後編
久々に歩く、彼のアパートへと向かう道は小雨が降っていた。
そして、別れたときは半袖だったのに、今は長袖を着ていても肌寒く感じる季節になっていた。
それだけの期間、私は前を向けないでいる。
正直、今から十分後に会う彼にもどんな顔をしようか、何を喋ろうか、今でもわからないままだ。
私は音楽を流そうとイヤホンを耳にさしたけど、そんな気分になれなくて。
彼と付き合ったタイミングで始めたタバコを久しぶりに吸おうかと思ったけれど、やっぱりそんな気分にもなれなくて。
そうこうしているうちに、懐かしい目的地へと、たどり着いてしまった。
***
勇気を出してインターホンを押した後、扉が重い音を立てて開いた。
「……久しぶり」
彼も戸惑っているのか、少しそわそわしながら目尻を下げて私に声をかけた。
「うん」
「……元気だった?」
「……うん」
「……上がっていく?」
「……いや、ここでいい」
「荷物、全部あるか、わかんないからさ」
幸太くんはドアを開けたまま、部屋の中へと進んでいく。
部屋に入ってしまうと、また想いが強くなってしまいそうで怖い。
……だって、この小さな部屋には、ふたりの思い出が詰まりすぎているから。
「……」
けれど……私は、玄関をくぐった。
***
「一応置いてあったものは、まとめてみたんだけど……」
「ありがと」
細胞に染み付いた、落ち着く匂いがする。
「なんか飲む?」
「別にいい」
「……カフェオレあるけど」
「……じゃあ飲む」
「うん」
彼は少しだけ口元を緩め、冷蔵庫から私のお気に入りのカフェオレと、付き合っているときにプレゼントしてくれたペアのグラスを持ってきてくれた。
「……買ってきてくれてたの?」
「まぁ。そんな感じ」
「そっか、ありがと」
……こんなところが好きだった。何気なく私を大事にしてくれるその性格が。
懐かしい思い出がよみがえる。その記憶に私も頬が緩むけれど、彼との未来はもうないのだと思うと途端に切なくなった。
「……なんか、音楽流そうか?」
私のよそよそしい態度が気になるのか、幸太くんが少し戸惑いながらもそんな言葉を投げかけてくる。
「こんな時に……?」
「……ごめん」
「いや……いいよ。好きなの、かけて」
「……うん」
彼は立ち上がって、ブルートゥーススピーカーの電源をつける。
聞きなれた起動音の後に、ギターのイントロが、流れ始める。
「……っ」
幸太くんが再生したその曲は、どこにでもいるカップルの出会いから別れまでを歌った失恋ソングだった。
……そしてそれは、今から三か月ほど前に流行っていた、彼のお気に入りの曲だった。
「……」
「……」
小さな空間に、沈黙が訪れる。
それでも、音楽は、物語は進んでいく。
……なんでよりにもよって、この曲なんだよ。
だって、こんなの、今の私たちに合い過ぎてるじゃないか。
目頭がじんわりと熱くなってくる。もう無理だ。この曲を聞き終えたら帰ろう……
そう思って、ふと、彼の顔を見た。
「……ぇ」
その瞬間、幸太くんの目に溜まっていたものが、つーっと頬をなぞった。
「……幸太、くん」
「……雪」
どっちからだっただろ、先に手を伸ばしたのは。
どっちからだっただろ……先に、唇を重ねたのは。
その口づけは、これまでの三か月を取り戻すような、これまでの思い出をなぞるような、底の見えないものだった。
……そしてその時、私は、ようやく気が付いた。
私は、幸太くんを忘れてしまうのが怖かったのだと。
彼と手を繋いでいた一年以上の思い出がなかったことになってしまうのが、怖かったのだと、気が付いた。
「……」
「……」
けど、今だけは。もう少しだけ、このまま……
音楽が流れ続けた、三分十七秒。私はあの時描いていた永遠を、強く求めた。
最後のキスは、全然カフェオレの味なんかしなくて。
涙の味がした。
***
「その……ごめんな」
「いいって」
音楽が終わってすぐ、私はグラスに残っていたカフェオレを飲み干し、「帰るね」と彼に伝え、玄関を開けた。
「……駅まで送ろうか?」
「ううん。一人で帰れるからいいよ」
最後に……開いた扉から見える彼と過ごした思い出の部屋を見る。
笑った時も、喧嘩をした時も一緒に過ごした、小さな部屋。
それは私の心のアルバムに刻み込まれた、二人の特別な空間だった。
「……雪がよかったら、また遊びに来いよ。いつでもいると思うから」
「……うん」
そんな私の特別を、もう一度だけ目にしっかりと焼き付ける。
「……またな」
また涙がこぼれてしまいそうな笑顔で小さく手をあげる幸太くん。
私もつられて泣き出しそうになるけれど、こぶしをぎゅっと握りしめる。
「じゃあね」
……もうここには、来ないよ。
だって、この部屋で、次の物語を紡ぐのは私じゃないから。
その瞳には、もう別の女の子が映ってたんだね。
……隠しきれてなかったよ。
私のよく知ってる、あの髪留め、見つけちゃった。
***
駅に向かう道は、行きと違って雨がやんでいた。
「……よいしょ、と」
たまに幸太くんと深夜の散歩で来た公園のベンチに腰を下ろし、スマホを開く。
通知には『今日はありがとう』という短いメッセージがあった。
それに『私もありがとう』と打ち込んで、返信をしようとして、やめた。
過去のトーク履歴をスクロールしてさかのぼってみる。
別れた日。
どこかへ出かけた日。
仲直りをした日。
喧嘩をした日。
初めての夜を過ごした次の日。
デートに行った日。
…………彼が告白してくれた日。
そんなかけがえのない特別が、トーク画面に色を付けていた。
目頭が熱くなって、鼻がツンと痛んだけど、楽しかった思い出で表情が緩んだ。
そして、恥ずかしいトーク内容を暗記するように読み返し、時間が今に追いついたとき、メッセージを送信して、既読が付く前に彼とのトーク履歴を削除し……ブロックした。
「……はぁ」
大きなため息が零れる。
……これで幸太くんを忘れられるかと言えば、正直わからない。
いや、それどころか、これからも、寝るときも、誰かと歩くときも、音楽を聴くときも、幸太くんのことを思い出してそのたびに苦しみ泣いてしまうのだと思う。
そのとき、ふわりと、冷たい風が私の頬の涙をぬぐうように吹いた。
「あぁ……そっか」
それで頭が冷やされたのか、背中を押されたのかわからないけれど。
私は、もう大丈夫だと思った。
あのすべてを悟った口づけで、なんとなく前を向けるような気がしたから。
悲しんでも、苦しんでも、これからは私らしく……私のためだけに生きようって。
だから、あの部屋に、髪留めの横に、タバコの箱を置いてきたんだ。
……幸太くん? いまちょっと寂しい? なんてね。そう、思ってくれてるといいな。
「付き合ってくれてありがと。別れたこと、絶対後悔させてみるから」
そう呟いたあと、私は晴れわたる空を見上げ、彼が好きだったあの歌を口ずさむのだった。
(終わり)
――――
読んでいただいてありがとうございました!
これにて、雪と幸太の物語はおしまいとなります。
これからも面白いものを頑張って制作していきますので、☆とフォローをよろしくお願いします!
晴れわたる空の下で失恋ソングを口ずさむ。 音平デクム @otohiradekumu
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます