪華なベッドに横たわる老いた自分を見下ろした。やがてそれを囲む人々も寝室の景色も、霞んで闇に溶けていく。
――その安らかな気持ちを邪魔するように、出し抜けに誰かの声がした。
「よう、どうやら落ち着いたな」
振り向くと、そこにはやたら胡散くさい男が立っていた。浅黒い肌をライトグレーの三つ揃いのスーツに包み、薄い笑みを浮かべた若い男。見た目も態度も胡散くさい。
「誰?」
「おれは案内人さ」
男は親指で帽子のつばをちょっと押し上げると、にやりとした。いけ好かない感じではあったけど、続く台詞にあたしは少しだけ警戒を解いた。
「この先は暗くなるからな。怖気づかずに進んでもらうよう後押しするのが役割だ」
「死出の旅ってことね。大丈夫、思い残すことはもうないわ」
それに、この先にはギルバートが待っていてくれると思えば何も怖くなんかない。
「殊勝なことで何よりだ」
男は右手の上に丸い明かりを灯した。そこに浮かんだ映像を目にした瞬間、あたしはぞわりと総毛立った。
「
事務的に読み上げられたプロフィールは、あたしの記憶とも一致していた…けれど。
「待って、それは前世のあたしでしょ? 今のあたしはセーラ・アベルハイム、アベルハイム王国の王太后よ! 子や孫に囲まれて、老衰で、六十…七十…あれ?」
あたし、何歳だったっけ。老衰で死ぬんだから、七十とか八十よね。八十じゃまだ早いんだっけ? あ、でもこの世界の文明度だとたぶん平均寿命はそこまでじゃなくて…
急に不安になってきたあたしを男はばっさりと否定した。
「なーに言ってんだ。撥ねられたのはついさっきじゃねえか」
「うそ! その後あたし、転生したんだから! 乙女ゲームの悪役令嬢になってて、断罪されたけどきっちり巻き返してっ…」
「っていう夢を見てたんだろ?」
「えっ!?」
「死ぬ間際ってのはな、苦しまないように脳が最高に幸せなイメージを思い浮かべるようになってんのさ。きれいな花畑にいたり、幸せな思い出を次から次へと呼び出したり――これが走馬灯だな――とにかく都合のいい夢を見るんだよ」
「うそよ…夢じゃない、あたしはあのゲームの世界でちゃんと生きたわ! 喜怒哀楽の感情を味わって、幸せな人生を送ったんだから!」
あたしは食ってかかったけど、男はまったく動じなかった。
「ゲームの世界に転生なんてできるわけねえだろ」
「でも、あたしはちゃんと体験した…」
「あのな、ゲームって何だかわかってるか?」
男は呆れるように言った。
「ゲームってソフトウェアだぜ? プログラムだぜ? ゲーム機の電源入れて画面を点けたらそこに世界があるように見せかける、そういうコードの集まりだぜ。いちプレイヤーの魂が入れるわけねえだろ。むしろ、どんなコードを書いたら魂が入り込めんだよ」
「よくわからない専門的な話なんかやめてよ! ゲームの世界に転生するってのは、そういう物理的な話じゃないのよ。ゲームを通じて、それにそっくりな異世界がきっとあって、そこに転生したってことなのよ、きっと」
「んなわけあるか。ゲームの製作陣やシナリオライターに失礼だろ。独自性を出そうと四苦八苦して世界観を創り上げてんのに、『実はそのまんまの設定の異世界が実在しまーす』とか、連中のクリエイティビティを否定するようなもんだぜ」
「はあ!? そんなの知ったこっちゃないわよ。何だってそんな小難しい話するの!?」
イライラと言うと、男は吹き出した。
「おれは、お前の生前の主張を引用してやっただけなんだがねえ」
「どういうこと?」
「都合の悪いことは忘れるってか。まあいい。お前、その手のウェブ小説を読み漁っちゃあSNSに書き散らしてただろ」
男の手元の丸い明かりの中に、SNSの画面が映し出された。そうだ、確かにあたしのアカウントだ。投稿した内容も覚えがある。
『乙女ゲームの世界に転生とかナンセンス。それでもし破滅回避とかしたら他のプレイヤーがプレイする時シナリオ変わるのかよ。んなわけねーべ』
『ウェブ小説の世界に転生した、とかもさあ。見ず知らずの読者が死んで転生してきたなんてことになったら作者も困るわ。連載中だったらいきなりプロット崩れたりして迷惑じゃね?』
『自分が書いた話の中なら勝手にどうぞだけど。結局それって死ぬ間際に…』
その投稿を思い出した瞬間、あたしは思い切り後ろに飛び退いた。――と思ったけど、がくんと倒れ込んだ。
気づくと、あたしは冷たいアスファルトの道端に転がっていた。あたしは、セーラ・アベルハイムなんかじゃなかった。ただの凡人の
男は、どこからかふわりと降り立ってあたしの前にしゃがみこんだ。
「あんなに否定してたのによ、いざ自分が死ぬ段になるとやっぱり異世界転生を妄想するわけか」
野次馬めいた物言いを聞きながら、あたしは自分の投稿を恨めしく思い返した。
『結局それって死ぬ間際に、「乙女ゲームの世界っぽいところに転生した!」って走馬灯代わりに妄想してるだけじゃん』
(嫌だ…セーラとして生きたあの人生が…あんなに充実した人生が、妄想だったなんて思いたくない…!)
ギルバートも存在しないなんて。そうだ、この先でギルバートが待っててくれるなんてこともない。あたしは、一人ぼっちで行かなきゃいけない…!
「ふーん…」
男はちょっと憐れむようにあたしを見下ろした。
「ま、実は転生ってのもできない話じゃねえ。おれはただの案内人だがよ…もしお前があんまり気の毒そうなら、おれの裁量で転生させる申請をしてもいいとお偉い方には言われてるんだが…」
(本当!? 何よ散々イジっておいて! ちゃんと転生する手があるんじゃないの!)
「けどお前にゃ必要なさそうだな」
(なっ…何で!?)
驚くあたしに、男はしれっとして告げた。
「妄想とは言え、充実した人生を送ったんだろ? あんだけ走馬灯並みにありありと思い浮かべてよ、ずいぶん安らかな気持ちになってたじゃねえか。あらためて転生する必要なんかないくらい、満足してただろ?」
(そんな…!!)
「じゃあ、そろそろ行こうか」
男は表情を消すと、手をかざしてあたしの顔を覆った。
「後押ししてやるぜ」
(待っ…)
頭を押されたと思った瞬間、あたしの魂はついに体からふうっと抜けた。
そして、落ちて、落ちて――
――落ちていった。
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