失失恋
@qwegat
本文
僕は〈嵐の魔女〉様のことが大好きだ。
彼女は魔女の肩書きどおり、魔法を扱うのが極めて上手で、あんな大魔法を開発したとか、こんな大魔獣を討伐したとか、まさに武勇伝というようなエピソードを山ほど持っている。
例えば、朝起きた時のことを想像してみよう。
僕は柔らかいベッドの中で、窓を貫通する日光を浴びて目覚める。ベッドから這い出て自室から出て、寝ぼけまなこを擦りながらリビングに向かえば、そこにはいつも通り〈嵐の魔女〉様がいて、何かの花に例えられそうなほど美しい長髪を僅かに揺らし、僕の方を向いておはようと言う。その表情が既に好きだ。
そのあと僕は朝食を作るわけだけど、彼女はソファに座ったまま、吸い込まれるように美しい瞳をこちらに向けて、調理場での僕を見守ってくれる。包丁を使っている姿も、スープを煮ている姿も、全て見られている。そもそも〈嵐の魔女〉様なら、少し魔法を使えば調理なんて一瞬で済むはずなんだけど、それをわざわざ僕にやらせるのも、なんだか期待されている感じがして好きだ。
完成した朝食は、当然食べられることになる。僕も〈嵐の魔女〉様と暮らして結構長いから、そこそこ美味しい料理が作れると自負している。少なくとも、少しだけ皺のついたテーブルクロスの上に置かれた白亜の皿。それを前にして料理を口にする〈嵐の魔女〉様の姿は、僕の心臓を高鳴らせるのに十分すぎる。
だいたいそういう具合だ。
彼女が時折見せる表情とか、感情とか、とにかく全部が好きなんだ。
◆
どん、どん、どん。
ドアノッカーが打ち付けられる鈍い音が耳に飛び込んできたとき、僕は小鳥に餌をやっているところだった。
その音は規則正しいもので、〈嵐の魔女〉様がノックするときの乱雑さとは程遠かったから、まず間違いなく来客だと思った。
「来客なら、急いで応対しなきゃ」
そう考えたので、僕は鳥かごに挿し入れていた細長い匙をいったん引き抜いた。少しだけ濁った銀色のそれは、餌を盛った小皿に戻されながらも、カーテンから漏れ出す日光を反射させ、小さな太陽みたいに輝いた。
僕は椅子を動かして、木材が軋む音と共に立ち上がる。そのまま玄関に行きたかったのに、邪魔が入った。
「ピュイ、ピュイ」
小鳥が鳴いたのだ。
僕は別に無視すればいいやと思った。〈嵐の魔女〉様が気に入ったというから飼っている小鳥だけど、流石に来客より優先してやる道理はない。
黙って足を一歩踏み出す。
「ピュイピュイ、ピュイピュイ」
同時に、背後の甲高い鳴き声が速度を増す。
「……」
黙って足を一歩踏み出す。
「ピュイピュイピュイ、ピュイピュイピュイ」
まただ。また加速した。けれどももう数十歩歩けば廊下への扉がある。こんなの、無視すればいい。
「……」
黙って足を一歩踏み出す。
「ピュイピュイピュイピュイ、ピュイピュイピュイピュイ」
「……」
黙って足を一歩踏み出す。
「ピュイピュイピュイピュイピュイ、ピュイピュイピュイピュイピュイ」
「……何だよもう!」
僕は流石に耐えられなかった。矢継ぎ早に繰り出される高音は笛の音色めいていて、当然のことながらものすごくうるさい。振り返り、少し歩幅を大きくして鳥かごに詰め寄る。
「いい加減にしろ!お客様が来てるんだよ!」
僕が怒鳴っても、
「ピュイピュイピュイ、ピュイピュイピュイ」
小鳥の鳴き声は終わらない。
「ああもうわかった、餌が食べたいんだな!? じゃあ一口だけだぞ!」
僕が匙を取り上げても、
「ピュイピュイピュイピュイ、ピュイピュイピュイピュイ」
小鳥の鳴き声は終わらない。
「もういい、知らないからな!」
僕が匙をそのまま投げ捨てたところで、
「……」
小鳥は唐突に黙りこくった。
「……はぁ」
僕は溜息をつくと、改めて玄関まで歩き出した。
正直に言うなら、僕はこの小鳥が嫌いだ。〈嵐の魔女〉様がこの小鳥を愛でているときに見せる、僅かな紅潮を伴う慈愛の表情が無ければ、とっくに世話を放棄していると思う。うるさいのもそうだけど、何より意味が分からない。どうしてそれまでさんざん喚いたのに、匙を投げ捨てたとたん静かになるのか。理解できない存在にはどうしたって拒絶の感情が向く。
それはともかく、来客だ。
「はい――」
僕は玄関にたどり着くと両手を伸ばして、灰色の扉のハンドルににかけた。
この家の扉は、開け閉めするたびにギイギイと鳴る。僕は「油をさしましょうよ」とか「そもそも扉自体を変えるべきじゃないですか」とか進言したのだが、〈嵐の魔女〉様はこちらの方が好みのようで、錆びついた灰色の扉は一向に修繕されず、僕の両腕に負担をかけた。しかしまあ、〈嵐の魔女〉様がこの扉を見るときの表情は好きだったから、僕は一応良しとしていた。
「――何か御用でしょうか?」
扉を開いた先には澄み渡る青空があって、青空の手前には、石炭のように黒い制服に身を包んだ人々が立っていた。その胸元に光るバッジを見ずとも、〈魔法局〉の職員だと察せた。〈嵐の魔女〉様、また何かやらかしたのかな、とか思った。先頭に立つ男は鋭い目つきをしていて、僕に言った。
「単刀直入にお話しします。〈嵐の魔女〉が死にました」
僕はびっくりした。
その言葉を聞いて、びっくりする以外の感情が湧かなかったからだ。
◆
「おめでとうございます」
先頭の男がそう締めくくったので、僕はきょとんとした。
彼がそれまでに話していた内容はこうだ。〈嵐の魔女〉は死んだ。時刻はつい数十分前。場所は〈カリメル大森林〉、この家から北東にずっと行ったところだ。何でも付近では雷雨が降っていたらしいけど、彼女はそれを気にも留めずに、箒に跨って曇天の下を飛んで行ったという。そして、雷に打たれて死んだのだそうだ。
あんな大魔法を開発したとか、こんな大魔獣を討伐したとか、まさに武勇伝というようなエピソードを山ほど持っている〈嵐の魔女〉が、雷に打たれて死んだのだそうだ。
そのあとの内容は、こまごまとした色々だった。〈魔法局〉に提出されていた遺言に基づき、彼女の財産はすべて僕が相続する。この家にもそのまま住める。この書類がこう。この書類がこう。この書類がこう。書類の連続で疲弊したところで、「おめでとうございます」が来たというわけだ。
「どういうことですか?」
僕は手を挙げて聞いた。冷静に考えてなんで手を挙げているんだなんて思った。混乱していたのかもしれなかった。
鋭い目つきの男は少し不可解な様子で、
「……? 何か不明な点がありましたか?」
「ええと、『おめでとうございます』というのはどういうことですか? 〈嵐の魔女〉様が死んで、どうして祝うことがあるんです」
男は沈黙した。それはきっと思慮の沈黙で、僕が口の中が乾きつつあることを自覚し始めたあたりで終わった。彼は言った。
「あなたは……〈嵐の魔女〉に自由を奪われ、この小屋に拘束されていた、と聞き及んでおりますが」
「……はい?」
「いえ、その。〈魔法局〉としてはその問題を解決する義務があったのですが、なにぶん〈嵐の魔女〉の実力は凄まじく……あの、誠に……」
「そ、そういうことじゃなくて。〈嵐の魔女〉様が僕を拘束した、ですか? 違いますよ。僕は〈嵐の魔女〉のことが好きだから、こうしてご奉仕を……」
僕はそこまで言いかけて、自分は別に〈嵐の魔女〉様のことを愛してなんていないことに気付いた。
気付いたと同時に、頭の中を無数の混乱が埋め尽くした。
目つきの鋭い男も、どうやらそれを察したらしく、
「……ああ、そうでした。〈嵐の魔女〉はそういう手口を使っていたんでしたね」
そう言うと、苦笑のような微笑のような表情を浮かべた。とにかくどこかしらで笑っているのは間違いなかった。
「彼女は、あなたに〈魅了魔法〉を使ったのですよ」
「……はい?」
「つまるところ」
彼がそう言い放ったところで、僕はなぜか、その背後にいる職員たちが気になった。彼らは随分規律の取れた集団のようで、直立不動で、くしゃみの一つもせずに、まるで置物のように立っていた。立派だなと思うと同時に、なぜそんな仰々しいことをするのか気になった。そこでようやく、自分は思ったより重大なことに巻き込まれているらしい、ということに気付いた。
先頭の男が言葉を繋ぐ。
「〈嵐の魔女〉はあなたを魔法で洗脳して、自分に恋をするように仕向けていたのですよ」
◆
〈魔法局〉の職員諸氏が浅く一礼して踵を返すのを見送ると、僕は重い扉をやはりギイギイと閉めた。完全に蓋をされた青空が姿を隠し、ドアの生み出す影があたりに溶け込むと、同時に家の中に静寂が広がった。僕はそれを乱す気にもなれなくて、自分自身沈黙しながら、とぼとぼというわけでもはきはきというわけでもない歩調で、薄暗い廊下をそっと歩き、リビングに戻った。
僕が足を踏み出して、視界が少し前進するたび、その中に映る様々なものが、僕はもう恋などしていないのだと言うことを、随分念入りに突き付けてくる。
扉を開けた先にはソファが並んでいた。〈嵐の魔女〉様が毎朝座っていて、僕におはようを言ったソファだ。彼女のおはようは考えてみれば普通のおはようで、別に体温を上げるようなものじゃなかった。
方向転換すれば今度は調理場が見えた。〈嵐の魔女〉様のために僕が毎日、朝食を作った調理場だ。よく考えると魔法を使わずに僕に調理をやらせるのは、別に期待でもなんでもなく、単に意地悪をしているだけだったんじゃないかと思った。
そしてその手前には食卓がある。そう、食卓。さっきと同じ食卓があって、さっきと同じ鳥かごが置いてあって、さっきと同じように押し黙った小鳥がいた。
今くらいは鳴いてもいいのにな、と思ったけれど、僕が歩身を進めても小鳥は死んだように静かで、鳥かごの影はどうにも短かった。
僕は右手を伸ばし、黙ったまま椅子を引いた。その時さっきと同じように、少しだけ木材が軋む音が上がった。一瞬だったけど、それで始めて静寂が破られた。小鳥にとってはそれが何かの引き金だったようで、僕が椅子に座ろうとする間に、再び
「ピュイピュイ、ピュイピュイ」
と鳴き始めた。
僕は、いろいろ考えていたのだ。冷静に考えたら『時折見せる表情とか、感情とか、とにかく全部』って具体的に何で、どうして好きなのか全くわからないなとか。〈嵐の魔女〉様は、僕が思っていたよりずっと悪い奴だったのかもしれないなとか。
けれどもそういう考えが、その鳴き声が聞こえたとたん、なんだかものすごく馬鹿らしいものに思えてきた。それよりむしろ、あの先頭の男が話していた……『〈魔法局〉に提出されていた遺言に基づき、彼女の財産はすべて僕が相続する』という件。そちらをはっと思い出した。そこで僕は、自分がこの家の主なのだということを自覚した。
「……片付けでも、しようかな」
僕は誰にともなく呟いて、小鳥はなぜか鳴き止んだ。
◆
こういう場合、僕は失恋したことになるのだろうか?
卓上灯の光が描く扇形の中。本棚から見繕った教本を隣に広げ、それを参考に魔法陣を描きながら、ぼうっとそんなことを考えた。
実際のところ今の僕は、明確に「恋を失った」状況にある。しかし、一般的な失恋とは明らかに別のことが起こっているとも思うのだ。僕の恋が終わった理由は、僕が振られたことでもなければ、逆に僕が〈嵐の魔女〉様を見限ったことでもない。しかし最終結果としては、僕は〈魅了魔法〉の効果終了により振られているし、それによって〈嵐の魔女〉様を見限るような形になっている。実際、名残で様付けこそしているけど、魔法で人を洗脳してこき使ってたような人と知った今は、まあ、少なくとも好きではないのだ。
紙の上を躍る鉛筆が、曲線を描き摩擦音を奏でる。作業はすこぶる効率よく進んでいるから、たぶん結論が出るより先に、この〈錆取り魔法〉の陣が完成する方が早いだろう。
この魔法陣が完成したら、僕は紙を玄関まで持っていき、〈嵐の魔女〉様が気に入っていた錆びついたドアを、錆びついていないドアに変化させるのだ。これからはもう、開閉のたびに蝶番が軋んでみせることもない。彼女が、それを見て可憐な笑顔を浮かべることもない。あるいは、今までもなかったのかもしれない。
こういう調子で――僕は、自分としては正したいと思っていたけれど、〈嵐の魔女〉様の好みに合わせてそのままにしていたものたちを、片っ端から修正した。一つ直していくたびに、現実に打ち付けられた思い出の楔は引き抜かれて、彼女の記憶は家の中の空気を漂い始め、そのうち窓から出ていった。しかし、僕は構わなかった。
既に恋などしていなかったからだ。
◆
数日後のことだ。
「……これで最後か」
呟きがそよ風に溶け出ていった。
両手に抱きかかえた鳥かごが、やけにずっしり重く感じられる。その中で呑気に黙っている小鳥は、こんなに軽くて弱そうなのにだ。僕はなぜだか緊張してしまって、それを紛らわすように、話しかけた。
「お前も飛び立つ時――」
そこまで言ったところで小鳥は豹変して、
「ピュイピュイピュイ、ピュイピュイピュイ」
そこそこの高速で、甲高い鳴き声を連続させ始めた。
またこれだ。相変わらず、この小鳥の行動は訳が分からない。僕の行動との因果関係がまるでつかめないのだ。自分とは違う物理法則で生きているという感触すらある。唯一の飼う理由だった〈嵐の魔女〉様がもういない以上、もはや家に留めておく理由などない。僕は今から、この晴れ空に小鳥を解放しようと考えているのだ。
「ピュイピュイ、ピュイピュイ」
「…………?」
しかし今日は――なんだか、変だった。その楽器の音色みたいな鳴き声が、酷く愛おしいものに感じられたのだ。
「ピュイピュイピュイ、ピュイピュイピュイ」
「……あー、それじゃあまあ、達者でな」
僕は自分を誤魔化すようにして、鳥かごに装着されたスライド式の扉に手をかけた。
「……」
その途端、小鳥は鳴くのをまたやめた。なぜなのか分からなくて、イライラした。イライラすると同時に、この鳴き声が生まれる原因を解き明かさないまま、イライラを解消しないままにこいつを世界に解き放ってしまっていいのか。そんな疑問が、ふと僕の頭をよぎった。
「いいんだ」
言葉にしてでも自分を納得させたかった。
だって、そうじゃないか――と、僕は扉を引き上げながら思った。この鳥を肯定して家の中に置くということは、〈嵐の魔女〉様を肯定するということでもある。〈嵐の魔女〉様を肯定するということは彼女に恋をするということで、彼女にどうして恋するのかと言えば、もう、分かっていて。どうして彼女は僕を相続人にしたのかとか、彼女はどんな悪事を働いたのかとか、あるいはもっと単純に、どうして錆びついた扉がそんなに好きだったのかとか。そういう未知の部分に惹かれるからに決まっているのだった。それはきっと小鳥も同じで、自分の行動がどう鳴き声に影響するかという未知の部分に、僕は今、明確に惹かれていて。でも僕は既に彼女の持っていた未知をすべて上書きしてしまったから、惹かれるには遅くて。むしろ、惹かれちゃいけないくらいに考えるべきで。
だから僕は、特に手を止めることもないままに、鳥かごの扉を開ききった。小鳥は鳴き声を残響させながら、勢いよく、軽やかに、青空の下に躍り出た。そうしてそのまま風に乗ると、僕の視界に占める面積を、どんどんどんどん減らし始めた。
「ああ」
奥の方に広がる綿雲の白は、小鳥の白をもうすぐ飲み込むだろう。
僕はと言えば、自身の初恋と失恋が遠ざかっていくのを、ただ眺めることしかできなかった。
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