44.あの五月の河で出会った貝がらみたいな君に、このメロディを贈ろう。
†
翌日、結局二週間近くサボってしまった学校に、四時を回ってから脚を踏み入れた。
特別棟三階の一番奥にまで、ぱたぱたと色気のない音を立てて歩いた。音楽準備室に、今日は表のほうのドアから踏み込む。そして、中で待ち受けていたつっつぁんに無断長期欠席の謝罪と、退部届を提出した。
「坂井。無理だけはするなよ?」
らしくもないつっつぁんのセリフに、私は「大丈夫ですよ」と笑って準備室を後にした。
他の部員は、すでにそれぞれの練習場所に移動してしまっている。まあ、その時間をねらってきたんだけどね。
中に誰もいないのを確認してから音楽室に入った。そして、一番奥にある、楽器庫の重い扉を開けた。
「久しぶりだね」
もう一人の「相棒」に声を掛ける。カヴァー越しに触れると、「まってたよ」とでもいうかのような温もりを伝えてくれる。単に気温が高いってだけかも知れないけど。
私は弦を袋から取り出すと、非常階段に持ち出すことにした。もともと私は滅多に個人レッスンルームを利用しない。音響を堪能するには廊下で弾くのが一番なのだけれど、今日は緑の景色にまみれて音を送り出したかった。
Psyに、そして〈姫〉に音を届けたかったから。
通いなれた廊下を渡る。バスのネックをつかんで、左手に個人レッスンルームを見ながら、ゆっくりと。
普通科の生徒は、音楽、美術、書道の選択科目の中から、一教科だけをえらんで受講するんだけど、私は書道を選択しているから、もう余程のことがない限り、ここに来ることはなくなる。
ふ、と。
風が吹いた気がした。
顔を上げる。
目の前に、わずかばかり息をはずませた女生徒が立っていた。
音楽室とは廊下をはさんで反対の突き当りにある、第三練習室。そこから駆け出てきたんだろう。キレイなロングのストレートヘアを乱して、涙ぐんで。右手から差し込む、あざやかなオレンジ色の太陽の光に包まれて。
「ナコ」
「妙……」
胸を押さえて、キレイな顔をゆがめている、ベースパートのパート・リーダーである、美奈子の顔をじっと見つめた。
そして、笑いかけた。
「今、退部届だしてきた」
「なんで……」
「お互い、その方がいい」
くしゃりと、ナコの顔がゆがむ。ぽろぽろと涙がこぼれ落ちた。
「どうして、なんで……」
「なんでって」
思わず苦笑で私の顔も歪む。まだだ。まだ耐えろ。
「限界まで我慢してみたけどさ、する必要ないよね、我慢」
「――わ、わたしの、わたしのこと、そんなに嫌いなの……?」
ぎゅっと、奥歯を噛みしめる。
「あんた個人が嫌いだったワケじゃない。でもな、私は、一方的な独占欲を向けられたり、がんじがらめにされるのだけは、どうしてもムリなんだ。そんな風に思われて、勝手に私に溺れられて、私は、息がつまりそうだった」
「わたしが……せ、聖ミの、宮川さんなら、よかったの……?」
俯き、顔を両手で覆ってすすりなくナコに、私は最後の言葉をなげる。
「親友だと、思ってたよ、信じてたよ、あんたのことは。だから、あんたと宮澤くんにだけは佐久間さんのこと話したんだ。でもさ、あんな写真ばら撒かれて、佐久間さんにもすごい迷惑かけるところだった。――あんた、あれで私と佐久間さんが関われなくなるように仕向けたつもりだったんでしょ?」
「だってイヤだったんだもん!」
悲鳴のような叫びに、思わず舌打ちが出そうになる。
「勝手な誤解で、あんなことされて、私がここに帰ってくると思ったわけ?」
「思わなかったわよ!」
ナコは涙顔を上げて叫んだ。
「何したって、妙はもう、わたしのことなんか好きになってくれないじゃない!」
拳を握りしめて、ぎゅっと目を閉じて、耐えた。
「ねぇナコ……相手と自分との距離を、ちゃんと把握できない人間同士の間には、恋愛だけじゃなくて、友情も存在できないんだよ」
ナコは、は、とした顔をあげて、数瞬、ほうけた。それから、見る見る顔を歪めて、
とぼとぼと、頼りない背中と足取りを見送る。
さよなら、ナコ。
「――私は、私が息のしやすい場所で泳ぐわ」
彼女が行ってしまうのを少しだけ見送って、もう一度「相棒」を抱え直すと非常階段へのガラス扉に手を掛けた。
開けたとたん、心地好い風が顔に吹き付けた。西の空が少し曇っている。この調子だと帰宅するころには雨が降りそうだ。湿気には気を付けないといけない。楽器が傷んでしまう。
弓に塗りつける
コントラバスで奏でる「G線上のアリア」は、まるでぬるま湯の底のような感触を与える。耳慣れた旋律を三度繰り返して弾き終えたとき、気付くと世界は雨に包まれていた。暖かな風景。きっと私の代わりに、彼女等のため、世界が泣いてくれたんだろう。
貝がらみたいだったのは、あなただったのかな。
それとも、私?
もう、今となっては答えを出すこともできないけれど、ただひとつだけ、祈りたい。
どうか、あの五月の日の私達に、このメロディがとどきますように、と。
ふいに背後で、かたりと音がした。振り返ると、ガラスの扉一枚隔てた廊下側に、宮澤君の姿がある。
ささやくような雨が、辺りに漂っている。しばらく私達は無言で向かい合っていたのだけれど、やがて宮澤君の顔がくしゃくしゃに歪んで、ぼろぼろと涙が零れた。
「――おかえりなさい」
ガラス越しにくぐもった声が、温かく響く。
ああ。やっと彼の言葉が、本当に私に向けられた言葉として聞こえる。それは、こんなにも温かいものだったのか。
そう。ここが、私の故郷。
故郷っていうのは、生まれて、生きてきた場所のことだ。そこでおぼえた様々なことが、過去になって、はじめてそれは郷愁になる。スリッパの立てる騒音も、「ギャラリー」に降り注ぐ西日も、今日の別れも、何もかも。
これから、私が手に入れてゆく未来。
宮澤君が私のために流してくれている涙も、この雨も、やがて私の中で本物の郷愁に変わるのだろう。
ああ、これでやっと。
やっと、私の音楽ができる場所に帰れるんだ。
自然と穏やかな笑みが零れた。
「ただいま」
†
私が彼女と出会ったのは、白々とした、河川敷だった。
その時のことを思い出そうとしても、なぜだかうまくいかない。けんめいに、手のひらですくい取ろうとするのだけれど、そこにあらわれる記憶は、とても断片的なものに
初めて出会ったあの時。
私は、川の流れに身体をひたしていた。
目蓋を閉じて、服を着たまま、ひたひたと水に打たれていた。
世界は光に満ち、全ての境界は曖昧になっていた。
あれもまた、母さんを訪ねた直後だった。その日もまた、母に「あなた」と呼ばれ、父を見る目で見つめられ、私は私が私であることを見失っていた。
そのまま、遠いどこかまで流されてしまいたかった。
そんな時に、彼女は私に声を掛けてきたのだ。
――あなたは、一体誰?
水の中から微笑みかけると、彼女もまた、困ったように笑った。
彼女は、憶えているだろうか? その直後に、小さな声で私に問うたことを。
――母さん……?
と。
あの時は答えられなかったけれど、今なら、ちゃんと答えられる。
――違う。
――私は、私。
つかの間だったけれど、あなたと出会えてよかった。
私は今、私という人間の、内と外との境界線上にいる。
時の流れに境界があると感じるのは、幻想に過ぎないのかも知れない。確かに、過ぎ去った時間を人間は認識しているけれど、そこに質量は存在しない。決して手に触れることはない。だけれど、存在する。そのライン上を、音楽は静かにすり抜けてゆく。記憶と記憶を、やさしく結びつけながら。
私は、この先も、きっと、ずっと弾き続けることだろう。
Psyの遺言がまだ、胸に残っている。
『私はまだ生きています
あなたはまだ生きていますか?』
私はまだ生きています。
あなたもまだ生きていますよ。
(了)
あの五月の河で出会った貝がらみたいな君に、このメロディを贈ろう。 珠邑ミト @mitotamamura
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