恋に恋する恋した少女

日向満月

恋に恋する恋した少女

 リビングのソファーに腰掛けながら、私は本のページをめくる。


 ぱらり。ぱらり。外ではしとしとと小雨が降り、雨水を弾いて走る車の走行音が聞こえていた。


 両親は外出中。いまは家に私一人。雨音を聞きながらの読書は落ち着くな……。


 本の中では勇敢で心優しい王子さまが、愛らしく可憐なお姫さまに、愛を囁いているところだった。


 あなたをあいしています。


 あかいいとでむすばれた、うんめいのひと。


 いつまでも、いつまでも、あなただけを。


 そう言って王子さまは、お姫さまに手を差し出すのだ。


 小学校低学年くらいの小さな女の子に向けて書かれた童話。


 王子さまとお姫さまが困難を跳ね除けて、最終的には結ばれる王道のラブストーリー。


 大抵は心身が成長するにつれて、児童向けの物語から卒業していくものなのかもしれない。けれど私は十六歳になったいまも、そこに描かれた登場人物たちの悲喜交々に感情を動かされながら読んでいた。


「んー……」


 少し休憩しようと私は文章から顔を上げて伸びをする。


 目を瞑ると暗闇が広がり、しばらくはなにも考えずにそれを見詰めていた。


 ふと本の中の王子さまとお姫さまが、私の頭の中にある幻想の隙間から顔を覗かせる。


 二人はお互いに手を取り合うと、星を集めてできたお城で仲睦まじく踊りはじめた。


 ──いつか私にも運命のひとが現れて、こんなふうに手を差し伸べてくれたらいいな。


 二人の楽しげな様子を眺めながら、ちょっとだけ、そんなことを考えた。


 一目見ただけで惹かれ合う、そんな人生で一度きりの恋をしてみたい。


 児童向けの物語を読んで、恋に恋しているだなんて──頭の中にいる大人のふりをした私が、そう呟いて呆れていた。けど憧れるだけなら自由なはずだ。誰に迷惑をかけるわけでもないし。


 なんだか喉が乾いたな。私はテーブルのマグカップに手を伸ばす。


 ミルクココアの甘い香りが鼻腔をくすぐった。口をつけると舌の上で穏やかな甘味あまみがゆっくりと溶けていく。


 今日は雨の影響でいつもより気温が低かった。とはいえ室内にいるおかげで、肌寒さはあまり感じない。それでもミルクココアの熱と優しい甘さに、胸が温かくなるような感覚を覚えた。


 さて、そろそろ続きを読もうかな。マグカップを元の位置に戻して、読書を再開しようとした。


 そのとき先程までなかったものを視界の端に見た気がして、私は窓の外に視線を向けた。


「誰……?」


 ──向かいの家の前に、ビニール傘を差した見知らぬ少女が立っていた。


 雨が降ってるのに。いったいなにをしているんだろう?


 歳は私と同じくらい。栗色のショートボブがとても似合っていた。


 彼女はどこか切なげに、向かいの家の玄関を見詰めている。


 まるでなにかを期待するように。


 しかし同時に心細げな眼差しで。


 なぜだか私の胸はどきりと高鳴った。


 彼女の大きな瞳には、私がいままで感じたことのない、淡い感情が宿っている気がしたから。


 彼女は私の家の方角に向けて、手を伸ばす。


 まるでヒロインに手を差し出す王子さまみたいに──差していた傘のしたから右手だけをこちらへ差し出した。


 その憂いのある表情に。しなやかな指先に。私の心の奥で仄かなあかりが揺れる。


 なにかの感情にせき立てられて、私はソファーから立ち上がると、小走りで窓に駆け寄った。ガラスにふれるとひんやりとした冷たさが、指先から熱を奪っていく。


 このまま凍えてしまっても構わないと思った。


 それより、いますぐにでも彼女に手を伸ばして、その細い指にふれたかった。


 どうして初めて出逢った貴女にこんなにも惹かれているのだろう。


 あの子は、きっと私に手を伸ばしているわけじゃないのに。


 ほら、灰色の空を見上げている。雨がいつやむのか気にして、手を傘のしたから出しているだけ。


 なのに、どうして?


 どうしてこんなに貴女のことが気になるの?


 自分に問いかけても答えはない。まるで迷子になった気分だった。いっそこの窓ガラスを開けて、彼女のもとに駆け出してみようか──そんな倒錯的な考えが頭を過ぎった刹那。


 向かいの家の玄関が開いて、一人の青年が現れる。


 私の知っているひとだった。あの家に住んでいる五つ歳上の大学生だ。


 彼の姿に気がついて、少女が振り返った。その直前に見えた彼女の顔には、すでに儚げな色はなくなっていた。


 喜色に溢れた、満面の笑み。


 まるで王子さまの迎えに喜ぶお姫さまみたいだと思った。


 あのひとが彼女にとっての運命のひとなんだ……。


 私は窓から手を離すと、とぼとぼと歩いて、ソファーまで戻った。腰を下ろしてからも、しばらくはなにもする気にはなれず、ただリビングの天井を見詰めていた。


 どれくらいそうしていただろう。喉が渇いた気がして、私はマグカップに手を伸ばす。


 口をつけるとミルクココアはすでに冷めていた。それでも先程までふれていたガラスよりは少しだけ温かい。


 穏やかな甘さが口の中に広がって、私はほっと一息つく。


 うん。やっぱりココアのほうがあったまる……。


「……さて。そろそろ続きを読もうか」


 わざとらしい口調でそう呟いてから、テーブルに置いたままの本を手に取った。


 ぱらり。ぱらり。物語を目で追っていく。


 高鳴っていた胸の鼓動は、いつしか雨の音に紛れていった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

恋に恋する恋した少女 日向満月 @vividvivid

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ