閑日偶話
傀儡偽人
顔
朝起きて、顔を洗おうと下へ降りた。ふと庭を見ると、うすぼんやりとした顔の女が立っている。女はこちらを見て軽く会釈したから、私も同様に会釈を返してやった。そしてあれは誰だろう、どこの人だろうと考えながら顔を洗い、洗い終わってまた庭を見ると、まだ女は立っている。さっきと違ってひどく美しく見えた。眼鏡をはずしているからかもしれぬと思い眼鏡をかけたが、より一層美しく見えた。はてどうしたものかと思い、もう一度女のほうを見たがやはり美しく見えた。あれれ顔を洗う前はうすぼんやりとした特に印象のない女だったではないかと思い、私は外に出た。
扉を開けると、冷たい風が家の中の生暖かい空気を切り裂いていく。今は冬の初めだから、寒い。私は手をポケットに突っ込み、肩をいからせながら庭へ回った。そして、女のほうを見た。女は相変わらず―背に棒を入れたように―突っ立っていた。私はそうっと近づいていき、女に先ほどのことを尋ねた。すると女はその美しい顔をこちらに向け、―それはまるで夏の日の向日葵のような顔で笑った。
「それなら、もう一度顔を洗ってごらんなさい。」
私はそのあまりの美しさに気圧されながら、しかし女の言うとおりにしてみることにした。
もう一度顔を洗って、また庭へ回ると、女はこちらを向いてまた笑顔を見せてきた。しかし、その笑顔を湛える女の顔は―今朝見たような―うすぼんやりとした印象のない顔だった。私がその小さな目と鼻を色白の広い顔面に適当に並べたような顔をじっと見つめてあれれこれは不思議なと思い首をかしげていると、女はそれを察知したらしく、ほらね、元に戻ったでしょう、と言ってきた。しかし私はこれが本当の顔だとは思えなかったから、もう一度顔を洗ってくることにした。
また庭に戻ると、また女がこちらを向いて微笑んできた。しかし、その顔はあの薄い顔とは程遠く、まるで正月に咲く菜の花のような明るさを湛えていた。あまりにも美しいので危うく理性を失うところだが、朝の鋭い冷気が辛うじて私を現実に引き戻す。私は何も言えず、心の中でこれはあれか、煩悩か、と言い聞かせていると、女はそれを察知したらしく、ほらね、元に戻ったでしょう、と私に笑いかけた。私はどうも不審に思い、これはどうもおかしい、こんなに顔がころころ変わってはおかしい、と思いもう一度顔を洗いに行った。
帰ってくると、先ほどまでの美しい女の姿はどこにもなく、またもや薄い顔の女が立っていた。そして不審がる私に向かってほらね、元に戻ったでしょう、と言う。私はあれれと思い、また顔を洗いに行き、また庭に戻ってくると、今度はあの美しい女が立っている。そして私に向かってほらね、元に戻ったでしょう、と笑いかける。
そのようなことを何度も、何度も繰り返すうちに、陽は高く昇りそして沈んでいった。夜になり、黒いベールが世界を包み、寒さが仕事を思い出したように舞い戻ってきたころ、私は玄関前の石段に躓いた。鋭い痛みが全身を駆け巡り、私の意識を引き戻す。我に返った私はそれまでの気違いじみた行為を思い出し、ああそうだなんか女がいて、ころころ顔を変えやがるんだと思い返し庭に行ってみると、そこには一面の闇しか残されておらず、あたかも庭が闇に喰われたような、そんな感じがした。試しに庭を一周してみたが、ついに女の姿はつかめなかった。私は致し方なく家に戻り、手を転んだ時の傷口を洗おうと洗面台に向かった。そして鏡を見るとそこには皮が白くてしわくちゃな顔が映っていた。
女がどういう顔をしていたか、そして本当はどんな顔だったのか、私には到底わからなかった。
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