荒野にて、ただ祈る【短編・全1話】

冬野ゆな

第1話

 荒れ果てた地を砂が撫でていく。

 砂を含んだ空気は視界を霞ませ、あたりは砂色に包まれていた。

 遠くに荒涼とした岩肌がそびえたつだけの荒野は、木々ひとつ無かった。


 そんな荒野にまたひとつ、私の足跡だけが伸びていく。

 布きれに紐を何重にも巻き付けただけの靴は、頭から纏う襤褸の外套と同じくすっかりくたびれていた。私はひとり、手にした樫の杖だけを頼りに、果てなき旅路を進む。私の足跡は乾いた風に吹かれて微塵も残っておらず、もはやどこを進んできたのかも見当がつかなかった。動くものの気配はひとつとしてない。まるで私だけが隔絶された荒野を彷徨っているようだった。

 ほう、と息を吐く。既に白くなりつつあった息が虚空に消えていく。

 今日はこのあたりで野宿だろうか。

 どこか風を避けられる場所は無いかとずっと歩いてはいたものの、この砂では見えるものも見えなかった。ようく目をこらして周囲を確認しようとしたときだった。ひときわ強い風が吹き抜け、私は杖を持った手で自分の顔を隠し、襤褸の外套にますます身をちぢこませた。

 びょうびょうと鳴いた風がやむと、ようやく視界が少しだけ開けた。どうやら周囲の砂を浚っていったようである。目を開けると、丘の向こうに古びた廃墟が見えた。私は何度か袖の布きれで顔をこすり、それが幻覚でないことを確かめた。

 私ははやる気持ちをおさえながら、早足で進んだ。廃墟の全貌が見えるところまで来ると、淡い夕暮れの日に照らされた姿がよく見えた。件の廃墟は荒野のなかにぽつんとたたずみ、砂まみれで茶色く煤けたような色合いで、そこで石化したかのようだった。後ろの方はすっかり朽ち果てて崩壊しかかっているものの、前面に近いあたりはまだなんとか体面を保っていた。どうやらかつては修道院か何かであったらしい。建物の右手側にはかつては庭があったであろう崩れかけた入り口と、なにやら椅子のようなものが虚しく転がっているばかりで、あとは冷たい柵がその面影を残すばかりだった。


 私は丘をゆっくりと滑り降りると、再び風が吹かないうちに、廃墟に向かってまっすぐに歩いた。近くまで行くと、思ったよりも巨大であった。両開きの入り口は私の背丈よりもずいぶんと大きく、ドア枠にも装飾の跡があった。かつてはずいぶんと立派な修道院であったことを思わせる。

 すぐにノックをしようとしてから手を止めた。まずは肩についた砂つぶを取り払い、帽子の隅に積み上がった砂を払い落とした。帽子をかぶり直して、少しだけ咳払いをする。乾いた喉を舌先で湿らせてから片手をあげた。もう一度その手で肩を払ってから、改めてノックをした。古びた木の音が響いた。

「すみません」

 返事はなかった。

 もういちどノックをする。

「すみません。どなたか、いらっしゃいますか」

 やはり返事はなかった。

 考えあぐねて、私はドアノブに手をかけた。錆びた鉄のドアノブはぎしぎしと音をたてたが、少し力を入れるとなんとか開いてくれた。外開きのドアを開けると、軋んだ音が響き渡った。

「すみません……」

 私は思わず尻すぼみになりながら声をあげた。

 それでも、返ってくる声はなかった。

 そっと中へ入ると、ようやく目が暗い室内を映し出した。


 中は荒れ果ててはいたが、まだ当時の姿を残している。奥の祭壇に向かい、二列に並んだ木製の長椅子。その間には、踏まれて薄くなった、霞んだ色の絨毯が敷かれたままだ。奥に向かう扉が一つと、左手に向かう扉が一つ。右手側に小さな窓が並んでいて、そこから庭が見られるようになっていた。

 やや埃っぽくはあるが、幸い、壊れたところはなさそうだった。高い天井もまだ生きている。どうやら祈りの場であった場所はなんとか生き残っていたらしい。私が見た崩れた天井は、建物の奥の方であるようだ。私は静かに真ん中を通り抜けると、祭壇であった場所から上を見上げた。ステンドグラスがあった。すっかり砂をまとって薄汚れているが、まだそこから日差しを受け止めている。

 なんの神への祈り場だったのかはさておいて、風よけになるのならば私にとっては神に等しい。

 私はこの幸運に感謝しながら、荷物を降ろそうとした。そのときだった。

 不意に背後から人の気配がした。


 どきりとする。

 慌てて振り返ると、そこには先ほどまでいなかった人物が一人、朽ちた木製の椅子に座り込んでいた。いや、それを人と言って良いのだろうか。私は一瞬目を疑った。

 彼の姿は茫洋としていて、かろうじて人型であるとわかるものだった。体は真っ白で、やや向こう側が透けている。指先や顔の形といったものが極限まで省かれ、人としての体裁はほとんどなしていない。魂の原型とでもいうべきものが、そこで静かに祈りを捧げていた。胸の前で静かに合わさる両腕の先が、その祈りを物語っていた。

 ならばそれは、人間である。

 人間の魂なのだ。

 この地に残された人間の魂。


「これは、申し訳ありません。誰もいないと思い込んでいたもので」

 白い人型は、ゆっくりと顔をあげた。こちらを見るように顔が動く。

 気にするなというように、そして小さく首を振った。

「旅の方ですか」

 小さく、ささやくような声だった。

「はい。あてもなく旅をしています」

「そうですか。ここは誰のものでもありません。どうぞご自由にお休みになられてください」

 私は彼の言葉に感謝を述べた。

 とはいえこのままふたりきりというにも、どうにも落ち着かない。教会は広いとはいえど、このまま無視するには居心地が悪すぎた。ちらりと彼の方を見ると、彼はやはり祈るように腕らしきものを合わせていた。

「あなたは……」

 どう問いかけたものかと逡巡したのち、言葉を続けた。

「あなたはなぜ、斯様な地で祈りを捧げておるのですか」

 返答はしばらく無かった。

 問いかけてはならなかっただろうか。

 居心地の悪さにどうしたものかと考えあぐねていると、人型の方が先に声を発した。

「祈らずにはいられないのです」

 やはり、小さく、ささやくような声だった。

「旅人さん。よろしければ、つまらない話ですが、わたしの話を聞いていただけますか」

「……私でよければ」

 頷き、私は通路を挟んだ向かい側の木製椅子へと座った。

 帽子をとって膝にのせると、彼の話に耳を傾けた。


「この地にはかつて、小さな町がありました。この教会を中心にした、ごくごく平凡な小さな町でした。わたしはこの町で生まれた、しがない庭師でした。わたしの家は代々、この教会の庭を整えるのが仕事だったのです。

 わたしは五つか六つの頃から、父の仕事を手伝っていました。最初は父のまねごとから始まり、父の隣で小さな台に乗って、一人前のような顔で指を動かしていました。教会にやってくる人々はそんなわたしをからかい、ずいぶんとかわいがってくれました。彼らはずいずんとわたしたちに良くしてくれました。中で行われている説教を聞いたり、日曜のミサに外から参加したり、やってきた子供たちと遊んだりしていました。そんなふうでしたから、わたしは、わたし自身が信者だとは思いませんでしたが、この教会のなくてはならない人間のひとりであると誇りを持っていたのです」


 彼はこちらを視るように顔をあげた。

「ここに入る時、庭に残った木を見ましたか」

「いいえ」

「そうですか。もう跡すら残っていないのですね」

 彼は少しだけ目を伏せるように下を向いた。


「父は次第に仕事を任せてくれるようになりましたが、流行病によってあっという間に亡くなってしまいました。わたしがひとりで庭を切り盛りするようになった頃にはもう、この地にも砂と滅びが忍び寄っていました。

 砂から逃げようと、ひとり、またひとりとこの地から立ち去っていきました。まだなんとか庭としての体裁は保っていましたが、もはや時間の問題でした。やがて町の地面を砂が滑るようになると、教会の人々も町から離れるようになりました。ひとり、またひとり。 ただひとり、妙齢のシスターだけが、その人々のためにここに残り続けていました。そうしてほかに行くあてのない人々のために、この教会で祈りを捧げていました。

 やがて家々が崩れ果てると、残るのは教会ただひとつきりになりました。とうとうここに残ったのはシスターとわたしの二人きりになってしまいました」


「シスターはわたしが働きはじめてから入った、一番若いシスターでした。年も十ほどしか違わなかったので、わたしは年の離れた兄のような気分でした。彼女は厳しい戒律のなかにいましたが、彼女もまた、わたしのことを年上の兄のように慕ってくれていました。じっさい、妹なのかと聞かれたことも一度や二度ではありませんでした。

 しかしそんな年の若いシスターが、こんなところにいつまでも残っていてはいけません。人々が減っていくと、強盗も起きるようになりました。盗人に狙われてはただではすみません。そんな大変なさなか、わたしはシスターに問いかけたことがありました。『どうしてここに残っているのですか』と。彼女はこう言いました。『お兄さん、それでもここには出て行けない人達がいます。私は彼らのために祈りを捧げねばならないのです』と。

 彼女はその言葉通り、残った人々のために祈り、支え、身を捧げていました。

 なかには砂と滅びを受け容れられず、泣いて過ごす人もいました。ですが、けっきょくのところ……、人々はゆったりとした滅びを受け容れていきました。そういうものだったのです」


「彼女は……、彼女はその献身のために、ずいぶんと疲弊していました。最後のひとりが旅だったあと、彼女自身が倒れてしまったのです。わたしは彼女を一生懸命に看護しました。残った水を口に入れてやると、彼女はにこやかに微笑みました。

 わたしはベッドのそばで、彼女に、なにかしてほしいことはないかと尋ねました。彼女はわたしを見てから、こう言いました。『お兄さん、私のために祈ってください。私が無事に神様のところへと旅だって行けるように』と。わたしは、わかった、と言って、彼女のために祈りました。

 幸いにも、わたしはこの教会の庭でずっと祈りを聞いていました。だから、きっと彼女が望む祈りを捧げられたでしょう。最期の瞬間、彼女は微笑み、そしてしっかりと天井を見つめて旅立っていきました。

 そうしてこの教会にはわたしひとりが残るばかりとなりました。しかし……」


「しかし?」

 促すように言うと、白い人型は少しだけ目線を下にするように頭を下げた。

「わたしがこの地で朽ちた後、わたし自身は、どこへ行けば良いのかわからなかったのです」

 私は目を瞬かせた。

「それは、どういう意味でしょう」

「わたしは長い間、この地で過ごしてきました。この土地以外に行くところを知りませんでした。いくらわたしがこの庭でずっと暮らしてきたといっても、わたしは庭からずっと聞いていただけの庭師です。神のところへ行ってもいいものか。そもそもみんなや彼女は無事に神様のところへと行けたのでしょうか。行けたとして、どこへ行けば会えるものなのか。わたしは急に不安になってしまいました。わたし自身はどこへ行けばいいのでしょう。わたしにできることは、彼らと彼女が無事に神様に会いに行けたかどうか祈ることだけでした。そして、気がつけばここでずっと立ちすくんでいたのです」

 彼は話し終えると、長い息を吐いた。


「そうでしたか」

 私は頷いた。

「では、あなた自身はどうされたいのでしょう」

「わたしは……、わたしは……」

 庭師だったという彼は、目を逸らすように頭を動かす。

「彼女もみんなも、ここにはいない。ということは、無事に神様のところへと旅だったのではないでしょうか。あなたも」

「それなら、わたしはどうしてここで取り残されているのでしょう」

 私は、選ぶように、慎重に次の言葉を探した。

「おそらくですが、あなたは、不安だったのではないですか。彼女は人々のために祈り、あなたは彼女のために祈った。ところが、そうなってしまっては、誰もあなたのために祈る者はいなかった。だれもあなたがたの最期の物語を知るものはいなくなってしまう」

「……そうなのでしょうか?」

「少なくとも、話し終えたあなたはすっきりとしていたように思いました」

「それは……」

 事実であるというように、庭師は自分の胸のあたりに手を当てた。

「では、私があなたのために祈りましょう。あなたの物語を胸にしまい、あなたの旅路を祈りましょう」

「良いのですか」

 庭師の声は縋るようだった。

「こんなことを押しつけて、良いのですか」

 私は頷いた。

「ありがとう、ありがとう」

 庭師は何度も何度も礼を言った。

 私は彼の教会の信徒ではなかったが、彼のように指先を組み合わせ、彼の旅路を祈った。彼の信じる神のところへと旅立って行けるよう、その旅路を祝福した。彼もまた両手とおぼしき腕を目の前でこすり合わせた。

 やがて彼の腕の先が歪んだのに気付いた。

 目をやると、彼は祈りを捧げる恰好のまま透明になっていった。

 私は驚いて顔をあげた。彼の姿は徐々に消えていき、やがて霧散するようにきらきらとした小さな光の粒になってその場からいなくなっていた。


 ここに来てからどれほどの時間が経ったのだろう。

 気付けば、あたりは真っ暗になっていた。冷たい風がどこからか入ってくるらしく、私は寒さから身を守るように、外套を体に巻き付けた。

 廃墟の中は私の他に誰もおらず、残された魂もいなかった。

 私は自分が廃墟の中で一人だという事に気付くと、慌てて荷物をひっくり返して灯りをつけた。わずかばかりの水を飲み、小さな乾パンを口にして、襤褸の絨毯を少しばかりナイフで拝借した。絨毯を体に巻き付けると、外の冷たい風が体を冷やさないうちに、深い眠りについたのである。


 翌朝になって扉を開けると、いつもと変わらぬ景色が飛び込んできた。

 昨日よりはまだ風がましになったようで、朝日が廃墟を照らしているのが見えた。明るい日差しの中で見る廃墟は、昨日よりもずっと年月を経たように見えた。

 私は昨日と同じく少しばかり喉と腹を満たすと、絨毯の切れ端を丸めて荷物の上にとりつけた。絨毯ぶんだけ増えた荷物を背負い、樫の杖を手にし、荒野を歩き出した。

 砂とひび割れた大地が続くだけの、果てなき大地。

 この荒涼とした地で、祈りがどれほどの意味を持つのだろう。


 祈り。祈りか。

 だが彼は確かに、自分のために祈られることによって旅立った。

 私もいつか、誰かに祈られることがあるのだろうか。


 それとももう私自身もまた、この乾いた荒野を彷徨うだけの魂に成り果てているのだろうか。私は自分の手を見つめた。艶のない指先はまだ五本のまま動いている。小さく握ると、まだ感覚があった。生きている。

 朝日が砂で曇らされ、先は見えない。

 だが、まだこの足がある。


 ならば私は、行くところまで行こう。

 そして今日も私は、荒野を往く。

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荒野にて、ただ祈る【短編・全1話】 冬野ゆな @unknown_winter

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