はじめまして
みーこ
アンチ
市村モモカは、国分寺駅の入口近くにあるビルの生け花教室に通い始めて二ヶ月になる。二ヶ月とはいえ、二週に一度なのでペースはゆっくりだ。講師の先生は穏やかで上品なおばあちゃんで、名を野口百合という。この先生は、一生のうちに何かに怒ったことなどあるのだろうか?と思うくらいに温厚で、いつもおっとりとして控えめであり、かつては名門のお嬢様学校に通っていたらしく、話し言葉もとても上品だ。
覚えの悪い初心者にも、丁寧に何度でも教えてくれる。モモカの仕事が新宿歌舞伎町のキャバクラ嬢だったと知っても、野口先生は気にせず接してくれた。モモカは野口先生がまあまあ好きだったし、生け花教室は思っていたよりもずっと楽しかった。
先日、モモカが仕事に向かう途中のある日、野口先生を中央線の電車の中で見かけた。野口先生は何か行事にでもお呼ばれしたのか、美しい和服を着こなして背筋をぴしりと伸ばしている。やはり上品な人だな、と思う。その手元にはスマートフォンがあり、なんだか違和感があっておもしろい。老眼鏡をかけてその画面に見入っている。
モモカはちょうど野口先生の前に立つ形になったので、挨拶をしようと思ったが、生け花教室に行く時とは服装も髪型も違うし、化粧だって濃い、カラコンだってしているし、挨拶をしていいものか迷った。モモカは二週に一度の生徒の一人。まだ二ヶ月と日も浅いので、野口先生には顔を覚えられていない可能性だってある。
まあ、わたしに気がついたら挨拶をしよう。そう思って何気なく野口先生のスマホを見下ろした。
野口先生が開いていたのは、最近流行りのバーチャル配信者「おはなの菜津美先生」のSNSだった。
菜津美先生───モモカが生け花をやってみようと思ったのも、ネット上の教室「おはなの菜津美先生」の動画からだ。その講師であり、バーチャル配信者でもある〝菜津美先生〟は、男女問わず人気があり、チャンネル登録者数は数百万人。生け花動画も、どれも何十万回と再生されていた。他に同じような配信者はそんなおらず、独創的であり基礎もしっかりした生け花と、かわいらしい声にバーチャルのキャラクターも相まって、生け花界隈では一番の人気配信者だ。
英語も堪能で、海外からも人気が高い。その収益は、動画一本でもひと月でびっくりの金額になるのだとか。新宿歌舞伎町のキャバクラ嬢でも、そんな金額ひと握りしかいないだろう。
最初、モモカもその菜津美先生きっかけで生け花に興味を持ち、百均で安い鋏や剣山もどきを買ってはみたものの、ネットの動画では個人的な質問はできないので、やはり生け花の細かなところはわからない。そこで近くにある野口先生の教室にたどり着いたのだった。
野口先生は険しい目つきで、そのバーチャル配信者の菜津美先生のSNSを食い入るように見ている。
モモカは、はっと思いあたった。
バーチャル配信者菜津美先生には、その人気の反面、アンチと呼ばれる人達もいた。アンチの人達は、動画のコメントやSNSの投稿に執拗に誹謗中傷をする。生け花の技量、公開されていないはずの家族構成や、ほんの少し滑舌の悪いふにゃりとした発音の癖、言葉遣い、色彩センスなど、ありとあらゆることが酷い中傷の的になった。見ていていい気持ちはしないし、どうして毎日そんなに人の粗探しが出来るんだろうと思い、モモカ自身も昔、夜職の掲示板でひどい悪口を言われたことも思い出して、背筋が寒くなった。
菜津美先生のアンチの筆頭こそ、〝ブラックリリー〟というアカウントだった。〝ブラックリリー〟は、投稿のすべてが菜津美先生への誹謗中傷、その中傷は朝から晩まで続き、普通そんなに嫌いだったら投稿も動画もわざわざ見に行かないだろう。誹謗中傷という行為にも飽きるはずだ。しかしその〝ブラックリリー〟だけは、もう一年以上毎日、日に何件も、菜津美先生への誹謗中傷だけを投稿し続けていた。菜津美先生の方はというと、〝ブラックリリー〟の発言をミュートしているのか、それに対するリアクションは全くなかったが、誹謗中傷で自殺した芸能人もいるようなこのご時世に、よくこれだけの熱意で人を叩けるなぁと思う。
〝ブラックリリー〟の凄まじいところは、その粘着質だけでなく生け花自体の知識もかなり豊富なところだった。菜津美先生を庇おうと下手に意見しようものなら、その豊富な花の知識でコテンパンにのされてしまう。
投稿からわかることは、〝ブラックリリー〟は豊富な生け花の知識があり、技量もある人間。生け花講師の経験もあるらしい。朝から晩まで投稿できる立場にある、つまり会社員ではないようだ。言葉遣いからある程度の年齢であることがわかるし、絶対に身元がバレないように気遣いながら投稿しているのがわかる。刑事事件になるような発言はせず、品良く鋭い切れ味で中傷している。
このことから、〝ブラックリリー〟が用心深く、手強い相手ということがわかる。
何となく自分より若い女が、影響力もあってかわいくて、気に入らなくて潰してやろうと思っている気がする。若さに対してのものすごいコンプレックスを感じるのだ。
〝ブラックリリー〟の正体を暴こうとした人間もいたにはいたが、結局何も探れなかったという。
もしかして───モモカは思う。目の前にいる野口先生こそ〝ブラックリリー〟では?すべての条件が揃っている。その上、教室を開いているほどの野口先生が、いまさら若手の初心者向けの生け花動画を見る必要性はない。さらに野口先生の下の名前は百合、リリーは百合の英語名だったはずだ。
いや、まさかね。
こんなに穏やかで優しい野口先生が、誹謗中傷を繰り返す〝ブラックリリー〟であるはずがない。降りる駅が来たので、モモカはなんとなくモヤモヤとした気持ちのまま電車を降りた。
仕事終わりの明け方、菜津美先生のSNSを見てみるとやはり〝ブラックリリー〟が誹謗中傷のコメントをしている。時刻はちょうど出勤前、野口先生と電車で出くわしたあたりだ。
モモカは軽い気持ちと少しの正義感で、その〝ブラックリリー〟にコメントを書き込んでみることにした。「先生、もう中傷はやめたらどうですか?わたし、見てました」。これで〝ブラックリリー〟への牽制になって、中傷をやめればそれでいい。このことは誰にも言わず、自分の中で閉まっておこうとモモカは思った。
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