同僚の頼みごと

融木昌

同僚の頼みごと

「まずは乾杯」

 俺は井山とジョッキを合わせる。同期入社の彼とは部署は違うが十年来のつき合いで、月に二、三回は雑居ビルの地下一階にあるこの個室居酒屋に飲みにきている。十数室ぐらいの規模で全国チェーンの店に比べると、若干、値段は高いようだが、酒の酒類が多く料理の味もまずまずで気に入っていた。

「相談って?」

 井山は突き出しの枝豆を口に入れる。会社の昼休みに同僚のことで相談したいと話しておいたのだ。彼は細身の俺と違い、大柄でメタボリックな体型であったが、意外と緻密で直感的な推理の鋭さも持っていた。

「同じ課にいる田中なんだが」

「知らないな」

「中途採用で昨年、支社から異動してきた。俺たちと同じ三十二歳でなかなかいい奴だ」

 それで、と井山は再び枝豆に手を伸ばす。

「先週の土曜日の午後一時過ぎ、田中が住んでいる街で路線バスが対向車線に逸脱して、反対側から来た軽乗用車と正面衝突する事故があったんだ。テレビのニュースでもやっていた」

「大勢のけが人が出たのか?」

「バスの乗客で軽傷の人が何人かいたが、軽乗用車を運転していた六十八歳の男性がその事故で死んでしまった。既に退職していて毎週、土曜日に参加している高齢者向けの教養講座に行くところだったらしい」

「乗用車側に落ち度がないとすればひどい話だな」

「それに田中が関係している」

「どういうことだ? 詳しく教えろよ」

 井山のスイッチが入ったようだ。

 そのバスに田中も乗っていて、と俺は彼から聞いた内容を説明する。

「降りる停留所が次となったところで早めに前方、運転席の近くまで進んで立っていたそうだ。すると四十歳ぐらいの男が近づいてきて突然、『どけ!』と怒鳴ったと言うんだ」

「乱暴な奴だな」

 怒ったような口調の井山はジョッキを飲み干した。

「田中はその場所を譲ろうとしたんだが、男はいきなり、『なんていう顔をするんだ』と掴みかかってきたらしい」

「不満気な顔でもしたのか?」

「彼はしていないと言っている」

「すぐにかっとなる奴は結構いるからな。しかし、その話と事故は関係あるのか?」

 答える前に、俺はジョッキを空けて冷酒と焼き鳥盛り合わせ、もつ煮込み二人前を、井山は生ビールを注文した。

「結果から言うと、二人が揉み合っているうちにその男が運転席の方に倒れ込み、身体を支えようとしたのかハンドルを掴んでしまったらしい。運悪くその際、倒れた方向、つまり右にハンドルが切れて、対向車線に突っ込んだということだ」

 田中は軽い打撲で済んだが、死者が出た事故に関わったということでかなり落ち込んでいる。一方で、彼自身は何も悪いことはしていないという思いがあり、その辺のもやもやを解消してほしいというのが彼の頼みであった。

「俺は精神科医でもカウンセラーでもないぞ」

 井山は素っ気ないことを言ってくる。

「そういうことではなく、男から文句を言われるようなことはしていないはずなのに、あんなことになってしまった理由を明確にしたいということらしい。納得がいかないというか、何か引っ掛かるものがあるようだ」

「引っ掛かるものか? 何かありそうだな。その男も田中も当然、警察から事情を聴かれているんだろう。男がどう言っているか、その辺の情報はないのか?」

「両替するのに邪魔だった。どけてくれと頼んだが、田中が人を馬鹿にしたような顔をしたのでむかついたと話しているそうだ。知っていると思うが、運転席横の運賃箱には両替機が付いている」

「まあ、筋は通っている。そいつは何をやっているんだ?」

「妻子もいる普通の会社員らしい」と答えると、

 会社員か、と井山は腕を組んだ。俺は、

「かなりのワル(・・)だとでも思っていたんだろう」と突っ込む。

「そういう訳でもないが、不満な顔だけではちょっとやり過ぎのような気がしたんだ。過去にその男との間にトラブルなどなかったのか?」

「ないと思う。田中は初めて会った奴だと話していた」

「知らないうちに恨まれていた可能性も否定できないが、運転席に倒れ込んだときの状況をもう少し詳しく教えてくれ。運賃箱とかは邪魔にならないのか?」 

「男が胸ぐらを掴んできたので、やめてくださいと言ったが、掴んだまま揺すってくるので、田中がその腕を外(はず)そうとしたりしたらしい。そのうち男が強く押してきて、声を上げたかと思うと運賃箱を乗り越えるように倒れていったということだ」

「男の方は何と?」

「田中に引っ張られたためだと言っている。二人の話は真逆だ」

 ようやく店員が注文した品を持ってきた。待ってましたとばかりに井山はジョッキを傾け、焼き鳥の串に手を伸ばした。俺は冷酒を注いだぐい呑みを口に運ぶ。切れのいい酒だ。これまでのところでは倒れ込むことになったのはどちらの所為(せい)かを明らかにすることは難しい。しかし、意図せず起こってしまった事故に対する責任はどうなるのだろう。何も無いとは思えないが、防御的な対応しかしていないと見られる田中が罪に問われることはあるのだろうか――法律の門外漢があれこれ考えてもしょうがない。彼の頼みに対する何らかの答えを見つけてやることが大切だと思い直し、その旨、井山に話す。

 そうだな、と頷いた彼はスマートフォンを取り出し、事故があった道路の名称を訊いてきた。県道名を教えると、画面をいじり始め、少しして、あったと声を上げた。日付、道路名、バス事故で検索したところ、個人のブログに目撃談が載っていたという。

「いろいろ書いてあるが、二人の揉み合いの状況は今まで聞いてきたのとほとんど変わらないな。動画が出てないかチェックしてみるよ」

 しばらく指を滑らせていた井山は、車内での様子がアップされていた動画サイトを見付け出した。プライバシーの問題が気になるが、様々な情報が簡単に入手できると驚いてしまう。再生された映像を食い入るように見る。少し離れたところからのものだが、二人が揉み合っているところが見える。田中が運転席側、両替機より少し前方に離れたところに立っていて、男がその斜め後ろ側という位置関係は最後まで変わらなかった。運転席に倒れ込んだのは男が押したからか、それとも田中が引っ張ったからかは動画を見る限り判然としなかった。

「映像を見ても何も出てこない。これ以上は我々には無理だな。カウンセラーの出番か?」

 俺は匙(さじ)を投げる。が、井山はもう一度見てみようと再生を始めた。更にもう一回、見終わると、興奮した様子でスマートフォンを突き出して来た。

「掴み合いが始まってちょっとしてからの場面を見てくれ。男が前方、フロントガラスの方に二回、眼をやっているように見えるが、どうだ?」

 言われてみればそのように見えるが、掴み合いのなかで顔が横方向に動いたと取れなくもない。

「前の方を見たとしたら、どうなるんだ?」

 井山は答えず、再度、事故の目撃記事を探し始めた。

「残念ながらフロントガラスの方を見たと書かれているものはない。事故発生後の様子も書かれているが、ここでは関係ないだろう。それと男は逃げずに現場に留まっていたようだ」

 その場の状況を考えると逃げることが不可能だとは思われず、逃げなかったとすれば悪い人間ではないのではとの俺の指摘に対し、井山は単純には言えないと言葉を濁した。

「フロントガラスに眼をやったというのは?」

 俺は答えを聞いていない質問を繰り返す。

「喧嘩の最中に不自然じゃないかと思ったんだが……」

「見たとして、フロントガラスに何か映っていたのかもしれないし、バスの一番前にいるから前の車とぶつからないか心配になったのかもしれないじゃないか。何か閃いたのか?」

「ぶつからないかではなく、ぶつかるように見てたんじゃないかと思ったんだ」

「何に?」

「軽乗用車だ。右にハンドルを切るタイミングを計っていた」

 俺は驚いた。井山は男がわざと車にぶつけるようにしたと言っているのだ。

「乗用車がいつ来るか分からないんだし、来たとしても簡単にタイミングが合うとは思えない。無理だよ」

「そう考えるのが常識的だろうが、亡くなった男性は土曜日の午後の教養講座に毎週、車で通っていたというんだから、いつ、どのあたりでバスとすれ違うかは事前に確かめることができたはずだ」

「田中に文句を付けたのも、その一環だと言うのか?」

「そうなるな。運転手が握っているハンドルは簡単には切れない。突然、倒れ込むことによってチャンスが出来る。動画では二回目に前方を見た後、倒れている」

 思わぬ展開になってきた。しかし、たやすく男の考えた通りに行くとは思えないし、仮にそうだったとしてもそれを証明するのは難しいだろう。そう言うと、

「故意だとしたら、その背景や動機が分かればいいんだが――いずれにしても男がやろうと思えばやれたと思うけどな」

「俺たちに背景など調べようがないし、それに予行演習したとしても、うまくいかないんじゃないか」

 改めて彼の考えを否定する。

「予行演習?」と繰り返した井山は何か思いついたようだ。再び、スマートフォンをいじり出した。

 手持ち無沙汰の俺は冷えたもつ煮込みを食べながら杯を傾ける。意図的だとしたら殺人事件じゃないか。信じ難いが、田中は大変なことに巻き込まれたことになる。しかし、故意が明らかになれば彼はある意味、事件の被害者となる訳で、彼のもやもやは解消される。それはそれでいいのだが、殺すのならもっと別のやり方があるだろう。あるいは事故を装う策略だったのだろうか……。

「見つけた!」と叫ぶ井山の声が、思索に耽(ふけ)っていた俺を喧噪の居酒屋に引き戻した。

「ここを読んでみろ。事故の一か月前の土曜日だ」

 日時を入れずに道路名、バス、喧嘩で検索してみたと言う。画面を覗き込むと、路線バスの運転席付近で中年の男と学生が喧嘩を始めたこと、午後一時過ぎの出来事だったが、運転手がブレーキを掛けて車道の左側に寄せ、彼の仲裁で喧嘩は収まったことなどが書かれていた。

「これと事故とはどう関係するんだ?」

 井山の顔を見詰め、問い掛ける。

「お前の話を聞いて、前にやったかもしれないと思ったんだ。この中年の男と田中と掴み合いになった男が同一人物かどうかは今のところ不明だが、土曜日の同じ路線バスの同じ時刻に同じようなことが起こっている。偶然とは言えないだろう」

「予行演習か?」

「倒れ込むところまでは出来ないだろうし、余計な予行演習などしないと思うな。さっきも言ったが、バスとすれ違う状況は分かっているはずだから、喧嘩を吹っ掛ける相手がいる必要はあるが、そこで一発勝負だろう」

「すると、そのときは相手の車にぶつけようと喧嘩を仕掛けたが、運転手が停車させたため未遂に終わったということか?」

「多分、そうだ。仕方なく一か月の間を空けて再度、やったのだろう。バスの運転手に確認すれば同一人物かはっきりするはずだ。これで今夜はおごりだな」

 俺は井山を無視して田中に電話を掛ける。相手の男が故意にやった可能性があることを伝えるとともに早く警察に相談に行くよう勧めた。

          *

「殺人容疑で例の男が逮捕されたんだって? ニュースでやっていたが、詳しいことは言ってなかった。何か知ってるんだろう」

 いつもの居酒屋で注文を終えるや井山がせっついてきた。

「ある程度は」と俺は田中から聞いた内容を伝えることにした。

「警察はバスの運転手に写真を見せ、一か月前と今回の男が同一人物であることを確認した上で、改めて事情を聴いたらしい」

「自供したのか?」

「そのようだ」

「動機は?」

「順に話すから、お前も推理してみたら」と言ったところで、「お待ち」とテーブルに生ビールが置かれた。まずは喉を潤してとジョッキを合わせる。半分ほど空けたところで俺は続けた。

「二人が住んでいたところは比較的近くて五百メートルも離れていなかったそうだ。ちなみに男は十数年前からそこに住んでいて、軽乗用車の男性は一年ほど前に引っ越してきたということだ」

「越してきた男性がトラブルでも起こしたのか?」

「越してきて起こしたといえばそうなんだが、それだけではないんだよな」

「待て、待て。皆まで言うな」と、井山は俺を止めた。腕組みしながら、

「二人とも最初から今のところには住んでいなかった。現在、住んでいるところで問題が生じたのか、あるいは以前にあったのかだが、お前の話しぶりでは後者の方だな。過去に接点があって再会して今回の事件が起こったということになる。二人は元々、同じ土地に住んでいたのか?」

「知らないが、そうとは聞いていない」

「地縁的なものはなさそうか。あと、男性は六十八歳で、男はニュースで四十歳だと言っていた。ちょっと歳の差があるんだよな」

「どういう関係だと思う?」

「関係? 何があったと思う、ではなく、そういう訊き方をするのは詐欺にあった男と詐欺師というようなその場限りのものではないということだな」

 井山はにやりとする。ヒントを与えてしまったようだ。

「男性は退職していて、男は妻子もいる普通の会社員ということだったが、昔、同じ職場にいて上司と部下? パワハラで辞めざるを得なくなり、久し振りに会って怒りが爆発した。と言っても十数年以上たって妻子ある男が殺人事件を起こすとは考えにくい」

「他には」

「教師と教え子。教師に問題があって――それだけではな――もっと何かがないと」

 考え込んでいた井山だったが、逆だ、と膝を打った。

「男の方が過去に何か問題を起こしたんだ。上司にしろ教師にしろ関係があった軽乗用車の男性はそれを知っていて再会したのを機に、何かしらの目的を持って男を脅かしたりしたんじゃないのか。それで男は」

「いいところまできた。あとは二人の関係と過去の問題とは何かだな」

「もう少し情報がいる。その男性は退職する前、何をやっていたんだ?」

「いい質問だ。何だと思う?」

「焦らすなよ」

「少年院の教官だったそうだ」

「ということはそこに入っていたのか?」

 田中の話によると二十数年前、男は強盗致傷で少年院送致となっていて、片や軽乗用車の男性は当時そこで教官をしていたとのことだった。更正した男は故郷を離れ、やがて家庭を持って幸せな日々を過ごしていたが、たまたま近くに越してきた元教官がその男を見掛け、過去の事件をネタに強請(ゆす)り出したのがことの始まりであったという。

「元教官は経済的に困っていたようだ。彼の通帳に定期的に金が入っていて、二人が会っていた目撃情報も出てきたらしい。平穏な暮らしが脅かされることを恐れた男は金銭の要求に応じていたが、際限が無くなることから事故に見せかけて殺害することにしたとのことだ」

 田中については単に巻き込まれただけであることが明らかとなり、一件落着となった。一方で男のしたことは許されるものではないが、運命の悪戯としか言いようのない元教官との遭遇を思うと気の毒でならなかった。

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