春の夜、子宮に願う。
瑛
第1話
毎日、よそったご飯に少しずつ洗剤を混ぜたり、旦那の服だけくっつけて干したり、私の復讐といえばそんな可愛いものでした。
私たち夫婦はデキ婚で、当時はお互いにまだ二十代も半ば。妊娠を告げた時、面倒くささを存分に含んだため息とともに「結婚する?」とひと言だけ。そんなつまらない馴れ初めです。
けれど、子どもは産まれてくることなく、私の羊水の中をぷかぷか泳ぎ、短い一生を終えました。
旦那はといえば、デキ婚なのに責任もって結婚までして偉いね。子どもが流れたのに、離婚もせず、心を病んだ奥さんと添い遂げるつもりなんて、偉いね。そう言われ、周囲は旦那を聖人のように扱いました。
それも、私が旦那を恨む理由の一つかもしれません。
ただ、兎に角、旦那が目障りでした。時々、旦那が仕事に行ったあと、ぱたんと閉じられた扉の向こう側に、ギリギリ届かないよう「はやく死ね」と吐くほどに。
それが、ぷつんと、殺意に変わったのです。
切っ掛けは些細なことです。旦那の「それぐらいで」というたった一言が、それまで無理やり押さえ込んでいた呪いの釜の蓋を、吹き飛ばしてしまいました。
だから、旦那を殺しました。仕事から帰ってくるタイミングを見計らい、旦那を後ろからひと思いに轢き殺したのです。ぐったりと倒れ込み動かない旦那を見て、心は澄み渡っていました。
私は車を駐車場に戻し、旦那の死体をそのままにして、近所の公園を目指しました。逃げるつもりはありませんでしたが、最後にもう一度、桜を見たかったのです。
その途中、真っ白な猫が一匹、私を横切りました。
猫はふらふらとした足取りで、交差点へと進んで行きましたが、私はそれを慌てて追いかけました。カーブミラーから、車が近付いているのが見えたのです。
なんとか間に合い猫を抱きかかえると、思ったよりもずっしりと重く、お腹に膨らみがありました。
車は私たちに気が付かず、そのまま通り過ぎていきました。
私は猫をゆっくり降ろし、「元気な子を産むんだよ」と声を掛けました。猫は私には目もくれず、いそいそと覚束無い足取りで暗闇に消えていきました。
それから、数分歩いた頃、公園に辿り着きました。
公園には大きな桜の木が何本も立ち並び、遊具もない小さな公園を薄紅に染め上げていて、とても綺麗だったことを覚えています。
すぐ側のベンチに腰掛け、桜を見あげていると、ひとりの見知らぬ青年が隣に座りました。
「こんばんは。夜桜で花見ですか」
「……ええ、そんなところです」
青年はゆるく口角をあげると、足元の花びらを一枚拾い上げ「僕も花見です」と言いました。
「この公園、結構穴場スポットですよね。みんなわざわざ遠くの桜を見に行くけど、僕はここの桜がいちばん好きだなぁ」
「私もこの桜が、いちばん好きです」
しばらく、二人で桜を眺めていました。何故、見知らぬ青年と、夜に花見なんていう状況になったのか。
それでも不思議と穏やかな空気がそこらじゅうにまとわりついて、そのせいか、ついつい「お酒が欲しいですね」なんて口をついて出てしまったのです。
「いいですね、花見と言えばお酒にご馳走!」
私はスマホのポケットを取りだし、デリバリーのサイトを開きました。青年はしばらくじっと画面を見つめたあとに「ピザにしない?」と言いました。
その時ふと、旦那に対する明確な殺意に切り替わった瞬間を思い出したのです。
今日は時間が無くてご飯が作れなかったの。出前でもいい? と聞けば、じゃあピザが食べたいと旦那が言ったので、その時も一緒にスマホを覗いていました。
けれども旦那は私に何が食べたいかを聞くことなく、さっさと自分の食べたいものだけを二人分注文し、楽しみだなんだと抜かしたのです。
それに怒れば、「それぐらいで」と、そういったのです。
黙り込んだ私を、青年が不安げに見つめていました。
「ピザ、嫌いだった?」
「ううん。大好き。何にする?」
いまどきは一緒に缶ビールも頼めるので、ビールを何本かと、ハーフ&ハーフのLサイズピザを、二枚選びました。一度に四種類も楽しめるね、と楽しげに青年が笑っていました。
それから数十分ほどで配達のお兄さんが「こんばんは」と声をかけて来たのですが、私は、そこで財布を持ってきていないことを思い出しました。
申し訳ない気持ちで青年に打ち明けると、青年は気のいい笑顔で支払ってくれました。
一度、家に帰って財布だけでも取ってこようか。そう思いましたが、遠くの方でサイレンの音が響いていたので、今帰れば確実に捕まるなぁと、呑気に思っていたのです。何だか勿体無い気がしたので、ピザを食べきってしまってからでもいいか、と思いました。
缶ビールのタブに爪を引っ掛けながら、青年は苦戦していました。私はお礼代わりにそれを開けてやり、自分の分の缶ビールも開けました。
二人で乾杯を交し、もくもくとピザを食べ、三十分くらい時間をかけて缶ビールを飲み切りました。
特に会話はなく、はらりと踊りながら落ちる薄桃色を、綺麗だなぁと見つめていたのです。
食べ終えて、備え付けのゴミ箱に空き箱と空き缶を捨て、青年は「たのしかった」と手を振りました。
なんとなく、さよならの雰囲気で、つい「お金、返すよ」と言ったのですが、青年は首を振りました。
「いらない。僕、本当に楽しかったよ、ずっと。だから、それがお金の替わりってことで。じゃあね!」
くるりと振り返り掛けていく後ろ姿。何となく、風にゆれる青年の後頭部が、急に愛おしく感じたのです。
お腹の奥底がずくりと痛みました。
しばらく茫然と、立ち竦んでいたと思います。巡回していたひとりのお巡りさんが声を掛けて来て、私はそのまま自首しました。
お巡りさん、私は、旦那を殺したことを後悔していません。けれど、けれどひとつだけ。もういちど、彼の子を宿してから殺せばよかったと、そうすれば、あの青年に会える気がするのです。
だって、あの青年はたぶん。
春の夜、子宮に願う。 瑛 @q8_gao
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