⑨とある男の恋愛のゆくえ

 もう何度落ちかけただろう。数える余裕なんてとっくに失っていたから、さっぱり分からない。


 全身の筋の感覚は消失しているのに、何とかまだ登り続けていられるのは、日頃の鍛錬のおかげか、それとも騎士長が褒めてくれた俺自慢の根性の働きによるものか。いずれにせよ俺は半ば屍になりつつも崖の最後まで、すなわち頂上まで辿り着いた。


 だけど、俺は忘れていたんだ。これは普通の崖登りチャレンジではないってことを。


 筆舌に尽くしがたい苦難があった。しかし、異変はなかった。とても大変なことだ。なぜならそれが意味することは、一つしかない。


「我が愛しの君の所在は……」


 死にながら話したのは初めてだ。崖の上にただ一人でいた騎士長に、俺は涙目で問う。騎士長は短い拍手をくれてから、ぽつりと言った。


「お前が惚れた女は勇猛だったよ」


「まるで迷宮のようなお言葉」


「彼女はお前の身を案じて、自分でラナーバに話をつけに行った。その結果」


 いつも率直な物言いをする騎士長が言葉に詰まったので、俺はとても嫌な予感がしていた。


「……嘘は好かん。だから正直に言う。私は彼女に、自分は死んだと伝えろと言われている」


「え?」


「それ以上は私の口からは語れない。以降どうするかはお前に委ねる」


 騎士長は俺の返事も待たずに踵を返した。呼び止めても答えてくれない。追いかけられる元気はなかったが、「ララーノが来られないならなぜ俺を止めてくれなかったんですか」という不満くらいは、謎変換されるだろうが、聞いてもらいたかった。俺は何とか寝返りを打って空を見上げながら、悩んで、悩んでいる間に一眠りした。






 会いに行くことに決めて、ララーノの家に向かったのに、呪いの効果が全く現れないのが不思議だった。警戒した憎き鳩の姿も、遠目にすら見掛けない。極めて平穏に家の前まで到着する。


「ララーノは、会わないと申しております」


 侍女ではなく、母君が現れて俺の対応をした。


「どうかお引き取りください。ここまで来てくださって、ありがとう」


 丁寧な言葉とは裏腹に、強い拒否を示すように強く扉は閉められた。俺は頬を掻いて一瞬だけ悩んだが、すぐさま心を決めると家の裏手に回った。ララーノの部屋は知っている。三階の隅だ。あの崖を登れたのだから、これくらいの壁登り、わけはない。


 目当ての窓までよじ登って、窓の前に設えられた柵に後ろ向きに腰掛けた。覗きは紳士の行いではない。


「ララーノさん、俺です。エルドです。会いに来ました」


 死んだと伝えてくれと言われた相手に素直に名乗るなんて、愚かなことかもしれない。しかし正体を知られてすぐに拒まれるのでは結局同じことだから、俺はこうした。窓は開かない。でも物音はする。部屋にはいるらしい。


「俺と顔を合わせたくないならそれでも構いません。話を聞いてくれませんか」


 話し始めたときから何か違和感があった。ここで鈍いながら原因に気づく。呪いは解けていないのに、俺はどうしてまともに話せているんだろう? 騎士長にも母君にも、いつものような難解な言い回ししかできなかったのに。


「話をしてくれるまで、俺は帰りませんよ。せめて、俺のことが嫌いなら嫌いとだけでも言ってください」


 長らく待つ必要があった。空を見上げて、雲に三つくらい渾名をつけたところで、ようやく応答がある。


「帰ってください」


 ちゃんとララーノの声だった。返事の内容よりも、こんなに接近できているという事実が嬉しくて、俺は一気に元気になった。


「久しぶりにまともに話ができるんです。嫌いという返事を聞くまで、俺は話し続けますよ」


「私があなたを嫌わなくても、あなたが私を嫌いになるわ、きっと」


「そんなこと、天地がひっくり返ろうと起こり得ません」


「いいえ、起こります」


 声がとても悲しそうで、気になった。


「何でそう言えるんですか?」


 次の言葉を聞くまでに、もう三つ、雲の渾名を決めることになる。


「……分かりました。では、窓の鍵を開けるので、三つ数えてから入って来てください」


 どうして三秒待つのかは分からないが、俺は大人しく従った。鍵が開けられる音、一、二、三、おまけで四。それからゆっくり窓を開いて、愛しの君の部屋へと降り立った。


 部屋の奥にララーノは静かに佇んでいる。なぜか頭に黒いベールを被っていて、全く顔が見えないが、俺にはあれがララーノだと分かる。声もそうだったし、胸のサイズ含めたスタイルも完全にララーノだ。


 しばらく沈黙が続いたが、ララーノはゆっくりと両手を掲げる。


「どう思っても構いませんが、どうか叫ばないでくださいね。家人が心配してやって来ますから」


 ベールがおもむろに外される。そうして見えたものに、俺は絶句した。そしてその後に。


「……くっ、……ふ、はは、ははは!」


 笑いが止まらなくなってしまった。


 だっておかしいんだ、聞いてくれ。ララーノは首から下は美女のままなのに、顔だけは完全に蛙なんだ。そう、あのケロケロ鳴く蛙。信じられるか? もちろん大きさが全然違うから、蛙の顔はかなり大きく引き伸ばされている。とんでもないアンバランスさだ。


「オスの蛙だそうです……」


「ははははは!」


 ララーノがきれいな声でそんな補足をするものだから、余計に笑いが止まらなくなった。酷いことをしている自覚はあったが、止まらなくなってしまったのだから仕方がない。それに、気味悪がられたり避けられたりするよりは、笑い飛ばす方がましな反応ではないだろうか。


「顔が私ではないから、会う判定にもならないんだそうです。エルド様がとても危険なことをしていると聞いて、居ても立ってもいられなくなって……姉に話をつけに行ったんです。最終的には魔法での争いになりました。勝ったんですが、何とかしろと言ったらこんなことに。確かに呪いは発動しませんけど、気持ち悪すぎて私はダメでした……」


 蛙顔が悲しそうに伏せられる。うん、ララーノの言うようにこれはかなり気持ち悪い。気持ち悪くはあるが、呪いを掛けられた姫を助けるというシチュエーションは、かなりいい。


「それで、俺があなたのことを嫌いになると?」


「はい……」


「嫌いになりませんよ」


「嘘です。だって、こんな酷い顔」


「俺はようやく気付きましたよ。顔なんてどうでもいいってね」


 臭いことを言ったが、本心だった。俺は今、とても素晴らしい発見をしたのだ。


「飾らず話すので、失礼があったらすみません。美人は世の中にたくさんいるから唯一の魅力ではないし、同じ顔をずっと見ていたらいつか慣れてしまって、綺麗だってことも忘れていくんですよ。でもララーノさんが相手なら、顔にはいつか飽きても一緒にいることには飽きそうにない。あなたはかのラナーバと切っても切れない縁を持っているから、これからも絶対に何かやばいことが起こるでしょう。今からだって、その蛙顔を治すために大変な思いをしそうだ。でも、だからこそ楽しめそうだって思ったんですよ。俺のために狂人に喧嘩を売ってくれたあなたを助けるためなら、どんなことだって、ね」


 本音と同じくらい、打算もあった。姉が超絶危険ではあるが、こんなにいい女には、滅多に出会えやしないだろう。だから今、蛙顔になってしまったという弱みに付け込んで手に入れておかないといけない。そもそも女とまともに話せる機会なんて解呪までないわけだから、この機を利用しないでどうすると。


 こういう心境も境遇も機会も全部ひっくるめて運命と呼ぶんじゃないだろうか。思い込みかもしれなくても、それでいい気がした。


「好きですよ、ララーノさん。あなたとなら、一生一緒にいたい」


「エルド様……」


 おっ、いい感触だ。遂に解呪の瞬間を迎えられるかもしれない。俺はにこにこと続きを待つ。ララーノは組んだ指をもじもじと動かしている。蛙顔では顔色が分からなかったが、指は少し赤く染まっている気がした。いける。これは、いける。


「こっぱずかしいこと言ってんな、ド助平!」


 ああ、そっちの呪いは健在だったのね。でもよかった。両手で急いで口を塞いだララーノがかわいらしかったし、実際、顔があれでも身体はそのままだから、やることはやれそうなんて考えていたわけだし。






 顔面蛙化の呪いを解く方法は、ララーノ顔の蛙を探し出して見つめ合うことだとか。今度は会う判定になるから、また多くの災難に見舞われるだろう。楽しみじゃないか。解呪成功の暁には、吟遊詩人に歌にしてもらおう。姫を救う騎士の話は、いつの時代も受けがいいものさ。

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