42.私はまだ生きている。



         †


 観客が再びいた。

 鮮やかな光の軌跡きせきが、現実と幻想を結ぶ。

 その光景を直接目の当たりにした人も、テレビや動画配信で目撃した人も、みんな、一緒にこの瞬間を共有しているんだ。

 最初は、舞台に白い花が飛んできたように見えたはずだ。

 だけど、確かにそれは人だった。

 美し過ぎる人影は、まるで実在のものだとは思えなくて。

 でも、確かにそこに人は立っていた。


 それは、〈姫〉と同じ、白のアオザイを着たおとだった。



 投票結果は、


 ①音希さんの歌で新譜を聞き継続希望。69%

 ②音希さんの歌で新譜を聞き継続を希望しない。2%

 ③新譜を聞かず継続を希望。6%

 ④新譜を聞かず継続を希望しない。23%



 音希の歌を聞くことを、希望する声が7割を、超えた。



 音希は、かすかに涙ぐみながら、ステージのセンタースタンドの前に立ち、ゆっくりと頭を下げた。


 海を背景に、さざ波の様に拍手がその音量を増してゆく。それが、だんだんと手拍子に代わり、口笛と、音希の名を呼ぶコールに変わって言った。その中には、Psyを呼ぶ声も混じっていた。


 音希の回復の時間稼ぎと、みんなからの十全な回答をもって、私達は、最後の曲に臨んだ。


 華月さんの、今回の経緯についての説明は、彩子さいこの事情は伏せた上で、療養に入るための緊急引退だったということになった。客席からのどよめきと、メンバーからの謝罪が語られる間、私はバックステージから運んできたPsyのコントラバスの指板をなでた。


 弦楽器というのは、それ一つ一つが全然違う生き物で、運指がほんの0コンマ幾らかズレると致命的な不協和音と失態を呼ぶことになる。こればかりはどうしようもない。完全にこのコを理解するっていうのは、絶対的に不可能な話で、この状況は圧倒的に不利だった。けれど、幸いにして、このコは私が学校に置き去りにしている「相棒」と同一メーカーの物なのだ。


 本日の、愛しい恋人第三号。

 ソロ弦だから、大分いい演奏ができそうだなと薄くほほえむ。


 コントラバスは「歌う」立場としての楽器に回る場合、弦一本一本を一音ずつ高い音に設定するソロ弦に変えることが多いの。なれていない人間には、その変化は辛いのだろうけど、音楽としてのクオリティーは格段に変わる。


 最近では、弓の持ち方についても色々言われていて、これまでは左手でおわんを持つようなやり方のドイツ式のジャーマンボウがコンバスでは主流だったのだけれど、運弓法の良し悪しが説かれ出してから、他の弦楽器同様、フランス式のフレンチボウに持ち帰る人が増えているのだそうだ。そのへんは個人の好みでやればいいと思う。

ただ、私は変える気がないだけの話だ。


 ――【evanescent】

 

 清書された楽譜を思い出す。その冒頭には、【5月15日】と同じく、〈出だしはチェロorストリングベース〉との指示書きがあった。


 息を、吸って、はいた。


 世界を紡ぐために弓を弦に垂直に構えて、金属と馬の尻尾との十字架クロスを形成する。これはコントラバスを弾くたびに、私の心の内側だけで織り成される、ひそかな、ひそかな祈り。


 G線上で、なだめすかすように指をすべり落とす。そっと弓でなでれば、コントラバスは、仔猫のようにかすれた高い声でないてくれる。倍音ばいおんだ。弦を押えるんじゃなくって、触れるだけの状態でやわらかく弓を引くと出せる〈ファルセット〉。コンバスの果てしない可能性。


 ああ、これだから、あなたを手放せないの。

 抱き込むように、Psyが愛したボディを抱いた。


「ベースを弾く時には、恋人を抱きしめるようにして弾くんだ」と最初に教えてくれたのは親父だった。


 改めてコントラバスを抱きしめて痛感する。


 私はまだ生きている。

 生きていたいんだ。


 何だかそんな実感がないまま、この半年を生きて来てしまった気がする。〈姫〉をひろった時、私は一体何をひろったつもりだったのだろう。母さんをひろったつもりだったのだろうか。それとも死にかけた私をひろったつもりだったのだろうか。


 死という喪失によって壊れた心ははかな過ぎた。


 だけど、ステルは代理でも私を求めたし、私を包んでくれた。お互いの存在そのもので癒しあえるなら、これほど理想的な癒しは、そうそうないんじゃないかな?


 私の今日の演奏はレクイエムだ。これでやっと、父の真っ直ぐにいたむことができる。


 音希の歌声に合わせて、最後の伴奏がフェードアウトした時、ふと悟った。人々が心の叫びを綴った歌を愛するのは、こんなふうに生きる日々の端々で「ああ、あの時自分はこういう気持ちだったのか」と、そう気付かせてくれるからなのかも知れない。


 音希は、静かに涙を流しながら、こう締めくくった。



『――ほんとうに。最後まで歌わせてくださって、ありがとうございました』




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