雨が消えた日

えんがわなすび

1

 今年も街にウミウシがやってくる。今度のは一際大きいらしいと、溶けていく棒アイスを必死に追う水野さんが言う。僕はその垂れていく乳白色を見ながら尋ねた。

「大きいって、どれくらい?」

「んっとね、今世紀最大だって。お父さんが言ってた」

「へえ。具体的には?」

「いつものプールと同じサイズだって」

「二十五メートルの? すごいね」

 でしょうと何故か自慢気に話す水野さんが隣で足をぷらんと揺らした。制服のスカートから覗く色白の脚を一瞥し、僕は眼下に広がる街を見る。高台の上にある公園はいつも無人で、ブランコもシーソーも揺れているところを見たことがない。その真ん中に建つジャングルジムのてっぺんで放課後水野さんと二人で街を見下ろすのがここ最近の日課になっていた。ぱたぱたと落ちてくる雨に濡れた前髪を少し整える。


 僕の街には毎年、海からウミウシがやってくる。

 浜から一直線に上がってきて街中のアスファルトをびちゃびちゃと濡らし、毎年決まって僕らの中学校にあるプールに行き着き、そこで卵を産み落とす。それを大人たちが大事に戴いてお祀りすることでこの街は一年中毎日欠かさず雨が降り続く。そうしないと僕らは生きてはいけない。雨に濡れいていないと僕らは死んでしまうのだ。

 ぱたぱたと落ちる雨が上空の光にきらきらと反射し、光の粒子が街を覆うように見えるここからの景色は結構好きだ。それをぼんやりと見ていると、隣でアイスがしゃりっと鳴った。

「沼田くん、今年も見に行くの? ウミウシ」

「え?」

「いつも見に行ってるでしょう、こっそり」

 にやりと笑われ、僕は途端居心地が悪くなって訳もなく座り位置を変える。

 ウミウシに近づくことは本来あまり褒められたことじゃない。それをクラスメイトに知られていたことに焦りにも似た感情が押し寄せた。

「別に責めてるとかじゃないから。大人に見つかると厄介だけどね」

 そう言って水野さんは雨と混ざって溶けた棒アイスをぺろりと舐める。絡みとった舌がやけに赤い。

「いつから知ってたの?僕がウミウシ見に行ってるって」

「んー、一昨年一緒のクラスだったじゃない?その時かな」

 中学一年生の時だ。僕は大事に仕舞った宝物を覗かれたような気分になった。そんな僕を置いて彼女は、「でも今世紀最大なら尚更見に行かなきゃね」と口角を上げる。見に行ったことが大人にバレると怒られると知っているくせに。

 彼女の長い睫毛に弾かれる雨を見る。滴った水滴が流れ落ち、頬を伝い雫になって、濡れた水野さんの真っ白な制服のブラウスに染み込んでいった。


 水野さんと公園のジャングルジムに上って街を見下ろすようになったのは、ちょうど半年前の今年の四月だった。

 その日は遠くにある別の街で夜空に向かって咲く花が打ち上がるのを見たくて、ちょうどいい場所を探していた。その花が別の街で花火と呼ばれていることは、この街から一度も出たことがない僕でも知っていた。家の中にいてもきっと見えないんだろうと思った僕は、親に黙ってこっそり家を抜け出して高台を目指した。あそこは街を見下ろせるほど高い場所だ。きっと遠くに咲く花火も見れる。

 そうして辿り着いた公園で、僕は花火よりも先にジャングルジムのてっぺんで夜空を見上げる彼女を見つけた。雨に濡れる黒髪がきらきらと星の光を受けるその姿を見て、僕は一瞬どこかの神様が気まぐれに遊びに来たのかと思った。

「あれ、沼田くん」

 ふっと振り返った神様は公園の入口に佇む僕を認めて笑い、そこで漸く僕はその人が神様なんかではなくクラスメイトの水野さんだと気がついたのだ。

 こっちおいでよと誘われるままに僕は彼女の隣に座ってジャングルジムのてっぺんで夜空を見上げた。遠くの方で色鮮やかな花火が見えたが、ぱたぱたと降り続ける雨越しのそれは随分と滲んで見える。

「水野さんはどうしてここにいるの?」

 僕がそう聞くと彼女は少し口の端を持ち上げて、いたずらするように小さく「内緒」と答えた。ガラス玉のような瞳の中に、降りしきる雨が粒子のように舞い降りていた。 


 その夜から僕ら二人は放課後にこの高台の公園に来て、ジャングルジムのてっぺんで街を見下ろしている。浜辺から街を横切って直線上にあるこの高台は街をよく見渡せた。雨の境界線が近いためか、街中よりも雨の量が少ないここにはいつでも僕と水野さんしかいない。

「ああ、ほら。来た」

 水野さんが食べ終えた棒アイスの棒切れで真っ直ぐ先を示す。僕はそれを追って浜辺の方に目を向ける。

 真っ黒い海が波の合間に渦を巻き、ずずっと山のように盛り上がったと思うとその先端からにょきっと二本の腕のようなものが生え、徐々に街に迫ってくる。濃紺に白い斑点を持つウミウシだ。なるほど、ここから見る分だけでも今年は特に大きい。本当に中学校のプールまるまるのサイズらしい。

 そいつはぬらぬらと身体を濡らしながら浜辺を抜け、民家を巨大な身体で包み込むようによじ登りながらプールを目指す。身体の両脇にあるひだのような部分が波打つように動き歩いている様は、毎年見ているとはいえ巨大すぎて少し気持ち悪くもあった。

「大きいなあ。家をまるまる覆ってる」

「ね。でも大きいおかげで、もう着きそうだね」

 確かに先程海から上がったばかりのウミウシはもうプールに到着している。身体が大きい分、一歩も大きいのだ。

 ウミウシは寝床に潜り込む赤ちゃんのように水の溜まったプールに収まると、頭の触角をぺたんと倒して静かになった。今日から二週間の間、あのプールはウミウシの寝床になる。その間に産み落とした卵を回収するのは大人たちの役目だ。僕ら子供はウミウシに近づかないように口酸っぱく教えられている。

「ウミウシってさ、どうして雨を降らしてるんだろうね」

「え?」

 雨の音に消えそうな声に思わず隣を見る。水野さんはもうウミウシを見ていなくて、膝の上に置いた手の中のアイスの棒切れをぼんやり見ているようだった。

 どうしてウミウシは雨を降らせるのか。その問の答えに、ウミウシはそういう生き物だからとしか僕は思いつかなかった。雨が止んでしまうと死ぬ僕らには、ウミウシが降らす雨の卵は生そのものだ。

 水野さんの言葉になんと返そうか迷っていると、雨に濡れた彼女の光る口元が小さく動く。

「――……」

 まるで聞かせる気がなかったようなその言葉は、雨とアイスに溶けて彼女の口の中に消えた。アイスの棒切れはハズレだった。


 ウミウシが街に来て五日目。僕は大人たちの目を盗んでウミウシに会いに来ていた。ウミウシが寝床にしているプールは僕の通っている中学校だ。大人に気づかれずプールに近づくルートくらい知っている。

 いつものように注意を払いながら校舎の外れにあるプールに近づくと、遠目からでも柵越しにこんもりと膨らむウミウシの頭が見える。ここまで大きな個体は初めて見た。起きているのか、頭の触角――大きすぎて腕のようだ――がピンと天を向いている。それを横目にプールの周りを一度迂回し、後方にある入口の柵の扉に手をかけたところで、僕はウミウシに先客がいることに気がついた。

(水野さん――)

 彼女は柵の中に入って、あろうことかウミウシの真正面に立っていた。ほんの少し手を伸ばせば触れられる距離だ。そこでウミウシを下から覗き込むように見上げている。僕は驚いて身体の一切が動かなくなった。毎年ウミウシをこっそり見に来ている僕でも、そこまで近づくことはしなかったからだ。

 彼女とウミウシはまるで何かを交信するかのように見つめ合っていた。僕にはそう見えた。やがて濃紺のウミウシが触角をぐねぐねと天に向かって動かし始め、腹を抱えるようにくの字に縮んだかと思うと身体の下からてらてらと光るバレーボールサイズの丸いものを吐き出した。(卵だ)僕は生まれて初めてウミウシが卵を生み出すのを見た。

 けれど僕がその光景に感動する間もなく、ウミウシは生み出した卵を目の前に立ち竦む水野さんに差し出した。器用に二本の触角に包まれて雨の中に光る水晶玉のようなそれを、水野さんが両手でそっと受け取る。

 そして彼女は、僕があっと声を出すよりも早く、手の中の卵をぐしゃりと握り潰してしまった。卵の中から溢れ出たどろりとした液体が水野さんの両手を滑り落ち雨に混じってプール場のタイルにぐちゃっと叩きつけられるところまで、僕は何かの儀式を見ているかのようにぼんやりと突っ立っていた。


 その夜、僕の街から雨が消えた。

 さあさあと降り続いていた雨は徐々に勢いを殺し、やがて街中でもぽたぽたと弱まってきたところで漸く大人たちは雨の異変に気がついた。気がついた頃にはもう遅かった。明け方には霧のように空気中に漂うだけになってしまった雨の粒子は、太陽が完全に昇ったところで一粒残らず消えた。

 雨が降らなければ僕らは生きてはいけない。朝日と共に街のいたるところから響く断末魔のような住民たちの悲鳴を聞きながら、僕はもう動かなくなりつつある身体を引きずって高台のジャングルジムを目指していた。そこに行けば水野さんに会える気がしていた。

 太陽が街を、地面を、僕をカラカラに枯らしていく。視界の端で腕の一部がぽろぽろと崩れ落ちていくのが見える。

 そうして辿り着いた公園には、――誰もいなかった。濡れた制服も、色白の脚も、溶けた棒アイスも何もなかった。僕は半分予想していたかのように、心の中でああと呟いただけだった。それでもやっとのことで辿り着いたジャングルジムのてっぺんはあまりにも高く見えて、僕はその根元に背を預けるように座り込む。座り込んだ反動で右足がぽろりと崩れ落ちた。

「みずのさん……」

 もう声が枯れて音になりきれていないそれは、雨ではなく太陽に灼かれて死んだ。薄れゆく視界の中、僕はあの日の彼女の言葉を思い出していた。


『雨の外にいきたい……』


 これが彼女が願ったことなんだろうか。雨がなくては生きていけないのに、雨のない世界で生きたいと乞い願う。それはなんだか酷く脆く、溶けて崩れるアイスみたいだと思った。

 もうこの街に、ウミウシはやってこない。

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雨が消えた日 えんがわなすび @engawanasubi

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