二. エヂカ
犬畜生エヂカの妹、ミヂカがナイフになってしまい、エヂカは妹を真っ当な犬畜生に戻すために、まず鋭角魔術師のカーテンレール・ザンジーに話を聞いてみようと、彼のアトリエを訪ねた。
「ザンジー、いるか。俺だ、エヂカだ。大変なことになってしまったのだ。」
「ああいるよエヂカ、君の親友、裸のザンジーここにありだ。」
「服を着たまえよ、ザンジー。」
「裸はいいものだそ、エヂカ。君は毛皮を脱げなくて不自由するな。」
「鼻から脱げないものに不自由はない、俺は自由だ。それはいいのだ、服を着ないなら話を先に進めるぞ。」
「続けたまえ。」
「我が妹が、不肖の妹ミヂカが、ナイフになってしまったのだ。」
「なんとナイフに! つまり君が今くわえているそのナイフがミヂカというわけだ。しかしエヂカ、そのナイフとは、本当に君の妹で間違いないのかい?」
「妹を間違える兄がどこにいる。」
「それもそうだ。女性を目の前に服も纏わず失敬したが、このまま続けさせてもらおう。さて、ミヂカはなぜナイフになったのだろう。」
「それがわからない。ナイフは喋らないものだからな。」
「なるほど。しかしわからないな。犬がナイフなることはできない。生き物が死に物になることはあるが、それがナイフだというのは理解ができない。」
「生き死に物になったということは考えられないだろうか。」
「死に生き物になったということだって考えられるさ。しかしエヂカ、そうであっても、犬がナイフになんてなれる魔界では――いや、新魔界ではないのさ。」
「だったら、妹はなぜナイフになってしまった。」
「すまないがエヂカ、所詮は鋭角魔術師でしかない俺には分からないよ。この世の理を根本から解するのは大七魔女公団の椅子に座る四人の魔女と、大七魔女公団の椅子を蹴った二人の魔女と、大七魔女公団の顔面を蹴った一人の魔女だけだ。俺が思い当たるもので、世の中の理に変化をもたらすことができるのは、おそらく大七魔女公団の顔面を蹴った魔女山ヒカル子だけだろう。彼女の使い魔はカエルだからね。カエルは変化の権化なのだから。」
「魔女山ヒカル子か。確かにあの秩序であれば、何かを知っているかも知れない。」
「幸いにもエヂカ、君は犬だ。魔女相手には死ぬより厳しいという魔女山ヒカル子も、獣には寛大だと聞く。会ってみる価値はあるだろう。」
ザンジーはどこから取り出したのか、クラダナ模様の美しいビュラ皮を鞣して作った犬用のナイフケースをエヂカに巻きつけると、エヂカがくわえていた妹をそこにそっと収めた。
「何も出来ない俺からの、せめてもの贈り物だエヂカ。」
「ああ、ああ、感謝するぞ、カーテンレール・ザンジー。我が友よ。」
「良い良い、早いところ妹君を元に戻してあげたまえ。」
エヂカはザンジーのアトリエを出ると、すぐさま魔女山ヒカル子の巣へ走り出した。
その道中、エヂカは妹に語りかけた。
「妹よ。」
「…………。」
「妹よ、応えておくれ。ナイフの凍てつくそれでもいい、きらめく刃のそれでもいい、兄の言葉を聞いておくれ。」
「…………。」
「何か生活に不満があったろうか。何か俺に至らぬことがあったろうか。食い物が足りなかったろうか、井戸水は臭かったろうか。」
「…………。」
妹からの返事はない。
それでも絶えずエヂカは話し掛け続けたが、自らの言葉ばかり響く沈黙の道を、やがて魔女山の巣まで辿り着いた。
魔女山の巣。それは魔界の右の山の麓、生命のプロワーロの形をした奇岩をくり抜いた中にある。その巣の入り口はミゲイのツタが塞ぐので、容易に押し入ることは叶わなかった。
さて困ったと思うや、不意にエヂカの身体に巻き付いたナイフケースから、自らを使えとばかりにミヂカがぽとりと顔を出した。
しかし「それは敵わない」と、エヂカはミヂカをナイフケースへ引っ込めてしまった。
「返事をありがとう、ミヂカ。俺は大丈夫だ。」
そういうとエヂカは入り口を覆うミゲイのツタをひと噛み、ふた噛み、ツタに浸むと言われるネゲイの毒も構うことなく、その鋭い牙で目の前に道を作っていった。
しばらくツタを食い千切ると、ようやく入り口が現れた。
エヂカは躊躇うことなくそこへ入った。
「魔女山ヒカル子! 俺はエヂカ、犬のエヂカだ。訳があり知恵を借りたい!」
「――大きな声を出さなくてもいいわ、あなたの声はこの私の小さく大きな耳にもしっかりと届いていますから」
エヂカに返事をしたのは魔女山ヒカル子のようだった。しかし魔女山ヒカル子は目の前にはおらず、その言葉を発していたのは一匹のまだらのカエルだった。
「ついていらっしゃい」
そういうとカエルはぴょこぴょこと奥へ跳ね飛んで行くので、エヂカもそれに続いた。
がらんとした巣の奥は広く大きく、しかしあまりに何もないので、その最奥にクロドブランコの玉座を構える魔女は小さすぎるように見えた。
いつの間にか、まだらのカエルは魔女の足元にいて、どうやらもう魔女山ヒカル子の声はこちらへ直に届くようだった。
「ようこそ、ようこそ、はじめまして。私は魔女、魔界の序列最下七位、新魔界の創造主、あるいは新魔界そのものと言われるところの魔女山ヒカル子よ。以後お見知りおきを。」
「――俺はエヂカ。犬畜生のエヂカだ。不躾な来訪、誠に申し訳ない。」
「ふふふ、構わないわ。犬畜生が、どうにも礼儀が良くて敵わないわ。この魔女山の巣を訪れる者たちの礼儀のなさったらないんだもの。あるいはこの巣には、礼儀ならずの者しか入れないのかもしれませんけどね。――それでもあなたは訪れた。礼儀の正しいあなたが、さて、この私にどんな用事があるのかしら。」
「他でもない、用事というのは俺の妹のことだ。」
「……あなたがその身に携える、ナイフのことね。」
「ああそうだ、我が妹ミヂカが、なんとナイフになってしまったのだ。」
「妹がナイフに……そんなことが起きるとあなたは本当に思っているの?」
「思うかどうかは瑣末なことだ。実際にナイフになってしまったのだから。」
「なるほど、あなたはよほど、妹のことを気に掛けているのね。そうね、そうだわ、その通り。あなたの妹は実際にナイフになった。――ナイフに変化した。変化を司るのは私、この新魔界に君臨する絶対にして絶好の魔女であるところの魔女山ヒカル子の専売特許と言えるわね。だからあなたはここにきた。」
「そうだ、そうだ、その通りだ。変容の魔女である魔女山ヒカル子、貴様ならばこの妹のことを何か知るのではないかと思ったのだ。」
「生憎ですけど、少なくとも私はあなたの妹をナイフにはしていない。――おそらく私のカエルたちも、同様ね。」
「ではなぜ、妹はナイフに?」
「……分からない、と言ったらあなたは失望するかしら?」
「驚いた、魔女にも分からないのなら、俺たち犬畜生には到底及び付かないことが起きたということだ。」
「そうかも知れないわ。ねえ、これは提案で、あなたが良ければと言う話しなのだけど、もしよかったら妹さんを私に預けてみない?」
「……俺は貴様を信用して良いだろうか。」
「悪いようにはしないわ。傷ひとつ付けず、あなたの元に帰します。……そうね、なんならあなたのことも、私が預からせてもらっても構わないわ。大丈夫。皮を剥ぐこともしない、牙を折ることもしない、温かい寝床も素敵な食事もあるわ。――実を言うとね、私も見極めたいのよ、あなたの妹がどうなったのかを。」
「見極めたい?」
「ええ。犬畜生のあなたに、私たちが知る魔界のなんたるかを講釈しても、存外理解できないと思いますけれど、それでもね、新魔界というのはそれほどまでに理解できないものなのよ。この新魔界の有り様は、まだ誰も理解できない。」
「…………。」
「これは強要でも脅迫でもなく、命令でもない。お願いしているの。この新魔界を統べる魔女山ヒカル子があなたに頭を下げようと言うの。ですからね、あなたは少しくらい私の意気を買ってくれても良いのではなくて?」
エヂカは面食らっていた。
話に聞くよりも魔女山ヒカル子は随分と良い魔女のように思えた。――いや、そもそも魔女というのは本来そうあるべきものだ。
この魔界は新魔界となったが、魔女は魔界を背負い、魔界にいる存在を導く者たちなのだ。
――無礼な真似をした。
エヂカは自らの振る舞いを反省し、改めて魔女山ヒカル子の方に頭を擡げたが、しかし、その瞬間にめまいを起こして地にぐったりと伏せってしまった。
「あら、大変。あなたまさかミゲイを食い千切ってきてしまったのね? 毒が抜けるのに二十箒刻はかかるわ。よかったらそれまで、ここで休んで行くといいわ。」
「すまない、魔女山ヒカル子。すまない。――妹を、たのむ。」
「死に物狂いはよしなさい。少し休めばなんでもなくてよ。」
そういうと魔女山ヒカル子はエヂカを抱えて、自らの寝床まで運び、そこで休息を取らせた。
そして柔らかな魔女山ヒカル子の寝床の上で、エヂカは気を失った。
――――。
「あなた、本当にナイフになってしまったの?」
エヂカはその夜、魔女山ヒカル子の独り言をきいた。あるいは独り言でなく、それはミヂカに会話を試みていたのかも知れないが、少なくともエヂカが聞く限り、そこに返答はなかった。
「私のカエルの力を借りず、あるいはこの新魔界となって、あなたがナイフになったということは、それがつまり新魔界の新魔界たる所以なのかも知れないわね。」
「…………。」
「ねえミヂカ、あなたはナイフに変化して、何を貫こうとしたのかしら? それとも何かを切り裂こうと? お兄さんとは仲がよろしかったようだけど、それが嫌だった?」
「…………。」
「それともあなたは、何かを切り拓こうとしたのかしら。その研ぎ澄まされたナイフの淵の輝きで、何かを照らせると言うのかしら。」
「…………。」
「――そうか、あなたがつまり、あなたこそが……」
魔女山ヒカル子は何かに気づいた様子だったが、エヂカにはよく聞こえなかったし、それを問いただすこともなかった。
独り言を聞いていたというのもばつが悪かったし、なにより聞いたところで、それは魔女だけが理解し得ることを言っているのだろうと思ったからだ。
――妹が無事であればいい。
あるいは自らもナイフになれば、すぐにでも妹のことが理解できるのかも知れない。
ミヂカのナイフのきらめきは、今はただエヂカに目映かった。
新魔界巷談 立談百景 @Tachibanashi_100
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