はじめまして
夕方に起きて、何となくSNSを開くと自分の投稿がものすごい数でネット中に拡散されているのがわかり、怖くなった。慌てて〝ブラックリリー〟宛の投稿を消した。まあ、わたしのアカウントは実名や住んでいる所は何も投稿していなかったし、「野口先生」と相手の名前を出しているわけでもなかったので、これ以上何も問題になることはないだろうとは思う。でも気味が悪いので、しばらくSNSはやめておくことにした。
次の生け花教室の日、先生の交替があると知らされた。野口先生は体調不良のため、しばらくお休みする、ということだった。
モモカ自身が、そういった書き込みをしたこともすっかり忘れてしまったある日、ネットニュースでおはなの菜津美先生のバーチャルキャラクターが大きく出てきたので驚いた。誹謗中傷を繰り返していたアカウント〝ブラックリリー〟の悪質性が認められたため、ついに逮捕になったのだという。犯人は、おはなの菜津美先生の中の人の、婚約者男性の母だったらしい。
そこでモモカも、野口先生は〝ブラックリリー〟ではなく、まったく関係のない人だとわかって安心したのだった。
モモカは今日も中央線に乗り出勤する。
ふと、ずっと放置していたSNSをみると何か個人メッセージが来ていたので、なんとなく開いてみた。
〔こんにちは。生け花講師の野口の親族にあたるものです。我が家にどんなことがあったのかお知らせ致します。あなたは軽い気持ちで「先生、もう中傷はやめたらどうですか?わたし、見てました」と、いつか書き込みをされましたね。あなたの投稿が元になり、〝ブラックリリー〟というアカウントを特定しようという動きが激化したんです。あなたは、特に自分の身元を明かすような投稿はしていませんでした。しかし、「雹が降ってきた!」とか、「今揺れたの気のせい?地震?」「今日は久しぶりに本町で生け花教室」などの投稿で、ある程度の地域は絞りこめるものです。そういうのが得意な人達が絞りこんでいって、母の存在は世間に知られることになりました。〕
〔『この相手は悪い人間だから、叩いて良い対象である』という大義名分があったとき、人はどこまでも陰湿で残酷になれることをご存知でしょうか?母の住んでいた家は〝ブラックリリー〟の家だとしてネット上にあげられ、ゴミを投げ入れられ、窓ガラスは割られ、昼夜問わずインターホンが鳴りドアに落書きまでされました。行く先々で暴言を吐かれました。どれだけ『知らない』と言ったところで、悪魔の証明、やっていないことの証明ほど難しいことはありません。正義感の人びとは〝ブラックリリー〟に鉄槌を下そうと母を追い回し、汚く罵り、怯える様子を動画で撮影されました。警察に話したところで、パトロールが少々増えるくらいのもんです。正義感の人びとは、自分は正義のため動いていると、若くてかわいい菜津美先生を悪から守ろうとしているのだ!と思い込んでいます。数人捕まえましたが、どう説得をしてもわかってもらえませんでした。母は体調を崩し、めっきり老け込んで、外に出ることを恐れるようになりました。〕
モモカはその文章を読みながら、全身を冷たい汗に覆われていた。
〔残念なことに母はその件から痴呆が進み、今では親族も誰の顔もわかりません。母は老後に生け花の教室で人に教えることを、人生の楽しみだと、生きがいだとしていました。どうしてこんなことになってしまったんでしょう?母は何か悪いことをしたでしょうか?〕
〔しかし、あなたに恨み言を言いたいわけではありません。いまさら警察に言ったところで、罪になるかなんて怪しいし、なったところで微罪でしょう。
「先生、もう中傷はやめたらどうですか?わたし、見てました」と、あなたは書き込みましたね。スマホの画面を見られても不思議じゃない場所として、それは電車で移動中だったのではないかと考えられます。母がスマホをさわっているところでも見たのでしょう。母は、最近の若い人の気持ちも知ろうと、若い人に人気の生け花動画なども積極的に見ていました。知ろうとしていました。あの書き込みの日から判断して、母が乗った路線はわかります。あなたの投稿から、あなたが新宿に通勤されている路線も絞り込むことができました。中央線ですね。〕
〔あなたに謝罪は求めません。ただ、わたしも、このどうにもやり切れない気持ちをネット上に吐露しました。今では、わたしの怒りに賛同してくださる人も増えました。いわれのない罪、冤罪で〝ブラックリリー〟だと誤解され、攻撃され、家も名誉も尊厳も傷つけられた母の話に、たくさんの方が怒りと共感を覚えてくださいました。再度になりますが、あなたに謝罪は求めません。〕
〔ただ、母がどんな気持ちを味わったか、あなたにもわかっていただきたいと思っております。〕
モモカは顔を上げた。その車両内の全員が、じっとりこちらを睨んでいた。わたしが見られているのだとわかる。皆、スマホのカメラをこちらに向けている。年齢は様々、表情が無いような奇妙な顔をしていた。
SNSにまたメッセージがひとつ来た。
〔はじめまして〕
はじめまして みーこ @miipyan
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