浴槽の人魚

仲原鬱間

浴槽の人魚

 終電で家に帰る。誰もいない1LDKの玄関は少し生臭い。一日分の溜息を吐きつつネクタイを外す。カーテン閉めっぱなしのリビング。コンビニの袋とカバンを置いてテレビをつける。うるさいだけで退屈な番組。気分は紛れないからすぐに消す。

 無音。

 ――ちゃぽん、と水の音が聞こえた気がした。

 メシの前に風呂に入ろう。思い立って、ジャケットをソファの背にかける。ズボンと一緒に脱いだ靴下が、裾からころりと床に転げ落ちた。

 風呂の電気をつけて、磨りガラスの戸を開ける。

「おかえり」

「わぁ、びっくりした」

 暗く濁った冬のプールみたいな色の尾びれが、びたん、と浴槽の縁を叩く。

「今日もお疲れ様」

 ああ、と力なく笑って、蛇口を捻る。

 人魚は整った顔立ちを湯船に浮かべて、悪戯っぽく微笑んでいる。

 狭くないか? 切れかけのシャンプーのポンプを何度も押し込みながら訊けば、

「大丈夫。ちょうどいいよ」

 人魚は古びた扇のような尾を振った。

 お前が住むからって広いとこ借りて良かったよ。

 ――絶対に風呂は広い所がいい。部屋を決める時から、あいつはそう言って譲らなかった。外国のおもちゃみたいなけばけばしい色の入浴剤が、あいつは好きだった。

 膝を抱えないと湯船に浸かれないような物件にしなくて良かった。ボトルに湯を入れて、シャンプーを薄める。

「君はいつも頑張ってるね。えらいえらい」

 ほとんど水になったシャンプーをかぶる。伸びた髪はよく泡立った。

 もっと労えよ。垂れてくる粘性の低い泡に目を瞑り、言う。

「ありがとう。君のお陰で、僕、生活できてるよ」

 ――何だか君ばっかで悪いなぁ。

 全然、俺が好きでやってることだから、お前が気にすることじゃないよ。頭を洗い流し、ボディーソープのポンプを押すも、シャンプーと同様、切れかけのようだった。


     ◆


 海には人魚が棲んでいる。陸には人間が棲んでいるように、これもまた事実である。

 二つの種族は時に恋をした。誓い合った相手と共に在るために、美しい尾鰭を持つ人魚はおかに上がり、水槽やバスタブの中で暮らした。人間は、人魚のいる海辺に家を建てた。人魚が陸で暮らせても、人間が海の中で暮らすことは叶わなかった。

「ねえ、たまには僕も、バスボムを入れた温かいお風呂に入りたいよ」

「お前があんな工業廃水みたいな色の湯に浸かってる間、俺はどうするのさ」

「子供用プール買ってくるからさ、リビングでゆっくりしといてよ」

 別にいいけど。彼が不服そうにエメラルド色の尾鰭を振った時、インターホンが鳴った。

「元彼だったりして。前にここで一緒に住んでたって奴」

「まさか」

 僕は笑って、すっかり人魚の恋人の私室となってしまった風呂場を出た。

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浴槽の人魚 仲原鬱間 @everyday_genki

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