第1話:anemoscope 1

 中津川遼の朝は激痛と共に訪れる。

 カーテンの隙間から朝日の気配はなく、暖房を切った部屋の空気はすっかり凍っているが、遼には寒さに凍える余裕も、布団の温かさに起床を躊躇する余裕も、呼吸する吐く息の白さに慨嘆する余裕もない。

 ただ、全身が痛い。

 まだ、治っていないか。

 遼は冷静に身体へのダメージを確認する。

 腕、脚、身体の各所に重度の裂傷。筋肉は元のように繋がりきってはいないのだが、幸か不幸か腱に損傷はない。

 そして両足が腓骨から、腕は二の腕から折れている。

 言うまでもなく病院に数か月間入院しなければならない重傷なのだが、遼は右手を顔の前に掲げて、絶えず走りまくる痛みを意識の外に置きながら指先を動かす。

 ここで、一つの結論に至る。

 戦える。

 医者が聞いたら発狂するが、遼の基準ではこのぐらいなら平気。敵の襲撃が来ても迎撃も可能、そのまま倒すことができる。

 ただ、その前に激痛に耐える必要がある。

 遼は息を吸い込む。

 鼻から空気を吸えるだけ吸い込み、限界に達したところで口から一気に吐き出す。

 風船のように全身の筋肉を膨らませ、収縮させることによって折れている箇所を正しいラインで接触させるように矯正する。

 今日はここか。

 首筋に指先を当て、慎重に狙いを探ってポイントを見つけると指先を押し込んだ。

 指が皮膚にめり込むと一際激しく痛むが、全身に襲い掛かっている痛みの全てがゆっくりと消えていく。

 遼が刺激したのは痛覚を麻痺させる経穴。

 永久に痛覚を麻痺させることも可能なのだが、痛みは肉体のダメージを知らせる唯一の手段なので無視することはできない。

 しかし、消さないことには全身を隕石で押しつぶされているような激痛で身動きもとれず、意識を落とすこともできない地獄が続くだけなので、折衷案として一日おきに痛覚を麻痺させることにしている。

 ほどなくして、体内で荒れ狂っていた痛みの波が退いていったが遼は起き上がらず、布団の中でただ天井を見つめていた。

 遼は寝ているべきである。

 筋肉の裂傷や骨折などいくつかの重篤な負傷を抱えているので、傷が癒えるまで安静で居続けることに文句をいう人間はおらず、負傷を抱えて働く必要もない。

 むしろ、動くほうが迷惑というレベル。

 理性が休養を叫んでいるにも関わらず、もやもやした感覚があるのは静止していることに納得できていないからである。

 原因があろうとも、意思は前進を求めてやまない。その行先は分からず、奈落に向かっているのにも知れないのに静止を拒絶する。

 だから、遼は起き上がる。

 枕元に置いてある義眼をはめ、電気をつけて室内を明るくすると全身に巻かれている包帯を締めなおす。

 寝巻から、横浜FCのウォームアップ一式に着替え、枕元に置いてある木刀を手に取ると、部屋を出て、忍び足で洗面所に向かう。

 ひっそりと静まり返った廊下は暗いが、遼は電気もつけずにしなやかな足取りで、洗面所にたどり着くと、顔を洗って髭を剃ることで、いつものモードに入る。

 最後は人気と明かりのない居間に入って、靴下を履くと勝手口から庭に出る。

 中津川家の庭は広い。

 駅や商業地からかなり遠い、川沿いの田園地帯にあるので庭の面積は大きく取れる。

 庭といっても何もない。

 植物はおろか、芝生すらなくて土がむき出しな庭は、庭というよりはグラウンドといったほうが正確。片隅に巨木が並んで植えられているが、それのどれもが枯れており、寒々とした姿を晒している。

 中津川家にとって庭というのは、鑑賞するためではなく、日々の修練を行う場所でしかない。

 庭に降り立つと、靴底にコンクリートのように硬くなった大地の感触が伝わる。夜風は冷たく、空は相変わらず暗くて、オリオン座の星々が煌々と瞬いている。庭が白く凍結していないので、思ったより寒くはないのかも知れないのが、中津川家の庭は長年に渡る修練の末、雑草すら生えないほどに踏み固められているので、実際のほどはわからない。

 まずは、木刀を地面に置くと柔軟運動を始める。

 最初はラジオ体操にも似た運動から、徐々に稼働範囲を広げていく。

 脚を広げていって、股が地面につく。

 最初は硬かった筋肉も、運動を続けていくうちに熱が通って柔らかくなる。

 ウォーミングアップを続けていく中、遼は実戦に暖気運転をやっている暇があるのかと思ってしまう。実戦では、練習どころか寝込みを襲われることも珍しくはない。

 その一方で、トレーニングで靭帯をぶっ壊すのもバカらしいと思う。

 身体が充分にあったまったの感じ取ると、遼は柔軟をやめて木刀を手に取った。

 狙いを庭の端に生えている大木に定めると、遼は木刀を構える。

 木刀の切っ先を天高く突き上げる、上段の構え。

 左肘を胸に固定させる。

 軽く呼吸すると呼吸が白く漏れる。

 つま先が鋭く曲がって、地面に食い込むと大木に向かって突撃する。

 100mはある距離を、ほんの一瞬で詰めると同時に大木の幹に、木刀を振り下ろす。

 電柱を10本束ねたほどの太さがある大木を、左右に連続して袈裟懸けに数十発叩き込む。

 渾身の力を込めた一刀一刀が、目にも止まらぬ高速で打ち付けられるたびに、大木が生き物のように左右に揺れる。

 打撃音がマシンガンを打ち鳴らしているように響くのは、剣撃の感覚があまりにも短すぎるため、音響が分離されないから。

 木刀を打ち込むたびに、衝撃と同等の反動が腕に返ってくるが、遼は衝撃を逸らしながら、逆に勢いに変えて打ち込む。

 遼は適当な数で打ち込むのをやめると、スタート位置に戻っては木刀への打突を繰り返した。

 木刀に向かって突撃することによって、どんな敵だろうと一刀で地獄の底へと叩きこむ下半身の強さを鍛えるこの鍛錬は、物心ついた頃から行っていた。

 365日、絶え間なく。

 一発一発、打ち込むごとに成長していくような感覚がする。

 どこまで成長していくのだろう。

 成長に果てはあるのだろう。

 

 行きついた先には何があるのだろう。


 幹に食い込む寸前で遼は木刀を止める。

 標的に向かうはずだったエネルギーが途中で止められたことで、その反動が遼の全身を襲う。

 高速で壁に激突したような衝撃。痛みこそないが不快であり、それが遼の心に広がった波紋を抑え込んでくれた。た。

 

 手が重い。

 唐突に内臓の過半を持ってかれたように、身体が重く、感じないはずの痛みが全身にほとばしる。

 身体の過半に空洞があることを思い出す。

 覚悟はしていた。

 大切な存在を失うのはこれが初めてではないから、多少の損失感があることは覚悟していた。

 遼は手を握りしめる。

「……あの野郎」

 他に選択肢があるとは思わなかった。

 どこを回ってもたどり着く先は地獄しかないことが分かり切っていたとはいえ、それでも割り切れないものが残っていた。

 しかし、感覚の中に気配が入ってきたことで、遼は現実に立ち返る。

「寝てろよ。真衣」

「朝の挨拶がこれ?」

 縁側にやってきたのは一人の少女。

 朝の鍛錬は遼が好きでやっていることなので、妹の真衣を付き合わせたくはなかった。神煬流は付き添いだけでも重労働なのである。

「遼こそ、運動厳禁なのに無茶しないでよ」

「親父と戦っている時に比べれば、無茶じゃねーよ」

「比較するな」

 鍛錬は過酷。骨折している状態で行っているのだから無謀以外の何物でもないのだが、実戦に比べれば大したことはない。特にあの時の戦いと比べれば。

「お茶入れたから、一休みしなよ。遼」

「了解」

 偶然ではあるが鍛錬も切れていたので、休息を取るにはちょうどいいタイミングだった。

 ただ、その前に言うべきことがあった。

「おはよう。真衣」

「おはよ。遼」


 遼は縁側に腰かけると湯呑に手をかけた。

 湯呑に入っている真衣が淹れてくれたお茶に口をつける。

 湯の温度は熱いが、味はしない。

 まともな味覚は幼少期に捨てた。

 遼としては硫黄とか硫化水素といったものを混ぜてほしいところであるが、そのようなリクエストを出すことはできない。

「身体の調子はどうだ?」

「健康だよっ 至って健康。このまま、マラソンに出てもいいぐらいだよっ」

「なら出るか」

「冗談だよ。冗談」

「こちらも冗談だ」

「遼のはちっとも冗談に聞こえないよ」

 ドスを押し付けてくるような迫力で、冗談と言われても説得力がない。

 遼は味が感じられないお茶を一気に飲み干すと、縁側に背中を倒して大きく伸びをした。

 本来ならトレーニングを再開するべきなのだが、今はなかなか身体を動かす気分になれない。

「遼こそ、戦える?」

 真衣が遼の体調を問う。どう見ても、真衣より遼の方が重篤である。

「常人なら身動きがとれない。神煬なら戦える」

 遼の表情が曇る。

「身体を動かすのが精一杯で、初業しか出ない」

「とっとと病院に行け!!」

 手足が骨折していて、筋肉の各部位に裂傷がある。客観的に見て即入院全治何ヵ月級の重傷。筋肉と腱の動きを調節することによって辛うじて常人のように動くことができるが、その代償として初級の技しか使えなくなった。

「米軍から喧嘩売られた時に、中業が使えないのはつらい」

「考えるな」

「いや、初業でどれくらいのことができるか試してもいいか。中業だと一掃できるけど、それだと面白くない」

「だから、戦うな」

 初級の技といっても、神煬流の初級というのは個人に対して使う技で中級は対軍隊用の技になる。つまり、中級さえ使えれば遼には一人で米軍全軍を相手にしても戦えると自負しており、実際に父親との戦いではその中級技の応酬で、大雪山の地形を一変させた。

 その戦いで発生した被害を地震としてごまかしてしまえた。

「喧嘩を売られた訳でもないのに、遼は何がしたいの」

 米軍が大挙して襲い掛かってくるのであれば遠慮なく迎撃できるのだが、かといってアメリカ全体を潰したいほどの動機も意欲もない。

 遼が今一番、したいこと。

「なあ、真衣」

「なに?」

「一発やらせろ」

 爽やかな笑顔で言い放った瞬間に、遼は顔面を思いっきり真衣に殴られる。

「いってぇ~。けっこうきたぞ、畜生」

 痛みは感じないけれど、一応は言ってみる。

「ふざけるな」

 女の子に対して無礼な言い草であるが、遼の本音はそこだった。

「……どうしたの? 遼」

 殴ったくせに、何故か心配そうに遼を見る真衣。

「どうしたのって、どうしたんだよ。急にシリアスになって」

「だって、遼。泣きそうだから」

「泣きそうなのか」

 涙もろいキャラだと遼は思ってはいないが、その一方では泣きそうに見られることに納得していた。

 縁側に寝転がって、真衣の声を聞いて、真衣の顔を見るだけで遼は帰ってきた気がした。

 いつもの場所に。

 長かった。

「信じられないな」

「何が」

「真衣が元気なこと。12月頭は本当に地獄だった」

 思い出したくもなかった。

 この子を救うのだと誓い、必死の想いで鍛え上げたというのにいざ、窮地に陥れば見守ることしかできなかった。

「ほんと信じられないよね。病院のベッドで寝たきりになっちゃってなにもできなかった」

「悪い」

「悪くないよ。遼がちっさいころから頑張ってくれたのはボクが一番よく知ってる。楚王陛下なのに自虐はかっこ悪い」

「……そうだな」

 今に至るまで多大な犠牲を払ったのだから、卑下をすることは虐げたものまで侮辱することになる。

「お父さん。いまごろ何やってるかな」

「地獄で鬼どもと楽しくバトルでもやってるんじゃね」

「天国とは言わないんだね」

「神煬が天国に行けるわけないだろう」

 神煬はこの地に生まれて以来、ただ世界最強を目指した狂った一族。その宗家を名乗る者は一人残らず、その拳を無数の鮮血で赤く染めている。屍山血河を築いたものが天国に行けるはずがない。

 真衣の表情がかすかに暗くなる。

「死んじゃったら裁きは受けるべきだよね」

 遼は笑い飛ばす。

「ばーか。クソオヤジが素直に裁きを受けるかよ」

「お父さんがそういうタマじゃないよね」

「地獄に堕ちるほうが好都合だろ。殺していい奴らしかいない」

「殺してもいい奴って……」

 いくら神煬とはいえど殺人鬼ではないので、何もしてこない善人を襲うのは気が引けるが罪人獄卒には遠慮はいらない。襲い掛かる相手なら遠慮なく殴殺できる。

 一度拳を振り上げたら止まらない。

 眼前に敵という敵が存在しなくなるまで。

「うちっていったいなんなの?」

「戦闘狂。軍隊だろうが、自然災害だろうが、隕石の落下にまで喧嘩を挑むイカれた一族だ」

「本当にどうしようもないよね」

「真衣もその一員だ」

「遼やお父さんみたいな変態とボクを一緒にするな」

「言ってくれるな。真衣はオレをロリコンだと思うのか」

「ロリコンよりも戦闘狂のほうがタチが悪いと思うんだけど」

「どちらも脳内に止めておくか、実行に移すかの違いだろ」

 想像の中で大量虐殺するなり、幼女を凌辱するのは人格はどうあれ、個人の中で完結する事だから問題ない。それを現実、自己だけではなく他者がいる世界で実行するのが問題なのだ。

 いずれにしても途中で会話が止まる。

「でも、うちのご先祖様は全員地獄に堕ちているんだよね」

「そうなるかな」

「今頃地獄はご先祖様に支配されてない?」

 遼は、口元を獲物を見つけた肉食獣のようにゆがませる。

「閻魔やアヌビスの実力は知らんけど、うちのご先祖さまならとっくの昔にブチのめしている。それはそれで親父からすれば面白いだろうな。なんたってウチの一族は親だろうが嫁だろうが、強ければ戦りたがるロクでなしの一族だからな」

「ほんとにサイテーな一族だよね」

「あのクソシジイなら天国制圧も企んでいるだろうな」

「その心は?」

「かあさんが地獄に堕ちるわけないだろ」

 万が一落としていたら、関わった奴ら全員皆殺しにするとでも言いたげな遼を前に、真衣は溜息をついた。

「地獄も制圧して、天国とはすごい話だね」

「楽しそうだが」

 地獄に堕ちたら、生前の罪状に見合った裁きに悶え苦しむのが関の山なはずなのに、そんなの一切合切無視して闘争を挑むのが神煬らしいといえた。

「会えたらいいよね」

 いってしまった人に望むことがあるとすれば、それは先にいってしまった人と出会うことだろう。その人を思えば思うほど、別離の期間が長ければ長いほど、出会て幸せになってほしいと望むものである。

「会えたらいい、ではなくて会うんだ」

 機会を待つのではない。絶対に望みをかなえるのが神煬の流儀なのだ。

「そういえば、真衣」

 遼は気になっていたことが一つあったので、話題を変えることにした。

「なになに?」

「髪、伸びたな」

 今の真衣は一見すると少年にしか見えない。

 うっすらと黒い物が頭皮を覆うだけの坊主頭。

 遼が真衣の頭に手を伸ばすと、かすかに伸びた産毛のような髪が全て、遼の掌に隠れてしまう。

 完全に剃っているというわけではないが、ベリーショートというには短く、チクチクとした感触がするだけで頭皮の硬さとぬくもりがダイレクトに伝わってくる。このため、今の真衣は少年のように見えてしまう。

 伸びた、とはいえない真衣の髪だけど、遼にとっては大きな進歩だった。

「ほんとに伸びたよねー」

 頭を撫でられている真衣は、猫のように嬉しそうにする。

「一生、坊主だと思ってた」

「その一生が、どれほどの時間しかないと思っているんだ?」

 一生という単位を使うのさえも、おこがましいと思った。

「遼が望めば、ずっと坊主でもいいよ」

「抜けた時はワンワン泣いていた癖に何を言うか」

「それはそれ、これはこれ。もちろん、遼が望むのならロングでもいいし」

「ラプンツェル並みの超ロング希望」

「やったー。一生ニートできるぞー」

 遼は軽く、真衣の頭を叩いた。

「そこは専業主婦といえ」

「ボクの進路は遼のお嫁さんって、最初から決め…痛い痛い」

 遼が頭皮を強めにマッサージしたので、真衣は痛がる。

「そういう恥ずかしい台詞を平気で言うか」

「遼だって、聞いたら死にたくなるような台詞を、おとーさんみたいに言うじゃん」

「そうか?」

「……自覚ない……いだい!」

 遼としては父親と同列に思われるのは心外なのだが、同じ外道であることも自覚している。

「遼。目を閉じて」

 不意に真衣に要求される。

「何をするつもりだ?」

「いいから目を閉じて!! 動かない!! 気配も探らない!! いい!!」

 返答も聞かずに、真衣は遼の前から姿を消す。

 遼としては目をつぶることを認めたわけではないのだが、現れた時に目を開けたままなら真衣の機嫌を損ねるのが明らかなので、遼は目を閉じる。

 そもそも遼の視界は常人の半分しかない。戦士としては不利な条件を必死の鍛錬で克服した結果、視界がまったくなくなったとしても世界の全てを残りの感覚で感知できるようになった。それこそ両目で見えているように。

 今、真衣は側にいない。さっき感じとった足音から推察すると二階に上がっている。

 

 真衣と出会ってから、10年以上のことになるが、それまでのことはいつまで経っても覚えている。

 色々なこと。

 甘かったり、苦々しいことも。


 それはなんでもないはずの朝。

 いや、その日は最初からおかしかった。

「真衣、入るぞ」

 この日に限って、遼の鍛錬に合わせて起きてくるはずの真衣が起きてこなかった。寝ててもいいと言ってもいいのに起きてくるのだから、今日に限って宗旨替えをしたとは思えなかった。

 ドアをノックしても反応がなかったので、遼は真衣の部屋に入る。

 部屋の中に入ると真衣はいなかった、ということはなくベッドの中で布団を頭まで被りながら震えている。

「おはよう、真衣」

「おはよ、遼。悪いけど出ていって」

 いきなり拒否される。

 会話するまでもなく、人慣れないしていない子猫のように全力で近づくなというオーラを放っていた。

「身体の調子でも悪いのか?」

「いいから出ていって!!」

 真衣は不機嫌だった。

 前日に何かやらかしたのかと遼は考える。その時の真衣はいつもと代わりがなかったが、真衣は遼と違って不満を表に出してはいないので何を失敗したのかと不安になる。しかし、遼が何かをやらかしたというよりは自ら不機嫌になっているような気がした。

 つまり、真衣に何かがある。

「ちょっと遼、やめ……」

「一生、布団に入ったままか」

 本気になった遼を、真衣には止められなかった。

 布団に手をかけるのと布団を真衣から引きはがすという二つの動作を、一つの動作として瞬時にやってのけた遼であったが、その行動を後悔することになった。

「真衣、その頭……」

「………」

 ところどころ頭髪が抜け落ちていて、真衣の頭は髪が残っている部分と頭皮を晒している部分でまだらになっていた。


 1年は経っていないのに遠い昔のように思える。

 あれが遼にとっては地獄の始まりだった。

 今は、真衣が生きているからそんなこともあったねと振り返ってもいられるが、そうでなければ沈没していた。父親と戦うことが確定していたからだ。

 生前はどちらかといえば迷惑だった父親だとはいえ、消滅してしまうと心に大きな空虚が空いた。遼としては認めざるおえなかった。外道であったとしても肉親は肉親なのだと。

 ……思ったよりも強くない。

 欠いてはいけない存在が二つも立て続けに失ってしまったらと想像すると、遼は深淵の側に立っているような気分になる。

 覗きこむと、そこは永遠に続く闇。

 その中に飛び込んでもよかったのかも知れない。

 腹いせで、自身がいなくなっても続く世界を破壊してもよかったのしれない。

 

 遼は思った。

 生きててよかった、と。


 音が聞こえてくる。

 小さかったのが、すぐに大きくなる。

 甘い匂いが鼻腔をくすぐる。

 気配が肌をくすぐる。

 遼は目を開いた。


 休憩時間を終えたはずなのに、遼は縁側から動けないでいた。

 下半身の一部に無駄に力が入っている。

 休憩時間をはみ出すと何処からともなく制裁が来るのだが、制裁を与える存在はしない。無理に修練する必用もないのだが、日々のルーチンワークを止めることは許さない。にも関わらず動けないでいるのは、数分前の光景が遼にダメージを与えていたからだった。

 髪は女の命と人は言う。

 遼に言わせれば髪があろうがなかろうが可愛いものは可愛い。

 たとえハゲであっても真衣は可愛い。それは間違っていない。

 にも関わらず、遼は動けない。

 痛みを感じないはずなのに、じんわりと痛みが蘇る。

 ……長谷部の一撃をまともに食らった時には死ぬかと思った。それでも生きていることが不思議なのだが、それと似たような衝撃を受けていた。

 しかし、いつまでも寝てはいられない。

 そのためには毒気を抜いておく必要があった。

 再び外に出る。

 浮ついた時には修練に限る。

 遼は庭の真ん中に仁王立ちして目を閉じると、対戦相手の姿を思い浮かべる。

 国籍は中華、身体は大柄。武器は槍で特徴は赤みがかった肌に長い顎髭。

 目を開けると、そこには一人の武人がいる。

 現実の世界にはいないが、遼の世界にはいる。遼を超える圧倒的な巨躯も腰まで届く長い髭も、分厚い装甲から漏れる吐息と殺意を遼ははっきりと知覚している。

 武器が大刀でないのは、その当時には開発されていないからである。

 仮想とはいえ、敵を前にすると遼からは浮つきは消え殺意が日本刀の刃のように鋭く張りつめてくる。

「やろうか。関公」

 軽く一瞥すると、遼は長大な槍の範囲を見ていないような無造作で突っ込んでいった。

 

 真衣は言った。

「バッカじゃない」

 バカと言われてもしかたがなかった。

 修練から数時間後。2人は家を出て周りに広がる水田地帯と堤防を見ながら学校に向かって歩いている。

「知らなかったのか?」

 言い返せる言葉がないので、開き直るしかない。

 制服から伸びる手首には真新しい包帯が巻かれている。それだけでなく額にも包帯が巻かれているのは、仮想戦闘の結果が激しく、現実の肉体にも影響が出たからである。

 その結果、怪我がひどいことになった。

 一瞬でも注意が反れていたら、死んでいた。

「強かった、関公。話には聞いていたけれど、見ると試すとではぜんぜん違う」

「実際にいたわけじゃないでしょ」

 三国時代に生きて死んだ人間が、現実に蘇るわけではないが、その強さを再現してみることはできる。更にはその本人が目の前に対峙していると想定してみて動くことすらできる。名前は重要ではない。体感できる強さの強度が重要なのだ。

 無論、再現できるのは関羽だけではない。膨大な武人たちのデータベースの量に、遼は神煬流のあきれるほどの歴史の長さを実感する。

「死んじゃったら、バカバカしいじゃない」

 真衣の言うことがもっともである。

 仮想戦闘の結果、遼は包帯人間と化していて行くべき場所は学校ではなく病院だ。入院するべき負傷なのだが、遼からすればこの程度はかすり傷であり、明日明後日と順調に傷が増えていくことになるのだろう。誰にも止められない。

「自重はする」

「遼の自重ほど、信用できない言葉なんていうのはないんだけどね」

 先祖代々、こういう奴らなのである。

 真衣は溜息をついた。

「でも、中業は使わなかったんでしょ」

「初業でもなんとか対応できた」

 仮想戦闘は楽しかったと同時に消化不良感も否めなかったのは初業、つまり初伝技で決着がついてしまってからである。遼としては死力を尽くしても勝てない戦闘を望んでいただけに残念なところだった。

「使わなくて正解」

「……だな」

 中業は対軍隊用の技なので、使用すると大規模破壊を引き起こす。対戦相手は架空だとしても効果は現実なのだ。それこそ爆撃するような被害が周辺にまき散らされることになる。

 具体的にいえば、遼たちが住む真野新町市全域はおろか、神奈川北東部や多摩地域が跡形もなく消滅する。

「実際、親父とのアレで大雪山が消滅したけれど富士山潰したほうが面白…ぐほっ」

 鳩尾に一発貰う。

「そんなに強くなってどうするの。米軍とでも喧嘩する気?」

「するか」

「こーら」

 頭を軽くチョップされる。

 今の遼なら、たった1人で米軍全員を相手にしても余裕で勝利することができる。核兵器を使われても耐えることができる。全てを殲滅するにもさほどの時間を必要ともしない。それは父親との戦いで得られた確信であった。

 米軍全てと戦うほうが、父親と戦うよりも楽だ。

「もちろん、やられたら京返しだけど」

 売られた喧嘩は倍どころか京にして返すというのが家訓なので真衣にも是非はいえない。

「条約は結んであるんだよね」

「もちろん。残念というか日本や米軍はそこまでアホじゃないからつまらないとか安心だけど」

「残念っていうな」

「問題は北だ。あいつらは約束というのは、破ったことを自慢するものだと思ってやがる。特にあの豚は手を出してくるかもしれないから、その時は生まれたことを後悔させてやる」

 空気が一度ほど上昇したと思ったのは、決して気のせいではないだろう。

 遼という男はやるといった事はやる。どんな事でもやる。それがどれほどの地獄になろうともである。

「流石にそういうことが起こるとは思えないから、ゴジラと戦おうと思っている」

「ゴジラと戦う?」

 正気だと思えない遼であるが、長い年月を経て蓄積された膨大な戦闘データから関羽のデータを抽出して仮想戦闘を行っていたのである。関羽だって今となっては仮想の存在でしかないのだから、ゴジラの存在を想定することも可能。仮想戦闘もできれば、攻撃を食らったとして実際の肉体にその結果を現実のものとして反映させることもできる。

「データはあるの?」

 問題はゴジラの動作がどれだけデータ化されているかということである。関羽とは違い、仮想の存在なのでゴジラが存在すると仮定しての想像戦闘は難しい。少なくても可能な限りの映像作品を見る必要がある。

 遼は途端につまらなそうにする。

「あいつら、遅いんだ」

「そりゃ遅いでしょ。あれで早かったから怖いよ」

「オレは大歓迎だが」

「歓迎するな」

 実際に想像してみると、遼を相手にするにはゴジラには決定的に機動性がない。いくら一発が強烈だとはいえ昔の誰かが言っていたように「当たらなければどうということもない」のである」

 攻撃には耐えられるのか聞こうとした真衣であったが、遼の表情を見て無益だと悟る。神煬流にはコジラの熱線にも対応できる技がいくつかあり、逆にゴジラは遼の打撃の前には数発しか持たないだろう。

「格闘漫画で負けそうな人はいる?」

「某親子なら勝てる。ただ、俺でも無理そうな奴がいるから、そいつには勝ちたい」

 遼が戦っても勝てない相手がいるというのは驚きだった。たとえ仮想でも。

「どんな人?」

「劣〇生シリーズの司〇達〇」

「遼はどのあたりで勝てないと思った?」

「あいつ、横浜からの狙撃で一瞬で釜山にいた大艦隊を分子も残さずに消滅させた。奴に勝つには一瞬で長谷部を決めなくては勝てない。いや、死んでも復活するから魂ごと消滅させる一撃を決める必要がある」

「それって設定がおかしいよね」

「うちら一族もおかしい」

 冬の日の太陽のように晴れ晴れした兄の笑顔に、真衣は頭痛を覚えずにはいられなかった。

 そういう一族なのだ。

 4000年の昔から闘争が大好きで大好きで大好きで大好きでたまらなくて、戦う相手を求めて戦場を彷徨い歩き、軍隊は愚か自然災害でさえも倒すべく術を磨いた結果、おかしな方向に行きついてしまった狂気の一族。

 その末裔が中津川遼なのである。

「……やばい」

 遼は不意に鼻の頭を抑えて立ち止まる。

「何がヤバいの?」

「真衣を見ていたら、俺の戦艦大和が元気になってきやがる」

 真衣は聞くやいなや、髪をつまんでは持ち上げた。

 髪全体がすっぽり抜けて、本来のほんのり黒みを帯びた坊主頭が晒される。その状態での真衣は女の子の制服を着た、とても愛らしい男の子にしか見えない。

「どう? これで元気無くした?」

「勘弁してくれ~」

 いっそ殺してあげたほうがいいのではないかという醜態を晒す遼に、真衣は呆れつつもカツラを被りなおした。

 カツラの位置を調整すると、そこにいたのは女の子の制服を着たかわいい男の子ではなく、腰までのストレートがとても美しい、存在しいるはずなのにどことなく存在していないように見える可憐な美少女だった。

「坊主の真衣も可愛いけど、真衣はロングのほうが可愛い。二度とショートに……するな」

 鼻血を吹き出すほどの勢いで力説する遼であるが、正気に戻ったのか罪悪感にまみれた顔をする。

「悪い。好みを押し付けちまった」

「楚王陛下は長い髪がお好み、と」

 自身よりも、あくまでも真衣を尊重する兄に真衣は優しく微笑んだ。

「いいよ。遼の願いは僕の願いだから。この先もずーっとロングでいるよ」

「こーら、違うだろ」

 遼は真衣の頭を優しく撫でる。

「俺は俺で、真衣は真衣だぞ。俺のことなんてどうでもいいのに」

 昔から、ずっとそうだった。

 真衣はいつも、遼の望みを優先する。

「いいんだもん」

 自分の望みが遼の望みであるといわんばかりに。

「ボクは遼のために、生まれてきたんだ」

 真衣にとって、真衣の願いがあるはずなのに、いつだって遼の願いを優先する。

「超ロングになってやるから覚悟してね」

「何を覚悟するんだよ」

「ボクが超超ロングになったら仕事になんていけなくなるから、心して養ってね♪」

 偉いことを言ってしまったと後悔しかける遼であったが、あっさりと克服する。

「しょうがないなあ。いざとなったらロシアと中国でも落とせば、一生食うには困らないか」

「相変わらず思考がぶっ飛んでいるなあ」

 食うに事欠くようであれば大国の一つや二つを略奪すると宣言しているのだから、神煬からすれば正常運転である。

「でも、早く伸びないかな」

 人間の髪というのは伸びる速度が遅い。身長はおろか腰まで伸びるのに10年はかかるだろう。それは待てない。

「神煬には、育毛促進の秘孔はないの?」

「ないこともないけれど…」

 遼にしては珍しいことに、言葉を濁す。

「遼らしくないなあ」

「副作用が起きるかどうか、心配なんだよ」

 育毛の効果を倍増させるのは自然に反しているので、副作用が生じる可能性もある。遼ならともかく真衣は病み上がり、せっかく元気になったのに余計なことをしたせいで、再び入院ということになれば遼としては悔やんでも悔やみきれない。

「重篤な怪我人にそんなことは言われたくない」

 しかし、複数の骨折を無視して動きまわり、更に無茶をやって怪我を増やしている遼に資格はない。

「ねえ、いいでしょ。遼」

 遼は僅かに後退するが、真衣が接近するほうが早い。

「ボク、髪伸ばしたいんだぁ」

 柔らかな声が遼の耳たぶをくすぐる。

「ねっ、いいでしょ」

 そして、甘い微笑み。

「……しょうがねえなあ」

 遼はあっさりと落ちた。


 色々あって、遼も18歳。

 裏の世界ではアメリカやEUと巨大な国家と渡り合える個人であっても、表向きは一介の高校生でしかない。

 その高校生活も残り三か月を切った。

 高校3年生の三学期ともなれば、大学入試や就職活動やらで学校に通っている余裕もないのだが、遼の場合は事情が異なる。

 9月から真衣の看病に必死で、学校に行っている余裕がなかった。

 運が悪い事に跡目相続の対価として父親を討ったのだから、これに加えて真衣が死んでいたりしていたら、遼は廃人になっていた。

 最悪の事態は免れたとはいえ、最悪から悪に変わっただけのこと。

 学業に復帰できるようになって、遼に待っていたのは単位不足という現実だった。

 下手をすれば留年、もしくは物理で卒業という展開もなくもなかったが、遼の通っている学校は父親の友が経営しているので、その辺りは融通を利かせてくれた。

 つまり、補修を履行することで卒業させてもらうことになった。

 教室の中はまばら、通っているのは補修が必要な生徒たちばかりで、席の一部を埋めている連中に見知った顔はない。

 そもそも、遼に友達といえる存在は少ない。

 いや、いない。

 真衣と父親以外の知人を探ってみれば、父親の友人である学校の理事長家族ぐらいなもので同年代、同じクラスの奴で友人と呼べる存在がいないことに遼は愕然となる。

 しかも、今気づいたのだからどうかしている。

 クラスメート達は一言二言交わすが、事務的なやり取りばかりで友人づきあいに発展することがなかった。敬遠されていたのだろう。大っぴらにしたことがないとはいえ、遼が近づいていはいけない存在だというのは、この地域の住人なら誰でも知っている。小学生の時に地元の半グレ集団を一人で殲滅したことは伝説になっている。 

 ボケた感想を抱くのは、単純に真衣がいたからである。

 真衣がいるから、孤独を感じることがなかった。

 友人なんて必要なかった。

 今更、友人なんて作ろうとは思わないが、かといって孤独であることを感じずにはいられないのは、その真衣でさえも虹の橋を渡りかけたからである。

 ……この事で悩み始めると深みにはまっていきそうなので、授業に集中することにした。授業を受けているのだから、真面目に集中することが学生の本分ではある。

 しかし、建前を実行できれば苦労はしないわけで、授業を受けているのも単にそれが条件というだけなので無味乾燥さに拍車をかけている。

 だから、始まってから数分で真剣な受講というのもは諦めた。

 そもそも実はボッチだということに気づいたのも、暇つぶしのために周囲を確認したのが始まりなので、どうどうめぐりである。

 もう一冊のノートを取り出すと開く。

 他人以外には見せられない機密であるが、見られても問題はない。

 ひらがなでも無ければ漢字でもない、アルファベットやシュメール文字でもないまったく未知の文字。この文字が読めるのは遼だけである。

 神煬流に生まれた人間はどういう訳か語学力が高く、遼も冗談でTOEICのテストを受けたら一発で合格した。それだけに理解できたの疑問はないけれど、問題は無き父が何処でこの言語を覚えたのかということである。

 簡単に言ってしまえば、地球外のどこかにいったということなのだろうか。文字に関してはあらとあらゆる字形を検索してみたが地球の文字で似通っているものはなかった。

 文字の事情を告げないまま父親は逝ってしまった。いや、倒した。

 考えても答えがでない問いで悩んでも時間の無駄なので、遼は内職に取り掛かることする。

 もう一冊のノートを取り出すと白紙のノートに書き写す。フォントがあるわけではないのでいちいち手書きで写すしかない。筆記では保存にも限界があるのだが、外字機能で一字一字登録というのも大変なので、やる気がおきない。

 書き写すのも作業ではあるが、卒業して就職するとしたら時間がとれないのでやろうとするなら今ではある。

 先生は注視して、声を掛けられたら対応できるようにはしている。もっとも、学校で下手に遼に関わろうとする教師はいないし、体罰をしようとする奴はいない。

 やろうとしたら逆に殴った奴の骨が折れる。

 未知の文字で書かれたノートの内容は水銀、亜鉛、硫黄などいった鉱物の組み合わせで作る薬物のレシピ。

 神煬流は武術であるが錬金術といった側面もある。中国の錬金術は鉱物を特定の組み合わせで生成することで不老長寿を目指したが、神煬流の場合は身体の強化を目指したことに特色がある。そのように作られた薬物を代々服用することによって身体を強化、その遺伝子が積み重ねられた果てに遼がいる。

 昔とは違って秘匿する意味がないので公開も考えるが即座に否定する。この薬物は神煬の一族にカスタマイズされたものなので一族外の人間には害にしかならない。硫黄や青酸カリなんて与えたら間違いなく死ぬ。

 疑問が生じる。

「……きいておけばよかった」

「何が聞いておけばよかったのかな。中津川くん」

 声を出していたらしい。

 視線が合ったけど、内職しているのを露骨に見逃して教師は授業を再開する。

 真衣は遠い昔に遼が拾った子である。神煬の血筋ではないので、神煬の薬物を与えれば間違いなく死ぬ。にも関わらず、真衣は生きている。

 何故?

 その異様さは真剣に考えたほうがいいかも知れない、と思ったが、その時にチャイムが鳴って授業が終了する。

 今は四時間目。

 つまり、この先は昼休み。真衣と一緒にご飯を食べるチャンス、何を食べようか考え始めた矢先、携帯が振動したので画面を見た。

 

 遼が向かったのは学食ではなく、中等部の保健室。

 静かに侵入すると、一人の少女が保健室で寝ていた。

 カツラを外していて、坊主頭をさらしている女の子は遼の姿を見るなり、慌ててカツラをつけようとするが遼が手で制すると、真衣は顔を背けた。

「恥ずかしい……」

「恥ずかしがることか。見飽きた」

「昔と今は違う」

 遼が顔を横に向けて、目をつぶると雑音が聞こえてきた。

 雑音がぴたりとやんだので、目を開けてみるとそこには黒髪を腰まで伸ばした、桜の花びらをまとわせる春風のような美少女がいた。

「余裕があるなら、問題なさそうだ」

 遼は椅子を引き寄せて真衣の枕元に座ると、中身が膨らんで破けそうなビニール袋を真衣の上に置いた。

「ほらよ」

「ありがとうー、おにーちゃん♪」

「こういう時だけ、兄と呼ぶな」

「それじゃ頂きまーす♪」

 真衣はビニール袋に入った菓子パンを取り出すと包装のビニールを破って、猛烈な勢いで食べ始めた。

 一瞬で焼きそばパンを取り出すと、猛烈且つ流麗な手先でカレーパンのビニールを破き、固形物をそれこそ飲み物であるかのように一気に食べる。

 さしもの遼も、その光景を唖然として見るしかった。

 餓死寸前の人間が水を飲んでいるように猛烈なのにも関わらず、名家の子女のような上品さが漂うのはなぜなのだろうと考え込んでしまう。

「ごちそうさまでしたー♪」

 遼が購買で買ってきた菓子パンを食べるまでもなく、真衣は与えられた菓子パンを食べ終えた。

「おな……ごめんなさい」

 真衣は言いかけたが、急に赤面すると毛布を顔をまでかけて寝込んだ。

 遼は自分が食べようとした菓子パンを、真衣の上に置いた。

「食えよ」

「……バカにしてるでしょ」

「してないよ」

 沈黙が訪れる。

 遼が視線を反らせると、ベットのほうで雑音、少し遅れて咀嚼音が響いた。

「安心した」

 遼は言った。

「真衣が倒れたと聞いたから心配したけれど、あれの副作用がこれか」

 真衣が倒れて保健室に運ばれたというメールをもらった時には焦ったけれど、増毛促進の秘孔をついた副作用だと気づいて遼は安心した。

 髪が伸びるということは、何かが生まれること。

 自然の摂理を越えて増強するのだから、

「お腹が空いちゃって大変だった。お腹が空きすぎて空きすぎて、何もできずに運ばれた」

「それ以外に何か変わったところは」

「特に何もないかなー」

「それなら良かった」

 それだけではないのかも知れないが、真衣に聞いても分からないのだから、今後の展開を見守ることしかできない。

「ごめん。遼の分まで食べちゃった」

「気にすんな」

 遼はアリスパックから水筒を取り出すと、その中身を飲み始めた。

 上機嫌になる。

「くはーーーっ!! 青酸カリうめーーーーーーっっっ!!」

「人間やめちゃってるよねー」

「この独特の辛みがたまんねーぜ」

「…そう思うのは遼だけだよ」

 普通の人間なら、地獄の苦しみを味わいながら死んでいる。

「無事でよかったけれど、学校初日で倒れるとは先が思いやられる」

 遼も単位不足で苦しんでいるが真衣のほうが厳しい。二学期から休学することになり、復帰してみたら周囲との学力に開きが生じていていた。その差が厳しいのは真衣の表情からわかる。

「むっちゃ厳しい。この先、どうなるか大変だよー」「真衣は卒業はさせてもらえるからな」

 中学は義務教育なので卒業させてもらえるし、ある程度の融通を利かせてはもらえる。真衣の頭の良さなら春休みに地獄を体験するだけで、学業も追い付けるだろう。

「遼は大丈夫?」

「大丈夫だろ。留年だとホザいたら力づくで卒業するだけだ」

「爺ちゃんに面倒をかけるな」

 実際は学校を真面目に通えば遼も卒業できる。

「遼は卒業するとして、進路は決まっている?」

「親父の後を継ぐ。めんどくさい話だ」

 関節を破壊することの逆は関節を治すことでもある。

 神煬流は打撃技ではなく投げ技、関節技も極めているので、その応用として柔道整復の技術も長けている。遼の父親も表向きは神医と呼ばれる柔道整復師として生計を立てていた。その父親の跡を遼が継ぐことを、周囲から期待されている。

「今すぐにでも働けるんだけど、めんどくさい」

 その気になれば今でも父親の後を継いで柔道整復師として働けるのだが、この3年間か4年間ほど学校に通い国家試験を受けて資格を取らなければ違法になってしまう。

「4年間遊べるなんて、うらやましいがる人はたくさんいるのにね」

 大学に行ったら遊べるとはいうけれど、それでも卒業するためには単位を取ってテストにも及第し、卒論も仕上げないといけない。一方で柔道整復という関しては教わるどころか逆に教師以上の知識を持っているだけに大学行くよりも楽できるとはいえ、時間を無駄にしている感があるのも事実だった。

「親父も財産を残してくれたし、大学から翻訳のバイトを回してくれるから当分は2人で遊んで暮らしていける」

「遼は面白くない?」

「安直過ぎて面白くない」

 楽といえば楽なのだけど、あらかじめ敷かれたレールの上を進んでいる感はある。

「じゃあ、遼は何をしたいの」

「真衣といちゃいちゃしたい」

 正直な感想だった。

「こらっ」

 頭を軽くはたかれる。

「今まで散々苦労させられたんだから、これから真衣とヒャッハーして何が悪い。いや、させろ」

「本人目の前にして、堂々とのたまうな」

「もしかして、させてくれないのか」

 今度は更に激しく頭を殴られる。

「……いったいぞ。マジで目の玉飛び出るかと思った」

「だから、人前だっつーのに恥ずかしいことを悪びれもせずに語るな」

 色々と言いたいことはあるが、真衣が赤面しているのでこの話題は避けたほうがよさそうだった。

「で、他人の心配をしている余裕はあるのか?」

「現実をつきつけられて、真衣はおもいっきりへこむ。

「思っていた以上に大変。現実はそう甘くないって思い知らされたー」

 休んでいた間に、学力が周囲から引き離されていたことを思い知らせて真衣は乾いた笑みを浮かべた。

「こればっかりはオレでもどうする事できないから、英語ぐらいか」

 いくら遼でも、これは真衣当人の問題であるのでどうすることもできない。

「ありがと。英語は最初から遼を宛てにしていたから頼りにしている。それ以外はダメだよ」

 釘を刺されてしまう。

「オレって信用ないかな」

「あると思っていた?」

 真衣とためなら、なんでもやれる覚悟が遼にはある。

 それがどんなに非道なことだとしても。

 真意を見透かされて複雑な表情をしていた遼であったが、不意にが力抜けた。

「なに笑ってるの?」

「いや、普段に戻ってきたんだなと」

 行く手に待つのは、決して楽な道のりだとはいえない。

 でも、去年の9月は真衣と2人で昼飯を食って、下らないことでも笑える日常が来るなんて思ってもいなかった。

「いくらロリコンでも、お父さんのことをなかったことにするのはかわいそうだよ」

 全てが元通りとはいえない。

「いいんだよ。あんなロクでなしのことは」

「遼だって、ロクでなしでしょうが」

「親父をいなかったことにするのは冗談だけど」

 でも、これだけは言えた。

 

 2人を見送る未来に比べれば遥かにマシだと。


「わけわからん」

 5時間目。英語だけは補修を免除されている事をいいことに、大学の図書館に来て医学書をひも解いてみたが無駄だった。遼の目からすれば先祖が残した仙薬のレシピよりもチンプンカンプンだった。

 あっさりと理解しようとする努力を放棄して、遼は机に突っ伏した。医学を理解するよりも殴り合いで勝つことのほうが遥かに簡単である。

 だからこそ、戦ってみる価値はあるのかもしれない。

 世界最強の米軍全てを相手にしても、負ける気がしないだけに。

 父親は逝った。遼が殺したわけだが今にして思えば、あまり語ってくれなかった。ノートに書かれた意味不明な文字の出所や中津川一族限定のはずの秘薬が、真衣に使えたわけを

 少しだけ、思い出した。


「いいか、遼。あの子は天使だ」

 真衣と出会って、使い物にならなくなった右目の摘出手術を受けた後、2人きりになった時に父親が言った。

「てんし?」

「母さんと同じ天使だ。だから、あの子も母さんのように死ぬ」

 その言葉を聞いた瞬間に殺意が沸いたのを、遼は今でも思い出す。誰に対してかは分からないが。

「なんでそんなこというんだよ!!」

「あの子は母さんと同じだから、母さんと同じようにしか生きられないんだ」

「そんな嘘だろ」

 その瞬間、右目を無くしたばかりだというに殴られた、いや父親からデコピンを食らった意味が蘇る。手加減こそあったが間違いなく殺意がこもっていた。

 何も言わないが、その父親の身体から立ち上る膨大な殺意の量に幼かった遼は圧倒される。この理不尽な現実に何よりも激怒しているのが父親だった。

 父親の言葉は真実なのだと。

「それでいいのかよ、おやじ」

 納得がいかない。

 真衣が死ぬ。その現実をただ受け入れることなんか絶対にできない。

 殺意をこめて、父親は言った。

「いいわけないだろ」

「……おやじ?」

「今回は負けた。でも、次は勝つ。あの子は俺が生かしてしてみせる。そのためには遼の協力が必要だ」

「おれの協力が? 真衣は生きられるのか?」

 運命に勝てる。

「遼の力が無ければ間違いなく、あの子は母さんのように死ぬ」

 歯車が回りだす。

「わかった。どんなことをすればいい?」

「遼。地獄を見てもらうぞ」


 実際に比喩でもなんでもなく地獄を見た。


 色々と失ったものがあったような気がするが、その代わり、真衣は生きている。

 あのクソ野郎はわかっていたんだ。

 真衣の葬式を上げる羽目にならなくて済んだとはいえ、予言の通りに、遼の母親のように真衣は倒れた。父親には真衣の辿る道が見えていたのだろう。

 父親は言っていた。

 真衣は母親の同類だと。

 だから、真衣が死地に至っても対処することができた。遼が地獄をみたことで克服することができた。

 母親はいったい何者だったのか。

 2000年以上の太古より生まれて、人の道を踏み外して化け物の領域に片足踏み込んだ神煬に追随できた母親とは何者なのか。

 父親は知っていた。

 情報を聞き出してから殺すべきだと思ったが、情報を聞き出せるほどの余裕がなかった。あの時は目の前に現れた中津川隆盛という脅威を前にして生き残るのが全てで、余計なことを考える余地がなかった。あればその段階で死んでいた。

 今となっては、死者に対して何も言っても無駄。

 神煬の薬で真衣は回復したとはいえ、再発するとも限らない。薬はこれからも服用しつ続けなければならないのか、終わりなのかは分からない。この辺りは手探りでやっていくしかない。

 もう一つ思ったのは、いくら最強な神煬とはいえ寿命には勝てないということ。

 父親が遼と戦ったのはALSと診断されたからである。それでも重篤な結果にならないのは、神煬流の宗家は死病にかかったと判断したら後継者との死闘に挑むからである。それが継承の儀であり、神煬にとっての一番の好敵は後継者だからだ。宗家とその後継で殺し合いをすることで歴史を紡いでいた。

 誰にでも勝てるけれど寿命には勝てなかった、というのは空しい。

 だから、遼は思うのだ。

 寿命にも勝ってやる。

 気が狂っているが、神煬とは2000年の昔から誰にでも勝つことを目指して人体改造でもなんでもやってきた狂気の一族。運命とは従うためではなく破壊するためにあるのだ。本気で不老不死を目指してもいいかもしれない。

 問題は将来設計をやり直さなければならない事。

 不老不死を目指すには医系、理系として大学に進学しなければならない。柔道整復とは違って方向性が違い、神煬流の知識も生かせないので勉強をやり直さなければならない。翔陽大ならエスカレーターで入れるかも知れないが、基礎から学び直すと猛烈な勉強が必要になる。修行している間もない。

 加えて大学進学になれば費用もかかる。父親がいないのに真衣も養っていかなくてはいけないのだから遊べる余裕も何もない。

 昔までの遼なら考えるまでもなく突っ込むところがあるのであるが、家計を1人で支えていかないとなると躊躇わざるおえない。

 真衣なら、どんな選択でも受け入れてくれるだけに絶対に幸せにしてやりたい。

 まだ、遼には真衣がいる。

 ……顔がにやけてきた。


 冬至は過ぎ、後は日が長くなるだけとはいえ1月はまたまだ暗く、5時過ぎには日が暮れていた。

 冷たい風が吹き、吐く息が白くなっては空に消えていく。

 遼が中学の昇降口前で待っていると、目的の人物が現れた。

「遼、待っててくれたんだ!!」

「おつかれ。迷惑だったか?」

「そんなことない。遼こそボクを待たなくてもよかったのに」

「バカか」

「バカっていうな」

 そんな事を言いながら2人は一緒に帰り始めた。

「5、6時間目はどうだった?」

「……疲れたよ~」

 聞くまでもなく、真衣は深く疲労していた。

「追いつくの大変だよー」

「ガンバレとしか言えないな」

 遼も英語以外は教師になれる学識はないので、応援すること以外のことはできない。

「遼はどうなの?」

「楽ではないけれど、真衣に比べれば全然楽」

「先生たちを脅すというのは無しだよ」

「読むなよ」

「バレバレだって」

 その気になれば、卒業資格を得るのは簡単。

 遼の肉体言語を駆使すれば、人間相手ならどんな要求も通れるような気がするが、それは禁じ手である。遼は外道だと自認しているが敵ならまだしも恩を仇で返すほど腐ってはいない。

「考えてる?」

「帰ったら真衣とどんな感じでエッチしようかと考えて……」

 遼は、最後まで言い終えることができずに真衣に殴られる。

「遼のスケベ!!」

「相変わらず容赦ねえなあ」

「遼はこの世界を支配することもできる楚王さまなんだから、これぐらいしないと図に乗って、地球が滅亡しちゃうでしょうが」

「地球がウチらに喧嘩を売ってきたら、滅ぼすだけだ」

「地球が喧嘩を売ってくるってどういうシチュエーションなのよ」

 遼は考える。

 数秒間ほど沈黙が流れた末に、遼は結論を言った。

「地震が来たら抑えてやるし、津波が来たら粉砕する。星が落ちても同じ、太陽が落ちてきても勝つ」

「この戦闘バカが」

 地震が起きたら飲み込まれるし、津波が来ても押しつぶされる。隕石が落ちても下敷きになる。人間というのはちっぽけな物でしかないのに、勝つとナチュラルに思えてしまうところで、頭のネジがダース単位で外れている。中津川とはこういう一族なのだ。

「最近の遼はおかしい」

「今の台詞を聞いて、俺がまともだと思ったのか?」

 常識から外れているという自覚はあるらしい。

「最近の遼、生き急いでいるような気がする」

 真衣が思い切ったように言った。

「そうか?」

 自覚の無さに真衣は呆れる。

「痛み我慢してまで鍛錬する意味あるの?」

「ある日突然、ゴジラが襲ってくるかもしれないだろ」

「ないわ!!」

 沈黙が流れ、冷たい夜風も流れる。

 言われてみれば、遼は焦っているのかも知れない。

 遼の身体の骨は折れていて本来なら入院するべきであり、鍛錬を休んでいても文句はいわれない。先のことを考えれば休んで体力回復に務めるべきだ。焦ったところで結果はでない。それなのに、無痛化処理までして鍛錬を続けている。意識が醒めれば木刀持って大木に突っ込んでいる。

 加速がとまらない。

 どこまで走ればいい?

「言われてみれば……そうだな。鍛錬を休むべきなんだろうな」

「まい、たびにいきたい~♪」

「急にブリっこぶっても似合わない」

「そうだよね。女の子の制服を着た野郎だから似合わないよね」

「頼むから、夢を壊さないでくれ」

 真衣がお約束とばかりに坊主な頭をさらすのだから、遼は半ば本気で慌てる。

「入院してた時、美味しいものを食べるのが夢だったんだ」

「今から食べに行くか」

「ちょっと時間が遅いかも。明日行こ」

「何が食べたい?」

「ミシュ……はいいや。まずはマックに行こうよ」

 下手に高級料理店の名を出せば遼は本気で行こうとするのだから、冗談もいえない。

「おっしゃ。明日はマック祭りだ」

「やった。ゴチになります」

「自腹な」

「なんでそんなヒドいこというかなー」

 遼にはマックの味など分からなくなっているとはいえ、真衣の笑顔を見ると心の底から幸せになれた。この元気で幸福な顔を見るために遼は生きてきた。地獄を幾度となく潜り抜けてきたが報われた。我が生涯に悔いなしと言いたいところであるが、遼にはやりたいことがいくらでもある。

「旅に行きたいな」

「たび、行きたい行きたい!! どこに行く!!」

「真衣の行きたい場所なら、どこでもいい」

「ボクに投げる!? 色々と行きたいところがありすぎてまとめられない」

「片っ端から上げてみろ。行きたいところ全てに行ってやる」

「いいの? 豪勢だね」

「俺は外道だけど、真衣の願いを叶えなかったことなんてなかった」

「大きくでるね」

「出たつもりはないんだけど」

「わかっている」

 真衣と二人で旅に出る。

 行先は海? それとも山?

 真衣と二人ならどこでも行ける。なんだってやれる。

「アンドロメダ銀河の向こう側に行くか」

「また遼ってば、ロクでもないことを考えてる」

 ふとしたはずみで制覇欲が湧き上がる。神煬たる者、何者にも負けてはならないのだ。銀河系の向こう側に行けないのなら行くべきなのだ。

「まずは地球から制覇しようよ」

 この地球でも行っていない場所はいくらでもある。地球の外に出る前に地球を周り尽くすべきだ。

「やっぱり、かっこいい車に乗りたいよな。ランボかフェラーリとか」

「フィエロでもいいんじゃない」

「夢がないようなこと言うなよ」

 車はどうあれ、明日にでも旅には行ける。

 でも、目先の幸せを追っていては本当の夢からは遠ざかる。

 "寿命に勝つ"という、あまりにも馬鹿げた夢。

 今からでも間に合わないのに、遊んでばかりでは絶対に無理。

「どうしたの? 遼」

「いや、真衣はかーいーなあ、って」

「ボクは女の子の服を着るのが大好きなオトコノコ、だよ」

「だから、いちいちズラを脱ぐな。悲しくなる」

 最強になるという夢を追いかけるのと同じように、真衣が幸せそうに笑っているこの時間が好きなのだ。

 いつまでも、この時間が続けばいいのにと思う。

 でも、悪夢も楽しい時間もいつかは終わりは訪れる。

 実際、真衣の日々がつい先週までで終わりかけていた。


 言葉が脳裏に蘇る。


 遼が神煬流の宗家「楚王」となるべく行われた継承の儀。

 先の楚王である中津川隆盛の激闘も佳境を迎えていた。

 真夜中、厳寒の大雪山。

 凍ったバナナで釘が打てる氷点下以下の気温で、粉雪が台風のように荒れ狂っているはずなのに二人の空間は火山の直下にいるかのような熱く、雪も二人から溢れでいる殺意の前に瞬時に蒸発していく。

 タワーマンションほどの質量を持った疲労感が、遼の身体に伸し掛かる。気が少しでも緩んだら死にそうになるが、そんなことには絶対にならない。その刹那、もう一つの殺意に飲み込まれる。

 遼がクールタイムを迎えている時に、相手が行動に出たら勝敗の天秤は遼の敗北に傾くことになるが、相手も休養時間が必要らしく、呼吸音だけが定期的に響く。

 肺が空気を求め、横隔膜が揺れる。

 リズムの揺らぎを待ちながら、遼はダメージを確認する。

 左腕は折れている。

 肋骨のいくつかが折れている。

 膝や足首も、靭帯が断裂しているというわけではないが、いつ切れてもおかしくない。

 額が切れていて、右目が血に流れているが元々見えていないのでそれは関係ない。

 恐らく、相手も遼と似たり寄ったりの被害状況なのだろう。

「優しいな。遼」

 この場合の優しいは甘いと呼び変えるべきである。

 甘くしているつもりなんてなかった。

 敵として戦うのだから殺す気でやっている。一切、手を抜いていない。誰であっても。父親であっても。

「ボケたか、親父。手なんて全然抜いてない」

「手を抜いたつもりではないだろうな。だが、思ったよりも遼の打撃が軽い」

 遼としては殺す気で打っているのに、それでも父親は軽いと言い放つ。

 ダメージが遼と父親と同じということであれば遼の攻撃は軽いといえるのかも知れない。基礎的な体力では若い遼が圧倒しているのだから。

 重く打っているつもりで本当は軽いのか。

 それとも本気を出しているつもりで、実は殺す気になりきれていなていないのか。

「よし。ここは一つ試してみよう。この戦い、遼を倒して俺が勝ったら真衣を殺す」

 刹那、原子爆弾が炸裂したような轟音が轟いた。

 ノールックで打つ長谷部。

 思った以上の破壊力があったが、遼に実感などない。今までの一番ともいえる火力で発揮したというのに目の前にいる男は生きている。

「思った通りだ」

 遼にとってはそれで充分だった。

「かかってこい」

「貴様は黙って死ね。今すぐ死ぬ」


 この時、中津川隆盛という男が父親から排除すべき対象に変わった。


「遼、どうしたのどうしたの!?」

 気がつくと真衣が泣きそうな顔で遼の身体を激しく揺さぶっていた。

「悪い。ごめん。すまん」

 泣きじゃくる一歩手前な真衣に、さしもの遼も謝罪することができない。

「遼は悪くない」

 真衣に力強く抱きしめられる。

「…激しかったんだね。お父さんとの戦い」

 あの時の想いや感情が身体に出ていたのだろう。

「激しいというものではない」

 あの戦いを一言で要約したが、遼の語彙力ではまとめ切れるものではなかった。色々と上げるとしたら遼の生涯の中であれほど激しい戦いはなかった。一人で第二次世界を戦えといわれても、父親との戦いに比べれば遥かに楽だと断言できる。それ以上に色々な想いがぶつかりしすぎて思い出そうとすれば、様々なものが吐くほどに零れてくる。

 あの戦いを強いて表現するとならば、

「悪り、真衣」

「なんで謝るの。遼はぜんぜん悪くない」

「やっぱり、生き急ぐことになりそうだ」

 遼以上に泣きそうになる真衣に、こみあげてくるものがある。

 この子の泣き顔はさせたくない。

 でも、これから先も、遼は真衣を泣かせ続けるのだろう。

「コジラはいるよ」

 父親が「真衣を殺す」と言った時、殺意が芽生えた。血縁関係なく、殺すべき存在になり下がった。生かしていれば真衣を殺すから。真衣を滅ぼす者は手をかける前に遼が滅ぼすべきなのだ。あの雪の日に、遼は真衣のために生きると決めたのだから。

 そして、父親以上の敵が襲いかかると想定してしまえば遼は走らざる終えない。出口が見えなくても、ずっと闇夜で光がなくても遼は歩みを止めてはいけない。強くならなくてはいけないのだ。弱ければ、真衣を守れなくなる。真衣に仇成すもの全てを殲滅するためには、全力疾走で突っ走るしかなかった。

 

 そんな兄を見て、真衣は悲しそうな顔をする。

 泣きそうになる。

「強くなりたいのはわかった」

 しかし、次の瞬間には兄をしかりつける。

「でも、今の遼は中業が使えないんだから身体を治す方が先」

 正論だった。

 いくら強くても、実力が30%も出せなければ軍隊にも劣る。全力を出せなければ無意味なのだ。

「わかった。善処する」

「善処じゃなくて、必ず実行。いい?」

「……了解」




 



  

 


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片翼だけの天使たち @ex_himuro

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