片翼だけの天使たち

@ex_himuro

プロローグ:Peace

 朝から降り始めた雪は、昼を過ぎて夜になっても止むどころか勢いを増し、日が落ちて夜中になった時には既に吹雪になった。

 星のない夜空を切り裂いて荒れ狂う、白いサイクロンの中をもろともせず、中津川遼は硬く凍った雪に足跡を刻みながら一歩、一歩着実に前進していた。

 防寒は羽織った横浜FCのジャケットだけ。

 背中に背負った軍用のリュックサックだけという軽装は冬山、旭岳に登りに行くには余りにも軽すぎた。冬山というものを舐めてかかっていると思ってもいい。普通なら豪雨のように降り注ぐ雪に負けて、あっという間に凍死する。

 しかし、雪は遼の着衣に接するよりも早く、蒸気となって蒸発する。

 硬いとはいえ雪、踏み込めば膝まで沈むはずなのに、遼は軽やかにすら見えるステップで新雪に浅いステップを残すのみ。

 遼としては普通に街中を歩いているようなものだった。

 吹雪の旭岳登頂はどう考えても無謀であり、遼も決して楽だというつもりはないが、最大の問題は旭岳登山がゴールではなく、単に目的への道のりでしかないということだった。

 これはいわば黄泉比良坂を下っているようなもの。

 本当の地獄は山頂を越えた先に待っている。

 暴風と雪を貫いて、かすかな殺気が嗅覚を捕える。

 だから、遼は迷わない。

 元から視覚に頼らないように修練を積んでいる遼ではあるが、そうでなくても間違い無く時間を掛ければたどり着ける。

 ほんのちょっとの殺気がだんだんと大きくなった先に、目指す戦いがある。

「……なにやってんだろうな」


 こんな雪の日に思い出す。

 それは遠い昔の記憶


 昼過ぎから振り始めた雨は、陽が暮れるころには雪へと代わって、今では本格的な降りになっていた。細かい雪の粒が高速で地表に降り積もる。


 気がついたら、ここにいた。


 雪の薄い膜で覆われ始めた土手のサンクリング道路にスニーカーの跡を刻みながら一人の少年が歩いていた。年齢は10歳ぐらいでよっぽどの暴れん坊なのか、全身の至るところに出来たばかりの傷跡がある。この年頃の少年にしては鍛え上げられた身体をしているが、顔を上げようとはしない。

 ただ、少年は雪の舞い散る道を歩いている。

 どこに行こうという宛てもなく、ただ一人きりで。


 雪が降り落ちている。


 やがて、少年は転がるようにして土手を降り、河原まで落ちるとそれっきり動こうとはしなかった。

 疲れている。歩くのも走るも指を1mm動かすことさえにも疲れている。

 涙を流すことさえも


 雪はあいもかわらず降り積もっている。全てを覆い隠すように降り積もっている。夜の闇でさえも塗りつぶす勢いで降っている白い粒。少年もまた、そのまま白い風景の一つとなって埋もれていくのだろう。朝になればどんな姿で見つかるのだろう。そんなことはどうでもよいことだった。

 少年の目は降り落ちる雪を見つめている。

 寒い。身も凍るぐらいに寒いけれど、そんなのさえ、どうだってという気がしてくる。


 おれ……

 つぶやきが雪に隠れて消えた。

 おれ……かあさんのもとにいけるのかな………


 傷つき、体力もなくし、寒さを感じる感覚をさえなくした少年に残されたのは母親への想い。

 優しかった母親はつい先日、妹として生まれるはずだった赤子と一緒に逝った。

 気がついたら、家を出てこんなところを歩いていた。

 かあさん……

 涙なんてとうに枯れ果てていたはずなのに母親のことを思うと涙が出る。辛い稽古、毎日、大木に千発、二千発、三千発も木刀を叩きつけ、幼いのに容赦なく父親に打ちつけられ痣が耐えない日々、そんな少年を庇い、優しくいたわってくれたのが母親だった。打たれた跡に湿布をし、寝付くまで側にいてくれた母親。

 今はもういない。

 雪は降り積もる。


 かあさんは死んだ。


 精も根も尽き果てているのにそれでも立ちあがることを要求する父親から、守ってくれた母親はいない。

 かあさんが死んで、どうなるんだろう。

 その先のことは想像もできない。

 そんなこともどうでもいい。


 雪が降り落ちる。


 かあさ…ん……


 雪が降り落ちる。

 雪が降り落ちて雪が降り止んだ時、少年は母親の元にいっているはずだった。


 ………!!

 不意に少年の五感が鋭くなった。

 なにがくる…

 かあさんの元に行きたい、とは思っても感覚のレーダーの中に何が迫ってくるのを感じ取ると全身に力がみなぎり、いつでも即応できる態勢を整った。

 臨戦態勢。

 嫌であろうが、脅威が迫るとこの世に生れ落ちてすぐに、無意識のうちに迎撃が出来るよう少年は育てられていた。

 上半身が起き上がり、座っている、どの方向から襲いかかられても反撃できる態勢になっていた。視線が獲物を探す狼のように動き出す。

 土手からは誰も降りてこない。前にも後ろにもこない。河からはこない……か。

 ふと少年は父親のことを思った。

 少年の父親ならば気配を消して接近することができる。しかし、父親はこないだろう。そういう奴だ。もしやってきたら、どんな顔をする?

 強烈な感覚が後ろからした。

 落ちた!?

 そう思った瞬間、少年は駆け出していた。

 ほんの少し走っただけで、それはすぐに見えた。


 動きが止まった。


 降り積もる雪の中に女の子がひとりいる。雪の上に倒れ込み、身体の下で下敷きになった身長の倍はある黒髪が乱れていた。五歳ぐらいだろうか。手のひらに包み込めそうなほどに小さく、その肌は雪よりも白く、その全身を惜しげもなくさらしている。そして、背中に生えた大きな翼。


 てんし?


 その少女を見た瞬間、何もかも忘れた。


 その少女は人のものとは思えないほどに美しかった。しかも、鳥のように大きくて白い翼が生えているのだから尚更だった。地上に舞い降りた天使、天使ってこのようなものだったかと少年は思った。

 最初、少女を見た時、心臓が一回、とくんと高鳴った。

 そして、赤錆の浮いた刀を心臓に突き立てられたような気がした。

 身体が凍り付く

 それは雪のせいではない。少女の身体から放たれたものが少年の動きを封じた。

 泣いている?

 少女は泣いているように見えた。目を泣き腫らし、大きく見開かせたまま凍りついていた。

 どうして、そんなに悲しい顔をする。

 今の少女を見るとせつない。

 赤錆の浮いた刀で全身を切り刻まれるように苦しい。

 でも、苦しさを味わうたびに胸が熱くなる。

 どくん、どくん、どくんと心臓が激しく鼓動し、顔が赤くなる。

 どうしてなんだろう?

 少年の視線は少女を見たまま、ずっと外さない。


 がさっ


 緊張に耐えきれなくなったように足が雑草をこすった。

「だれっ!!」

 それに反応して少女が少年を見た。その表情には怒りがこもっている。吠え立てる飼い犬のような敵意と殺気があった。

 少年は怖くはなかった。ただ、戸惑いはする。

「あの、ちょっと、いや、通りかかっただけで……」

「きえて!!」

 少女は叫んだ。

「今すぐ、ここからきえて!!」

 あくまでも少女は少年がいることを拒絶する。

 けれど、少年は引こうとはしなかった。

 ここで去ってしまったら二度と少女と会うことはないだろう。

 見過ごすことはできなかった。あの、悲しい表情を見てしまったからには


「きえて!!」


 少年は無視するかのように少女に向かって歩み寄る。


「きえて!! きえて!!」


 少女はしきりに叫ぶが、それには脅えが混じっていた。

 少年は一歩前に出た。

「だいじょうぶだよ」

 今はよくは分からないけれど、自分にできることなら、少女の悲しみを癒してあげたかった。

「俺が……」


 手が伸びれば届きそうな位置まできて、少年は手を差し伸べようとが、それより先に少女が飛びかかった。

 怒りのままに、少女の手が少年の顔面めがけて伸びる。

 怒りが篭っている分、伸びがあって威力が高そうだった。けれど、かわせないこともない。

 いや、実際に躱せるもするし、身体が無意識にうちに避けつつ、カウンターを入れるように動く。少年の実力なら、いとも簡単に強烈な一撃を与えることができただろう。

 

 でも、少年は無意識の動きを鎖で縛るように押さえつけた。

 

 視界が一気に半分になった。

 体験したこともない痛みが少年を襲った。

 爆弾が身体の中で爆発するのは、こういう感じなのだろうかと思った。

「………おまえ………いがいとえぐいことするな………」

 少女の指が少年の右目に打ちこまれていた。

 打ち込んだまま動作が止まった少女を少年は引き剥がす。指が抜ける。その指先は血で染まり、少年の閉じた瞼から血が溢れ出す。それは涙を流しているように見えた。

 少女は呆然とし、次に恐怖した。

 少女がしたこと。

 いきなり視界が半分になり、たとえようもない痛みが駆け巡っている。何もすることもできない。立つこともできずに痛みが去るまでもがき苦しんでいるだろう。しかし、それを少年は歯を食いしばって耐えていた。そのことが更に痛みを倍増させる。それでも少年は耐えた。倒れるわけにはいかなかった。

 ここで倒れたら、親父に笑われる。

 少年は少女を残った左目で見た。

 見られた少女は後ずさりをしようとしたが力が抜けて雪の上にへたりこんだ。

 凄い顔になっているんだろうな・・・・・

 そんな少女を見て少年は苦笑する。痛みをこらえるために歯を食いしばり顔が強張っているのを自覚していた。

 少年は手を伸ばした。

 少女は逃げようとしたが腰が抜けて逃げられない。できることは目を閉じるだけだった。

 でも、痛みはなかった。

「わるいな……おびえさせちまって」

 少女は目を大きく見開かせた。


 傷つけようなんて、これっぽっちも思ってはいなかった。

 ただ、少女が悲しいようだから、それを慰めてあげたかった。

 それだけだった。


 少女の頭に少年の手が当てられている。

 それはとても、暖かい。


「ひていしないの?」

 震えた声。

 答えはあたたかった。

 少年はしゃがみ、少女を抱きしめた。その際に背中に生えていた白い翼が砂糖菓子のように崩れ去ったが気づきはしなかった。少女を暖めたい、その気持ちだけでいっぱいだった。

 あったかさが少女を包み込む。

 涙がとまった。

 雪が溶けるように、少女の顔がほころんでいく。

 安堵感が全身に満ちていく。


 少女の顔が不意に曇った。

 

 少女は少年を見る。

 閉じた右目からは血が泪のように流れていた。

 おそらく、もう使い物にならないだろう。


「ごめんなさい……」

 少女の瞳からじわっと涙が溢れ出した。

 「お、おい……」

「ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいっ!!!!」

 少女は泣きじゃくった。自分のやったことに対する取り返しのつかないことにきづいたらしい。

「だいじょうぶ、だいじょうぶだから」

 少年は声をかけようとしたが、ただ少女はひたすらに泣くだけだった。声をかけることもできずに少年は苦笑いをした。そして、笑える自分を不思議に思った。

 雪が降っている。

 少女は少年の腕の中で泣き続けている。声をかけようと思ったけれど、やめて空を見上げた。

 雪が降っている。

 少年は空を見上げた。雪は降り積もっている。それ以外のものは見えなかった。周りは寒く、全身がまるで一本の棒になったようだ。指先がかじかんでてうまく動かない。右目がひたすらにいたい。煌煌と燃えているたいまつを突っ込まれたような熱さが右目、いや右の眼窩から浸透している。物凄く痛い。痛くて、動きたくない。

 なんか、おっかしいな。

 動かなければ死ぬだろう。少年も少女も。

 そのことを期待していたはずなのに。

 しかし、少年は少女の身体をかつあげる。みかけの割にしても少女の身体は軽い。かつぎあげると少年は歩き始めた。生きるために、人の世界へ帰るためにその一歩を踏み出した。


 少年はこの時に悟った。

 少年がこの世界にいる意味を。

 存在する理由を。


 中津川遼は、この子を守るために生まれてきたのだと。

 違う。

 運命なのではない。

 自らの意志で、この子のために生きると決めたのだ。


 吹雪の冬山登山という酔狂な真似をしたくやっているわけではない。

 本音を言えば、今すぐにでも回れを右をして家に帰りたい。妹である女の子に会いたい。女の子の置かれている状況を思い浮かべると心臓と右目があった場所が、それこそ刺されたように痛くなる。

 しかし、世の中というのは自身の思惑と他人の思惑がぶつかりあいながら流れているものなので、時として意に沿わぬことを強要させられる。遼にしては、ある意味、避けられない罰ゲームのようなものだった。

 けじめ、というべきなのだろう。

「…あのクソ親父が」

 遼の父親は、息子から見て、あまりいい父親であったとはいえない。

 神煬流という数千年の歴史を持つ武術の宗家であるが故、生まれながらにして父と子であると同時に師匠と弟子であった。そのため、物心つかない頃から修練を受けさせられていた。

 修練というより、虐待との区別が付かない代物で、三途の川を渡りかけたのも2度3度ではない。その度に遼は昨日よりも強くなって帰ってきた。だから、今の中津川遼がある。

 ましてや聖人からはほど遠い。

 毎年、コミケ通いをしてエロゲーを名作からクソゲーまでやり込む趣味人ではあるが、問題なのはその身体から血の臭いが漂っていた。

 おおざっぱであるが、遼の見立てでは間違いなく数万規模の人間を殺している。

 そして、遼もこの場から生きて帰るためには最低1人は殺さなくてはならない。

 唐突に気配が消えて遼は立ち止まる。

 目指すべき目標を失って途方に暮れたのはあるが、それも恐怖が上書きしていく。

 かすかに感じられた気配が急に途絶えた原因。

 斬りつけるような寒さと荒れ狂う風に身体が負けたという可能性もなくはないが、いくら末期の癌だとはいえ、この程度の吹雪に負けるようであれば、わざわざ冬の旭岳に来ることはない。

 首筋から急速に冷凍されていく。

 気配が消えたのは死んだのではない。

 むしろ、その逆。

 遼は感覚を全力で研ぎ澄まして、死神の魔の手の存在を探りだそうとする。視界がほとんどない状況ではあったが、ここで感じ取れなければ遼は間違いなく死ぬ。

 気配が消えた時と同じような唐突さで、強烈な殺意が遼を刺し貫いた。

 背後から。

「ちぇぇぇぇぇぇーーーぃぃぃぃっっっ」

 受け止めるとか、避けるとか判断するよりも身体が動く。首を刎ね飛ばさんと空を切り裂き、轟音を響かせて飛んで来る一撃に向かって、遼は回転しながら、その勢いを利用して後背めがけて蹴りを繰り出した。

 間一髪のところで交差する拳と蹴り。

 間違って電信柱に全力で蹴りを入れたような違和感。接触した瞬間に、右足全体に折れそうなほどの衝撃が走る。

 それでも、コンクリートの津波のような圧力に負けず、逆に破壊せんと力を入れた。

 その矢先、急に脚全体にかかっていた圧力が一瞬で消えた。

 殺した?

 いや、それは違う。

 殺したという感覚が全くない。

 飛ばしたのではない。飛んだ。

 思考は高速で状況を分析し、身体は激変する状況に素早く対応している。

 蹴りを入れた時、強く地面を踏みしめたので当然のことながら身体は雪の下へと深く沈み込む。しかも、場所は平坦ではないので常人ならバランスを崩して、麓へと転がり落ちるが、遼は逆に足を雪の下の地面に深く食い込ませ、全身に力を入れると雄叫びを上げた。

 ミサイルが着弾して爆発したような叫びと共に周囲の空気が上昇、遼を中心とした範囲の雪が蒸発する。

 白く視界がぼやける中、高速で遼めがけて接近する5つの影。

 でも、さっきとは違って不意ではない。

 遼の口元が肉食獣のように歪んだ。

「冷艶鋸」

 遼が手刀で高速で横になぎ払うと、衝撃波が風や雪、空間そのものさえ切り裂いて一直線に5つの影へと向かう。

 衝撃波が当たろうとした刹那、影は闇の中に消える。

 しかし、遼は苦々しい表情で振り向きもせずに右腕を突き上げた。

 コンマ数秒で、背後からの一撃が二の腕に入る。電柱でフルスイングされたような激痛が腕に走るが、遼は飛び退いて距離を取った。

 間髪入れずに攻撃しても構わないが、会話が必要だった。お互いに。

「随分と遅いではないか。待ちくたびれたぞ」

 相手は遼の父親、中津川隆盛。

 遼は背中に細長いものを差していることが気になった。

「せっかちなジジイだ。そんなに慌てて地獄に行くこともないだろうに」

 遼が冬の旭岳にいるのは、この男と戦うため。

「俺を地獄に送る? 若いくせに俺よりも鈍らな身体で地獄に送るとは寝ぼけているのか?」

 隆盛に指摘されるよりも自覚している。

 数か月ぶりの実戦。

 思考に対して、反射速度が思ったよりも落ちている。動きが想定よりもワンテンポもツーテンポも遅れている。コンマのズレでも死ぬのが戦場。そして、目の前にいる男は老人とは思えない、遼の想像を越えた速さで動いてる。

 それでも遼が生きているのは目の前にいる男が本気を出していないだけで、全力を出す前に現実がイメージに追いつかないと間違いなく死ぬ。

 修練不足。

 ルーチンワークの大切さを実感する。

 言いたいことは山ほどあるのだが、遼にはいうつもりはない。

「一応、念のために言うがこのまま帰る気はないか。真衣が待っている」

 答えは決まっていた。

「俺は決めたのだ。この世の幼女愛を禁止しようとする罪深い輩を一匹残らず粛清するのだと。遼、貴様には今の俺の実力を計る礎になってもらう」

 病室、もしくは自宅で大人しく死を待つのであれば、わざわざこんなところまで散歩に出たりはしない。

 もちろん、そのセリフの90%は嘘。

「真衣はどうしている」

 この時は、義理とはいえ娘に対する心情が溢れていた。

「わからない」

 遼は正直に答えた。

「親父の薬が効けばいいんだけど、最後に会った時、あいつは眠っていた」

 機械の作動音が静かに響くだけの病室。

 少女はありとあらゆるケーブルに繋がれて、目を覚まさない。

 呼吸音さえも呼吸器に接続されているので聞こえず、生存を確認できるのは脳波計の僅かなブレだけ。

「親父。もう一回だけ言う」

 体温が一気に上昇する。

 両拳に力がみなぎる。

「帰る気はないか?」

「ワガママだというのは承知している。可愛い娘が生きるか死ぬかの瀬戸際にいるというのに、こんなところで遊んでいるのだから、いい父親ではないが、遼は俺のことをいつから仏のような善人だと勘違いするようになったんだ」

 隆盛は背中にある細長い物を引き抜いた。

「……まったくだ」

 裏切られたとは思っていていない。

 中津川の一族は人というカテゴリーから外れた、あるいはぶっ壊れた忌むべき一族だからだ。目の前にいるだけではない。遼も同様に壊れている。

 数千年前から、ありとあらゆる事象に打ち勝つという目的のために、ありとあらゆる修練と実戦を積み重ねてきた一族。

 それが中津川。

 隆盛は背中から抜いたもの、日本刀を両手にもっておもむろに鞘から抜くと、けだるげに構えた。

「俺も年だ。真衣も余命幾ばくないように、俺も余命幾ばくもない。だからこそ神煬流宗家としてのしての最後の仕事を果たさなければならない。俺の代で神煬流を終わらせてもいいが、遼はどうなんだ?」

 遼に向けられた日本刀の切っ先。

 神煬流は一般には徒手格闘術と見られているがそれは大きな誤りである。神煬流には「武器を抜いたら、相手を確実に殺さなくてはならない」という掟があり、武器を抜かせて生き延びられた敵はいないというだけの話なのである。

 父親の行動は、まさに戦線布告。

 遼は幼い頃から死神と友達だった。

 日々の激しい修練で死にかけるたびに、死神の吐息を浴び、その都度、生と死の狭間から生へと這い上がっていた。だから、死の恐怖には慣れっこになっていた。慣れていたはずだった。

 …さっきの、隆盛の気配が消えて、後ろに迫られた時の感覚はいったいなんなんだったのだろうか。

 震えが止まらない。

 首筋が寒くなるのは、雪山にいるからではない。

 2人が放つ熱気で吹雪の雪山が、噴火している火山のように熱せられて雪が溶けてきていするにも関わらず、首筋が氷のように冷たい。

 いや、正確には日本刀の刃が首筋に当てられているよう。

 あの時、感じたのは体験した事もない恐怖。

 胸をえぐられて、心臓を万力のような力で他人の掌に握られているような気持ち悪さ。

 それは今までの死の感覚を超えていた。それこそ、日々の修練で味わってきた恐怖が冗談のようにしか思えなかった。

「バカだな。日々の修練で俺が遼を殺すわけないだろう。修練の内容に遼がついていけなかっただけだ。これでも死の恐怖というにはまだ遠い。俺は本気でお前を殺す。真衣に会いたかったから、お前は俺を殺すしかないんだ」

「……わかった」

 遼の口元が獲物を狙う肉食獣のように歪む。

 次の瞬間、などという言葉よりも短い刹那、衝撃波が爆風と共に吹雪の夜空を切り裂いた。

 夜間などではっきりとは分からないが、山体が大規模に崩落しているのを、遼は確信している。

 一秒にも満たない間に、遼は打ち込んだ。

 戦艦の、大和の46cmの一斉射を越える一発を。

 愉悦が止まらない。

 あの男、目の前に立つ、死神と武神を足して2で割らないような、災厄というものを具現化したような男が、コンマ数秒だけ、魂でも抜けたかのような呆けたような顔をしたのを、遼は見逃さなかった。

 この男は、さきほどの遼の攻撃に反応することができなかった。

 遼が味わった思いも、この男も体感している。

 肌から僅か数ミリ離れた地点を、戦闘機が音速で通過したようなものだから、恐怖しない人間なんていない。

 余命幾ばくもないとはいえ、それでも生を掴もうともがくのが獣としての本能だからだ。

「まったくもって愚かしい。仕留める機会があれば、必ず仕留めろと教えたはずだが」

 そして、遼がわざと外したということも。

 父親の言うことはまったくもって正しい。

 初見では対応できなくても、次からは必ず対応する。さっきの攻撃がこの男に勝てる最後の機会であったのかも知れないのに、遼はわざと捨てた。その事を悔いる瞬間が来るのかもしれない。

「勘違いするなよ、人間。オレは殺ろうと思えば……」

 言っている傍から、衝撃波が遼の頬から数mmの地点を駆け抜けた。

 数秒後に轟音が吹雪駆け抜ける大雪山に響き渡る。音の大きさから見て、峰の一つは吹き飛んでいる。

「殺ろうと思えば……なんだ、小僧」

 苦笑いの部分もあるがそれ以上に震えが止まらない。

「今ので底を見たと思われたら、腹立たしいほどに心外だ」

 見えなかった。

 さっきの遼の攻撃が父親には見えなかったように、今の父親の攻撃も遼にも見えなかった。真正面から見ていたにも関わらず、背後から不意打ちされたかのように動き出しはおろか、攻撃しようとする気配や意思さえも見えなかった。

 かすっただけでも全身が塵になる攻撃を遼が避けられたのは、遼が躱したからではない。わざと父親が外したからである。

 まいったな。

 遼が攻撃を外したのも意味はあった。対応もできない一撃を放つことで、抹殺とまではいかないまでも戦の主導権は取れたからだ。

 もちろん、父親が全力を出しているとは思ってはいなかったが、今の攻撃は予測を遥かに超えていた。

 神煬流の宗家の本気の殺意を向けられて、逃げたいと思わなかったら嘘になる。

 さっきの攻撃で仕留めようとしなかったのを後悔していないといえば嘘になる。

「後悔するぞ。親父」

 自身の存在が、短い蝋燭のようにあっさりと無にされることに深淵に落ちるような感覚を覚えたが、それ以上に悦びが上回った。

「たかが遊び程度に躱せない小僧が何をさえずる。小僧ごときいつでも殺れるが、一瞬は面白くなかろう。せいぜい、俺をたのしま……」

 空間で衝突して爆ぜる衝撃が、父親の言葉を最後まで言わせない。

「てめぇこそ、俺の底を見たつもりでいるんだ? ボケロリコンが」

「そういう言葉は躱せない攻撃を打ってからいえ」

 父親は日本刀を上段に構えるが、どことなく適当に見えるのは力を抜いていて、一見すると真剣さが感じられないからである。

「俺は楽しみにしていたんだ。遼と戦うことを。貴様が誕生してから願い、ようやく叶ったこの機会。失望させるな」

 それは遼も同じ。

「奇遇だな。俺も親父をぶちのめしたいと思っていた。アンタにはさんざん殺したくなるほどにシゴかれたから上に人の味覚をめちゃくちゃにしてくれたから。その余裕満々な面に一発にブチこめると思ったら、股座がうずきまくる」

「そこまで親を殺す気満々なら、息子を殺す呵責を負わずに済む」

 思わず遼は笑ってしまった。

「俺たち神煬に良心なんてあったのか?」

 身内殺しを喜んで行う輩に、良心云々を語る資格などありはしない。

「ちげーねーな」

 一見すると何も構えていないようにみえるが、実は衝突は始まっている。互いの闘志と闘志がぶつかりあい、押して押されて浸食できたら一気に飲み込む準備を整えている。

 一陣の吹雪が吹いた。

「来い。遼」

 父親の身体が揺らいだと同時に、遼は動く。

 長かった距離をコンマ単位で埋めて、必殺の拳を繰り出す。

「じゃあな。親父」



 ………戦争が始まった。

 そして、大雪山は消滅した。







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