敬助という男がいた。敬助はある朝私の家にやってきて、河川敷に来るように言い残し帰っていった。私は何だろうと思い、特に用事があったわけでもないから、ゆるゆると河川敷に出かけて行った。そして河川敷にやってくると果たしてそこには緑の、豆富のようなマットがいくつか並べてあった。私が土手に立ってその光景を眺めていると、向こうから敬助がやってきてこっちだ、こっちだ、と手招きするから私は敬助のがいる方に向かった。

 敬助のところに行くと、そこにはなんだか布に木の骨を通したような大きなものが置いてあった。敬助はそれを指してこれは凧だと言った。私は成程凧みたいだと思った。それから敬助は長い棒を持ってきて、そのとてつもなく大きい凧を持ち上げ、私に向かって支えるようにといった。そして敬助は自分の身体を凧に縛り付けた。私が何をするのかと問うと敬助はこれで飛ぶのだ、とさも自慢げに言った。私は成程面白い、いい考えだ、と思って、敬助に飛んで何をするのかと聞くと敬助は平然として、「死ぬのさ。」と答えた。私は成程死ぬな、と思った。しかし友人を死なせるわけにはいかぬから、本当に死ぬのか、と再度問うた。しかし敬助はやはり「死ぬのさ。」としか言わぬから私はそうか、やはり死ぬのか、と思った。

 それから敬助が糸の端を私に持たせ、風を見てうまく操ってくれと言って凧を背負い、走り出した。すると凧は風を受け空へ舞い上がった。はじめのうちは風が少なかったから、糸電話を使ってあれやこれやと話をしたが、そのうち風が強くなって凧がどんどん勝手に上がっていくものだから、私は糸電話で大丈夫か、と聞いた。しかし返事は来ない。私は少しばかり心配になって望遠鏡で糸が続く方を眺めていたが、そこに見えたのは灰の絵の具を垂らした綿あめのような雲だけだった。

 やがて風が収まったから、私は再び大丈夫か、と尋ねた。すると大丈夫だ、と返ってきたから、私は安心してこれからどうするのかと敬助に聞いた。敬助は、糸を全部伸ばせ、といった。私はそうしたら帰ってこれないぞ、と言ったが、敬助は全部伸ばせと言ってきかないから、私は言うとおりにすることにした。それから糸を押さえていた手を離した。すると糸はびゅるっという気味の悪い音を立てて凧をずんずん上へ持ち上げていった。はじめのうちは持ち手を望遠鏡から覗くことができたが、しまいには雲の中に入っていき見えなくなった。糸電話も通じなくなった。私は土手に上がり、やることなしに辺りを見渡してみたら、朝来た時にあった緑のマットが一つなくなっていた。私は変に思い、マットの辺りを注視してみた。すると凧の糸はマットに通じていて、マットを構成している糸がどんどん高く上空まで上がっていく。私はそうか、だから糸が切れないのか、と独りで合点してそのマットを面白く眺めていた。

 ずっと眺めていくと日が暮れてきた。ようやくマットがすべて無くなり、糸はすべて空へ登って行った。空を見上げると一つ、星が光っていた。私はこの時初めて、ああ、敬助は死んだのだな、と思った。

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閑日偶話 傀儡偽人 @178rs

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