第三十七話  人生で最高の贈り物

 丙辰ひのえたつの年(776年)。

 五月。



 長尾ながおのむらじの屋敷。


 ───真夜中。


 筋骨逞しい、三十歳になった真比登まひとが、うろうろ、うろうろ、屋敷の簀子すのこ(廊下)で、行ったり来たり、落ち着きなく汗をかいている。

 部屋のなかからは、


「うぅぅぅ。」


 おみなが苦しむ声と、


佐久良売さくらめさま、しっかり!」

気張きばって!」


 と大勢のおみなが出産を励ます声が続いている。

 真比登は、月明かりに照らされながら、義理の父、佐土麻呂さとまろさまに、


「大丈夫でしょうか。もう、一日、ずっと続いてます。あんなに苦しんで。ああ、佐久良売さま……。」


 と憔悴しょうすいした顔をむける。

 佐土麻呂も、ソワソワとしながら、


「ええい、落ち着け。こういう時、おのこは何もできぬ。無事を祈れ!」


 と、取り乱す義理の息子にビシッと言う。

 都々自売つつじめさまは、隣の部屋のなかで、出産の時を、じっと待っている。簀子すのこにでて、ウロウロするのは、男どもだけだ。


 出産は、命がけである。

 子どもが無事に産めるか。

 母親も、産褥さんじょくで命を落とさないか。

 賭けである。


(佐久良売さま、佐久良売さま。どうかご無事に。

 お腹の緑兒みどりこをこの手に抱きたい。

 でもそれ以上に、佐久良売さまに死んでほしくない。

 あなたを失えない。

 こんなに長く苦しんで!

 可哀想に……。

 頑張って。頑張ってください、佐久良売さま!)



   *   *   *




 佐久良売、二十五歳。


「うううぅぅ。」


(痛い痛い痛いっ! あ〜、痛い痛い痛い!)


 身体が引き裂かれそうだ。

 いや、実際、引き裂かれているのだろう。

 そして、その痛みが、間断かんだんなく続く。

 安めない。

 そのなかで、波がある。

 大きく痛みがやってきて、また、ひく。

 ひくと言っても、基本、ずっと痛い。


(眠い! 疲れた! 

 あ〜、早く出てこい、出てこい……。

 出て来たくないっていうのか!

 あたくしが辛いでしょうが!

 は・や・く、出てこい〜〜〜!)


「うううぅっ!」


 佐久良売は、舌を噛まないように、木の板を噛み、天井から吊り下げた紐を握り、気張る。

 汗まみれ。


(痛ぁ〜〜〜い!)


 普通なら、睡眠をとったり、食事をとったりする時間を、ゆうに越えている。痛みが酷すぎて、食べようにも、食べることすら、できない。

 とっくに体力の限界を迎えている。


(あ……。)


 ふっ、と意識が遠くなった。

 出産時には、ひどい痛みの合間に、不思議なことだが、一瞬、痛みがひき、眠りが訪れることがある。


 それは、死の眠り。


 眠りこんでは、起きることが叶わぬ眠りである。


「佐久良売さま! しっかり!

 寝てはいけません。」


(うるさいわね……。疲れたのよ。こんなに気持ち良いんだもの。寝て何が悪いのよ。)


 それは、お腹いっぱいの午後の昼寝より、なおも、抗えない、魅力たっぷりの安らかな境地だった。


 佐久良売は睡魔に負け、睡眠という、ふわっと雲のように柔らかなしとねに意識を手放した。



     *   *   *




 あたりは白い薄靄うすもやに包まれている。

 薄日がさし、もやにあたると、キラキラと小さくきらめく。

 空中にぷかりと浮かんだ、十五歳くらいの男童おのわらは(少年)がいる。

 蝦夷の若者だ。

 佐久良売を見て、きょとん、とした顔をしたあと、苦笑した。


「ああ、エキタタ(難産)だからって、こんなところに来ちゃダメだよ。」

「あなたは誰?」


 蝦夷なら、敵……?

 でも、空中に浮かぶ男童おのわらはから、敵意は感じられない。


「あなたのつまに助けられた者だよ。

 恩を返したくてね、ずっと見てた。

 桃生柵もむのふのきが燃える時も、この子と力をあわせて、守ったよ?

 あなたは、ピッカ メノコ(美女)だから、とくに顔を火傷しないようにね。

 さあ、お戻り。

 僕は、もういくよ。

 これからは、この子が、あなたと同母妹いろもを守ってくれるってさ。」


 ───にゃあん。


 白い光が凝縮し、ふっ、と、猫の形になった。


里夜りや!」


 佐久良売は喜び、両腕を広げると、里夜が飛び込んできた。


「さあ、つまのもとにお戻り。

 大丈夫、もうすぐ無事に産まれるよ。」


 とん、と、見えない何かに肩を押された。

 雲の上から、佐久良売は、落とされた。

 ぐぅん、と落ちる。





      *   *   *





「佐久良売さま!」


 若大根売わかおおねめに頬を叩かれている。


「ハッ……。」

「気が付かれました!」

「良かった、佐久良売さま!」


(今の夢は何だったんだろう。やけに生々しい……。)


「気張って!」


(う〜〜! 負けるものか! 無事に産んでやる───!

 真比登の子なんだから!)


「うううううっ!」




      *   *   *





「ほぎゃ……、おぎゃあーん。おぎゃあーん……。」


 真夜中、元気な緑兒の声が響いた。


「お産まれになりました! おみな緑兒みどりこです。佐久良売さまも無事です。」


 簀子すのこで知らせをうけ、真比登はへたりこんだ。 


 がたん! ばたばたばた!


 目の下にクマを作った都々自売つつじめさまが、隣の部屋から飛びだしてきた。


 ややあって、部屋のなかに通される。

 乳母ちおも───、すでに、三月に元気なおみな緑兒みどりこ櫨根売はじねめさずかった若大根売わかおおねめが、産まれたばかりの緑兒みどりこを抱いている。


「ほぎゃーん! ほぎゃーん!」

「さあ、そっと抱いてくださいまし。」

「はい。」


 真比登は、おっかなびっくり、緑兒を抱く。


「ほぎゃあーん! ほぎゃあーん!」

「うっ……。」


(オレの娘……、オレの娘なのか!)


 顔に、疱瘡もがさはない。疱瘡もがさは移らなかった。そのことに、真比登はほっとしてしまう。


「佐久良売さま……。」

「ほぎゃあーん! ほぎゃあぁん。」


 佐久良売さまは、げっそりやつれている。


「あたくしと、あなたの子よ。真比登。」

「はい、はい……! ありがとうございます。ありがとうございます。人生で最高の贈り物です。」

「ふふ……、名前は、あたくしが決めて良いかしら?」

「もちろんです。」

真佐流売まさるめよ。」

真佐流売まさるめ……。強くなりそうな、良い名前です。」 

「ほぎゃ……。」

「お姉さま。なんて元気な緑兒みどりこでしょう。長い産褥さんじょく、さぞやお疲れでしょう。」

「ありがとう都々自売つつじめ。……辛かったわ。全身痛い。」

「おっほん! 私も抱っこして、良いかな?」


 それまで気を利かせて黙っていた佐土麻呂が、両手をさしだす。

 真比登から、疲れて眠り始めた緑兒を受け取り、


「ほっほっほ……。」


 実に嬉しそうに笑った。

 真比登は、寝床から起き上がれない佐久良売のそばにいき、床に膝をつき、白い手を包み込むように握り、自分の右頬におしつけた。


「佐久良売さま……、ありがとうございます。」

「うふふ、あなたの子、あなたの家族よ、真比登。」


 佐久良売さまはやつれながらも、誇らしく、愛に満ちた笑顔を真比登に向けてくれた。


「う……!」


 そんな顔をされては、真比登は泣いてしまう。

 愛する妻の手を、右頬に押し付けたまま。

 透明な涙が、父親となった男の頬を、あとからあとから、伝い落ちた。
















 ───小真須売こますめ、お兄ちゃん、娘ができたよ。

 佐久良売さまが、産んでくれたんだ。

 父親になった。

 新しい、家族が、できたんだよ。

 お兄ちゃん、妻と子の為に、頑張る……!

 お兄ちゃん、幸せだ。

 すごく、幸せだ!












    *   *   *




 ※著者より。


 佐久良売が死にかけた時に会ったのは、

「真比登の章」

 第二十四話  御勝という男、其の三。

https://kakuyomu.jp/works/16817330667140952851/episodes/16817330668608318569

 で、真比登に首飾りを託して死んだ、蝦夷の若者、カテイシです。

 一番の望み、恋人のイムンペを救って蝦夷の他の郷に届ける、

「真比登の章」

 第四十三話  心のひだに隠すのならば

https://kakuyomu.jp/works/16817330667140952851/episodes/16818023211690040700

 それをしてくれた真比登に感謝し、かつ、そのせいで(虫麻呂のせいだけど)佐久良売が窮地に陥ったのを申し訳なく思い、ずっと二人に恩返しする機会をうかがっていました。

 桃生柵もむのふのきが焼け落ちる時と、この、出産で命を落としかけた時、二回、佐久良売を救ったので、満足して、お空の上にいきます。

 恋人だったイムンペは、今はスプシの郷で、幸せに暮らしているようです。


 猫の里夜りやは、桃生柵もむのふのきが燃え落ちる時、魂となりました……。

 魂となりたてで、パワーが弱い(魂としての力の使い方がまだわからず、まごついた)けれど、佐久良売を守りたくて、魂となって佐久良売にまとわりついていたところを、カテイシが、


「おいで。」


 と腕に抱きしめて、力をあわせて佐久良売を守りました。

 佐久良売が見た人魂は、カテイシと里夜が一緒になって、ひとつの輝きとなったものです。


 里夜は、この先も、佐久良売と都々自売つつじめのそばで、見えない守り神として、見守ってくれるようです。






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