9.ここが、私の故郷

43.境界線の終わり



 私の部屋は、冷たい月のにおいの底に沈んでいた。まるで、ぽっかりとあいたエアポケットのよう。そこで過ごした私達二人のわずかな日々は、しずかで悲しく、また境界の存在しない世界だった。

 おだやかな〈姫〉の声が、耳の奥によみがえる。



 ――ねぇ。人って、本当に、純粋にその人そのものを見られると思う?  

 多分ね、そんなこと、できはしないんだよ。

 人ってね、知恵と思い出を蓄積するものなの。だから、人間ならばしかたないのよ。

 誰かの中に、他の誰かの面影をさがしてしまうの。

 どうしても、さがしてしまうの。

 こうも言えるかも知れない。

 人は人を「人間」という枠で見ているのではなくて、その辺にあるコップや、季節、それに風景やにおいとおんなじ、一つの切欠きっかけとしてとらえているのかも知れない。たくさんの記憶や思い出を手繰りよせてくれる、一つの装置。本当は、そんな程度のものでしかないのかも。

 あたしね、人が人を愛する理由も、そんなようなものだと思う。つまり、愛する人っていうのは、「もっとも心地よい記憶を引きずり出してくれる装置」なんじゃないかって。

 だって、人間て、他人の心を本当に独立したものとして考えられると思う? 自分の心ですら理解できはしないのに、人の心まで現実として理解できていると思う? 


 人間は愛を信じているから、結局本当には、他者の中に自分と同じく独立した個我が存在するなんて認められないの。そういう生き物なの。でもそれでいいじゃない。あなたとあたしとは別個の存在だけれど、そうだと言い張ることはないのよ。いいじゃない。そんな部分は曖昧なままで。それは、お互いを思っているからじゃない。

 それだって、充分倖せだと思わない? ねぇ。

 ところで、

 じゃあ、あなたとは、一体誰?

 内も外も激しく入れ代わり立ち代わるあたし達を、別個の存在にしているものは、何だと思う?


 、なのよ。


 あなたが閉じこもるのも、他人が認められる表面上のものに過ぎないあなたも、どちらもあなたの。器が、あなた自身なの。


 だから、それを曖昧にしてはだめ。



 ……あなたの膝の上で微睡まどろみながら、私はずっとそんな言葉を聞いていたね。

 でも、その言葉を紡いでいたのは、私が〈姫〉と呼んでいたのは。

 果たして本当にステルだけだったのだろうか。


 あなたは、本当は、一体誰だったの?


          †


 季節は、少しずつ動いている。


 じんわりと太陽が肌をあたためる。それは少し熱いほどで、しかしそれこそが私を生かしているものの正体なんだろうな。空気はほどよく湿り、私の肺を満たす。水気は、分別を失った執着のように、世界との密着間を高める。境界が、曖昧になる。


 そんな日曜のある日だった。ママの見舞いに行きがてら、ぶらぶらと散歩をしていた私は、やがてあの河川敷に差しかかった。


 それは、〈姫〉と出逢った場所でもあり、義仁よしひと先輩と二人して倒れこんだ場所でもある。そこで私は思わぬ人と再会した。


 義仁先輩だった。


 土手に寝転がっていた先輩は、相変わらずのだらだらした格好で、思わず笑ってしまった。私の笑い声に気付いて振り返った先輩の表情がまた、呆けていて、おかしかった。


 今日の私は「肉色の花カーネーション」色したワンピースをまとっている。


「こんにちは」


 私のほうから挨拶をしたことに、先輩は驚いたようだった。それから少しだけ微笑んで「こんにちは」と返してくれた。


「ちょっとは俺に慣れたのかな?」

「元々先輩みたいな人には慣れてるんです」

「……どういうこと?」

「だって、先輩、父さんそっくりなんだもの」

「ああ……」


 バツが悪そうに苦笑しながら、義仁先輩はゆっくりと起き上がった。



 二人ならんで座った。

 ふと、視界の先で、黄色い風船が飛んでゆくのが見えた。風が通り過ぎてゆくのが、それで分かる。


「ああ、そうだ」


 先輩は、やおらかたわらにおいていた鞄を取り上げ、中から一冊の本を取り出した。白い表紙が光を受けて反射する。

 きらりと。


「先輩――それ」


 義仁先輩はにこりと笑み、私のほうに差し出した。


「佐久間さんから。妙に渡してくれって」


 それは、【The vergeヴァージ ofオブ She’llシェル】だった。


「それって、父さんとPsyさんのことが書いてある……」

「そう。【小説・アゲハ】の裏話エッセイ。第三章のとこに、楽さんの言葉がのってる」


 私は本を受け取った。大した厚みもないはずのその書籍は、なぜか、ずしりと手に重い。乾いた紙片を捲り、ページを確かめてみると、第三章のちょうど頭にスピン(しおり紐)が挟まれていた。


「空気の振動は結界のように人を包む……」


 先輩が冒頭部分を暗誦あんしょうした。



[――空気の振動は、結界のように人を包む。


 つまり、「音」とは空気に溶けるものなので、こごった「音」が無闇矢鱈むやみやたらと放出されたあかつきには、空気が汚れて、全人類の肺がイカれる。それはすでに公害だ。だからやめてもらいたい。


 下らない「音」をき散らすのは、大抵が精神的若造である。連中と音楽をやるというのは、それはそれは根性と忍耐を必要とすることであって、そのハードさ加減は、実に子育て並みだと思う。そして未熟者を見護るのに根性が必要なのは、己自身もガキだからだ(そんなことは、重々承知している)。ガキは成長するごとに、成長していない奴に対して寛容ではなくなる。半端な成長をした者ほど、他人の欠点が許しがたくなるものなのだ。だから、いつまでも「精神的若造」のままではダメだということだ。


 彼等はよく「音楽」を「手段」と勘違いしている。


 「情熱をかたむける」という美しい大義名分でカバーされたその行為は、ストレス発散とか、性欲発散とか、それから他にも色々あるけれど、つまりはそういった諸々に他ならない。

 

 それは、根本的なところで、全く間違っているんだ。


 「音楽」というのは、ローマのいにしえから教養自由七科に加えられている、由緒正しい「科学」なのだ。「手段」扱いなんてナメたマネをしていたら、ミューズのお怒りを買ってしまうし、なんなら大神ゼウスに雷を落されるハメになるぞと言ってやりたい。


 「音楽をやる」というのは、果てしない修行の道程のもと、苦渋をめ続けるということだ。


 そして忘れてはいけない。

 でも、それでもやめられない。それこそ、音楽が音楽たるゆえんなのだ。


 そしてこれは、俺個人の判断であるに過ぎない。

 俺とPsyは音楽上の思想において対立している。もしかしたら、それは人間として対立しているということに他ならないかも知れない。性別も異なる。生きた時代にも多少のズレがある。だけれど、二つの異なるものの狭間にこそ、真実は生まれるはずだ。

 俺達は、そのことを信じている。だから己の道を行けるのだ。]



 私は溜息をつきながら本を閉じた。


「こんなところに――父さんはいたんだ」


 私の頭の中に響き続けていた言葉は、この白い本の中に書き留められていて、私だけでない、世の中の、たくさんの人に手渡されていたんだ。


「それは、楽さんが残した〈真実〉であり、「遺書」なんだろうな。対立しても共存できる。そこにこそ新しい〈真実〉は生まれる――俺は、そんなふうに思ってるけど。きっとPsyさんも同じ思いだったんだろうな」

「うん……」

「壁を取り払ってた楽さんと、壁をつくらずにはいられなかったPsyさんと。このタイトルは、二人のために捧げられたものなんだと俺は思う。【The verge of She’ll】ってのは、「彼女の未来の果て」でもあり「境界線さかいめの終わり」でもあるからさ」


 さらさらと水が流れている。


 あの部屋で見たPsyの映像のことを思い出した。

 映像で見たPsyは、確かに他人と自分との間に壁を立てている感じだった。きっと実際に会えていたら、もっと強くそう感じただろう。


 そしてその壁は、彼女が望んで立てたものではなかったのじゃないかと思う。

 不可抗力で潰しようのない壁だから、きっと彼女は「歌」という手段で、書いた言葉を表に吐き出したんだろう。「音楽」という手法を用い、彼女なりに、世界を理解しようと努めて、それを音の形に再現して、人に送り続けた。きっと、とてもやさしい心を。


 あなたと自分は違うから、壁があるから尊重できるんだ。


 彼女はそうやって、テレパシーのように人々の心に「歌」を送り続けたんだろう。だから皆が彼女の音楽と、人とナリとを愛した。彼女は、きっと本当の意味で、自由だった。


 音希の場合、彼女は自分が求める「極められた音楽世界」を、一途に追ってる。その祈りは焼け付くような激しさで、私は時折、嫌悪感と綯交ないまぜの恐れに呑まれたりもする。


 私に、そんなやり方はできない。音希だけじゃない。《WEST‐GO》のメンバーの誰とも私の音楽は合わない。それは正否の問題ではなくて、アプローチの問題だったんだって、今ならわかる。


 私達の生き方が違うのは、当たり前の話なのだ。それぞれが間違っていなくて、そしてどちらも正しくない。そして私は音希と同じ理想は追って行けない。行く気がない。


 それでいい。それで万事が上手くまわる。

 ふと、高く掠れた音がした。見やると、先輩が静かに口笛を吹いている。【evanescent】だった。


「――先輩は、もう大丈夫?」

「俺?」

「うん、もう、弦弾ける?」


 先輩は少し黙ってから、そうだな、と、ぽつりとこぼした。


「そろそろ、本当に大丈夫かも知れない。楽さんのこともPsyさんのこともひっくるめて、大丈夫にできるかも知れない」


 それから、「俺は恐かったんだよ」、と言った。


「恐い?」

「そう。音楽というものが内包している、力がね。本当は、ずっと恐かったんだ。Psyさんを見ていても、楽さんを見ていても、同じだけ俺は恐かった。今回のことが起きて、俺は、人間が音楽を求める理由が、ひどく恐ろしくなってしまった。音楽という存在が人間の内側に引き起こすものが。あれは、人の内側から生まれて、人の内側に流れ込む。流れ込んだそれは、時に――」


 ――妄想と狂気を呼び覚ますから――。


 そう言って、先輩は手のひらに乗せた空き缶をそっと土の上においた。


「先輩は、強いね」

「え」

「恐くなったぐらいならいいじゃない。音楽は元々恐いものだもの。――私は、一体何が音楽なのか、わからなくなっちゃった」

「妙……」

「音楽は、突きつめてみれば、やっぱり人間のものだと、思う。音楽そのものは人間の所有物じゃなくて、ただそこに存在している独立したものなんだと幾ら声高に言っても、音階を編み出して、それを意図的に表現し得るのは、やっぱり人間だけだもの。でも、それで表現者は一体何をしているの? 何かを伝えようと躍起やっきになっても、受け取り手はそれを真っ直ぐに受け取ってくれるわけじゃないでしょ? その結果、Psyの音楽は歪んだ形で人の内側に入り、それは、父さんを殺してしまった……」


 はた、と涙が落ちた。先輩の動きが鈍り、そして停まった。

 はたはたはたはた、次から次へと涙が落ちてくる。先輩は起き上がり、私のところまできて肩を抱いた。頭を先輩の胸に預けると、自然意識は掠れてゆく。先輩の胸は、熱かった。


 音楽は確かに力を持っている。強い何かを人の中に呼び覚ます。望む、望まざるとに関わらず、人に強烈なものを伝える。だけれど、こんな世界で何を伝えろと言うのだろう。私に何が伝えられると言うのか。また爾志オケで音だけがシンクロしたに過ぎない、惰性に適当さを重ねた欺瞞の合奏をするだけの、この半年間の毎日に戻るの?


「おとーさん」

「――うん」

「つらいよ」

「ああ」

「こんなままじゃ私もう弾けないよ……!」

「妙は、どうして弦を弾くんだ?」


 胸からびりびりと直接に響く音。

 なつかしい振動。


 親父の胸に抱かれるほど幼かったころ、この感触を私はこの上なく愛しんだ。この振動と、弦が身体を震わせて生み出す響きは、例えようがないほど似ている。義仁先輩の姿も、手も、一度見ただけでわかったプレイの癖も、そして声までもが親父にそっくりで、あまりに似過ぎていたから私は彼を避けた。


 彼は、私のことを最も外側から眺めていた。そして、私自身を表に引きずり出してくれた。


 泣きながら。必死に。


「……弦を弾くこと、それ自体が、倖せそのものだったのよ」

「なら、しんどい間は、むりに弾かなくていい」

「――……。」


 ああ、そうか。

 何気ない今の一言で、すとん、と落ちた。それは、私の意思を縛るものに気付かせてくれた。親父が何度も何度も私の中で叫んでいた、あの一言。


 でも、。それこそ、音楽が音楽たるなのだ。


「しんどくても、弾かずにはいられないから、やっぱり、私は弾いていくんだと思う」


 理屈じゃないんだ。

 顔を離してみると、染みのできた義仁先輩の胸は、濃いベージュと薄いベージュと、英語のレタリングで、ヘンだった。思わず笑って、ぽろぽろと涙の残滓ざんしが零れ落ちた。義仁先輩を見上げれば、彼も笑っていた。


 ラクだった。


 何も解決なんかしていないけれど、私を閉じ込めて張りつめていた膜は、今やっと私自身のものになって返ってきた。


 私は、泣くと心が壊れてしまうと心の片隅で思っていた。それほど母さんは派手な壊れ方をしたから。でも、私は泣いて枯れ切ったって壊れないよ。だって私の中には、幸福のかけらだってちゃんと残ってる。何があったって、私達家族が紡いだ低重音の温もりは消えないもの。親父を殺した、顔を見ることも名前を知ることもなかったガキ共のせいで、「顔も正体もない痛み」に飼い殺されている気にはなるけど。でも結局それを飼いならせるのは他でもない私、ただ一人だけなんだ。


 大丈夫。私は、決して壊れたりしない。


「大丈夫そう、だな」

「うん」


 確認しながら見下ろす先輩の目に、頷いて返した。

 ヘーゼル色の二つのひとみの中に、私が映っている。父でもなく、母でもなく、私がそこにいた。


「ねぇ先輩」

「ん?」

「先輩って、佐久間さくまさんの従兄弟ってことは、親父とも同郷ってこと、だよね?」

「――ああ」

「私ね、母さんが親父と結婚する前に、旦那さんがいたこと、知ってるんだよね」

「――……。」

「その人とは死別して、子どもがいたってことも」

「……妙」



「ね。彩子さいこさんって、わたしの姉さんだったんだね」



「……気付いてたのか」

「だって、華月さん、マンションで私の後ろ姿見てPsyって間違えるし、私のことPsyに似てるって、メイクしながら涙ぐむんだもん。さすがに気付くよ」


 先輩は「ぶはっ」と噴き出した。


「違いないわ、確かに」

「――それにね、ステルって、どこか母さんに似てたもの。あの繊細さも儚さも。ステルも多分、私に母さんを感じてたんだと思う。だからお互いに引き合ったんだね、きっと」


 先輩は、「ふふっ」と笑った。


「名探偵、ここでついに登場って感じだな」

「探偵は先輩じゃなかったの?」

「俺はただ単にいきさつを全部知ってたってだけだ。なーんにも推理なんかしてないよ」

「違いないわ、確かに」

「――納得するなよ、そこで。せめて少しはフォロー入れようかって気にならんか?」

「残念ながら、正直に育ったもので」


 どこかとぼけた顔で「はあああー。やーっぱ楽さんの子だよ、お前はー」と盛大な溜息をつく義仁先輩を見て、思わず笑ってしまった。


「そういえばさ、俺もひとつだけ推理したこと、あったわ」

「なに?」

「【evanescent】のこと。あの歌って、音階から見て、ステルが歌うための歌だったワケじゃん? だけど、じゃあ一体、誰のために歌う歌だったんだと思う?」

「誰のためって――」

「あの歌詞さぁ、『私はまだ生きています あなたはまだ生きていますか?』っていうの。あれって、お袋さんへの言葉だったんじゃないかな?」


 Psyさんの歌が聞こえる気がする。

 Psyさんの歌は、他人の心を歌ったもの。あの歌はきっと、ステルが母さんにどうしても伝えたかった言葉だったんだろう。


 それはきっと、私の心でもあった。


 晴れ晴れしく澄み渡ってゆく心を感じながら、私はくるりと先輩のほうへ振り返った。


「ね、先輩。母さんのお見舞い。一緒にいく?」


 先輩は笑って、「そのつもりで待ち伏せてたんだよ」と足許の空き缶をひろい上げた。




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