新魔界巷談

立談百景

第一章「裸婦画井ラブ花」

一. 新魔界

 魔界はいつもそこにあるし、魔界はいつだってここにしかない。しかしいまここにあるのは新魔界だった。

 新魔界の魔女である魔女山ヒカル子は、いわゆる大七魔女公団には属さない魔女である。新魔界に於いて秩序というのは彼女のことであり、彼女がいなければ新魔界の秩序は保たれない。

 魔女山ヒカル子の巨大な根城である魔女山の巣を握力計ゲジが訪ねたのは、新魔界の成立から七千走狗年も経ってからだった。魔女山の巣の中で新魔界の秩序であるはずの魔女山ヒカル子は、無秩序に散らばっていた。

 魔女山ヒカル子は一見して十人にも増えたように見えており、握力計ゲジは目のやり場に困った。

「人前で増えるだなんて、随分とはしたないじゃあないか。」

 握力計ゲジの言葉が聞こえて、十人の魔女山ヒカル子はゆっくりと声の方へ振り返った。

「――あら、誰かと思えば握力計ゲジじゃない。かつて盲目眼鏡と呼ばれたあなたが、この私のはしたない姿を見たということは、どうやらあなたも素晴らしいレンズを磨きつづけてきたということね、おめでとう。そしてようこそ、魔女山の巣へ。」

「――――。」

 握力計ゲジが言葉を返す前に、魔女山ヒカル子は一人に戻り、広い部屋の中は急に秩序が戻る。握力計ゲジは面を食らう心地だったが、魔女山ヒカル子はそもそもその存在さえ意に介さない様子だった。

「君は変わらないな、ヒカル子。君が私の――」

「『私の教え子だった頃』――」魔女山ヒカル子は握力計ゲジの言葉を拾うように遮った。「古い話ばかりする男は、この城に入ることができないはずなのだけどね。でもいいわ。あなたが私の教師だった頃の軌跡が、あなたをここへ引き入れたのでしょう。とはいえ、この城に入ることが出来たというのなら、あなたは客人ね。丁重におもてなしをさせていただくわ。まずはかけなさい。」

 握力計ゲジの背後にはいつの間にか巨大なクーチェロス型の安眠ソファがあり、彼がそこに腰をかけたところで、魔女山ヒカル子は玉座のように置かれたクロドブランコの梁に足を組んで座った。クロドブランコはその名の通り座部に特徴的なクロド組みのフェネフェネが施されたブランコだったのだが、魔女山ヒカル子はそこに座らなかったので、ブランコは身じろぎもせずただ一つの椅子と化していた。

「さて――改めましてお久しぶりね、握力計ゲジ。私のこの曖昧な記憶を以てしても、久しい再会であることは明確ね。」

「ああ、そうかもしれないな。新魔界成立以来だ。」

「そんなに前のことだったかしら。それともそんなに最近のことだったかしら。いずれにしても、あなたがここに来るのは、再会を懐かしむためではないでしょう。――いつもそうよ、この魔女山の巣を訪れる者が、ただ私に会いに来るだけなんていう暇な手合いではないことを、私は知っているわ。大体面倒な事柄を腰に携えて、人の死を悼むような沈痛な面持ちでやってくる。嫌だ嫌だ、嫌でたまらないわ。何でも知っている私が、特に深く知り尽くしたことですからね。」

「逐一言葉が長いな君は。しかし話が早い。端的に言おう、君と、君のカエルの力を貸して欲しい。」

「ふうん。私と、私の一〇一匹のカエルの力を貸してあげることには吝かじゃありませんけどね、念のために理由を聞いてあげますわ。」

「ああ。――拒絶季が近づいている、どうやら葉月サリイが目覚めそうだ。」

「葉月サリイ――葉月サリイ、葉月サリイね。ええ、ええ、存じ上げておりますとも。大七魔女公団の団長にして葉隠キミカの実の姉、七匹のシカを従える最強の魔女、魔界崩壊の当事者中の当事者、新魔界成立時に眠りについて以来のお寝坊さん、葉月サリイが目覚めるというわけね。」

「ああ、その通りだ。本来ならこのまま目覚めないでいてほしいところだが、そういうわけにもいかないらしい。」

「その通りね。この世のあらゆる者は起き上がる運命にあるのだから。いくら眠たくっても、必ず起きなくてはいけないのよ。」

「そういうわけだ。葉月サリイは目覚める。拒絶季まであと四半回転月はあるが、これでも足りないくらいだ。」

「四半回転月もあれば十全よ。あなたたち『髑髏屋イツキの会』だけでは、もちろん足らないでしょうけどね。それでも拒絶季にあの魔女が目覚めると気づいたことは褒めてあげましょう。よくやったわね。」

「他の魔女が教えてくれたのさ。しかしこれで新魔界の秩序となった君の力があれば、葉月サリイの目覚めを止めることができるだろう。」

「そうね、私の、この魔女山ヒカル子の力があれば、きっと止められるわ。――でもね握力計ゲジ、本当に申し訳ないことなのだけれどね、ああなんてこと、そのお話はお断りさせていただくわ。」

「……なんだって?」

「お断りさせていただくと、そう言ったの。自分たちでやれと、そう言ったのよ。」

「何故だ、魔女山ヒカル子! 葉月サリイが目覚めてしまえば、この新魔界の存在が危ぶまれるかも知れないんだぞ。君が新魔界秩序で、新魔界の秩序こそ君なのだ。それは即ち君自身の存在が危ぶまれるということなんだぞ。」

「ええ、そうでしょうね。そうでしょうとも。そんなことは重ねに重ねて承知していましてよ。――でもね、握力計ゲジ。確かにあなたは私の教師だったかもしれないけれど、そしてあなたの属する『髑髏屋イツキの会』の創始者であるところの髑髏屋イツキには非常にお世話になりましたけれどね、それでも今のあなたたちに助太刀する理由は、一つとしてないのよ。」

「だから理由は、この新魔界が――」

「『この新魔界が』――壊れてしまうから? 壊れてしまえばいいのよ、こんな新魔界なんて。のだから。」

「なるほど――つまり君は、髑髏屋イツキがその存在を屠して築き上げたこの新魔界を、壊してしまってもいいと言うのだな。この新魔界がまた元の魔界へ戻り、崩壊の一途を辿ってもいいと、そう言うのだな。」

「ええ、そうよ。そう言ったつもりよ。新魔界を守る理由はないし、新魔界を守らない理由は塵の山ほどある。むしろそうでなくてはいけないわ。彼女――髑髏屋イツキがいないのなら、私にとって魔界だって新魔界だって同じことなのよ。あのとき、髑髏屋イツキが新魔界を築いたとき、私は新魔界の秩序になったわ。それはね、髑髏屋イツキになら、私は新魔界の秩序にされてもいいと思ったからよ。めちゃくちゃにされても、それは本望だったのよ。――新魔界の秩序わたしという真っ赤な絨毯の上に、彼女が金色の玉座を構えて座るなら、これ以上の至福はないと思った。それだけ。」

 魔女山ヒカル子は座っていたブランコの梁から降りて、そのままブランコの座面に腰掛けた。

 クロドブランドが揺れる音は、まるで止まった金属河川のせせらぎにも似ている。その音は握力計ゲジの耳には刺さらなかった。

「正直に申し上げますと、私はむしろ新魔界を壊してしまいたいわ。それを壊そうと言うのが葉月サリイであることについては些かの不満がございますけどね。新魔界が新魔界としてあり続けるよりは、いくらかマシだと思っていてよ。」

「…………。」

 握力計ゲジは失望の眼差しを魔女山ヒカル子に向けていたが、彼女の言うことが嘘だとも思えず、一つ息を吐いて、ソファから立ち上がった。

「――邪魔をした、ヒカル子。今日は帰らせてもらおう。」

 魔女山ヒカル子の顔を見ることもなく、握力計ゲジは踵を返し、部屋の入り口へ向かって歩き始めた。

「待ちなさい。」

 しかし魔女山ヒカル子が握力計ゲジを引き留めた。握力計ゲジはしぶしぶ振り返ったが、もう一度ソファに座ろうとはしなかった。

 魔女山ヒカル子はかまわずに話を続ける。

「あのねゲジ、私があなたの教え子だった頃――。」

「君の口から昔話が?」

「――私があなたの教え子だった頃、あなた、なんと仰ったか覚えていらっしゃる? あなたが私たちの時間を三角年ばかり拘束しておよそ二千万にも及ぶ学術的な言葉を刷り込んだあの時間の中で、幾度も幾度も口にしていた言葉を、よもや覚えていないとは言わせないわよ。」

「……覚えていないな。私はなんと言っていた。」

「あらそう、それでは金輪際、あなたには人を指導するという立場から降りていただくとして、教えてあげましょう。――あなたは『人の話は最後まで聞きなさい』と言っていたのよ。繰り返し繰り返し、あなたはそう言ったの。私はその決まりが大嫌いで、今でも守ったりはしませんけどね、でもその決まりを忠実に守っているあなたについては、少なくとも嫌いじゃなかったわ。」

「――話のつづきが?」

「まだ半分も終わっていないわ。なので続けますけれど、つまりね、ゲジ、私はあなたたちに力を貸さないわ。私の力はきっとあなたたちには持て余すものでしょう。秩序そのものを動かそうなんて、イツキや私でも、まして秩序そのものにさえ無理なことなのよ。――でもね、どうやら部屋のどこからか、ゲロゲロと忙しく鳴くやつばらが、私の鼓膜をうるさくたたくのよ。」

 魔女山ヒカル子は片手を叩き、何かを呼び付けた。すると今度はゲジにも聞こえる音で、どうやらカエルの鳴き声がし始めた。

「――いよいよおいでになったわ。愛しの我が従僕、魔界を飲み込む両生類、切った張ったを得意とし、鞣した皮を自在に着こなす新魔界のファッションリーダー、魔女山の遣いこと一〇一匹のカエルたちよ。」

 魔女山ヒカル子、そして握力計ゲジの周りに、合計で一〇一匹の様々なカエルが姿を現し、じっとのど元を膨らませていた。みな一様に魔女山ヒカル子の方を見ており、その中で握力計ゲジも魔女山ヒカル子の方を向いていたので、魔女山ヒカル子にとっては握力計ゲジも自らの従僕のように思えた。

「彼ら彼女らが、大きな声で言うのよ。どうしてあなたに力を貸さないのかと。この子たち、イツキにはずいぶんと懐いていたから。ふん。カエルのくせに生意気なのよ、この子たち。――だからねゲジ。私は直接、あなた方に力を貸したりしませんけれど、この子たちがきっとあなたに力を貸してくれるはずよ。」

「……君は相変わらず、素直さが足りない。」

「違うわ、あなた方が、私に過剰な素直さを期待しているだけよ。」

「恩に着るぞ、魔女山ヒカル子。」

「お礼は結構、一〇〇匹までなら連れて行ってかまわないわ。」

「一匹でも十分なくらいだ。」

「――悪いことは言わないから、一〇〇匹、連れて行きなさい。今回は、新魔界成立から初めての拒絶季よ。最初は何が起きるかわからないもの。あの葉月ヴェシアが目覚めるとして、それが拒絶季だと言うのなら、何を拒絶されるかわかったものではないわ。」

「忠告、感謝するよ。それでは一〇〇匹全てを連れて行くとしよう」

 握力計ゲジを囲んだカエルたちは嬉しそうにげこげこと鳴き、その鳴き声に魔女山ヒカル子は少しだけ眉を歪める。

「――しかし魔女山ヒカル子、忠告までするくらいなら、なぜ君が直接、手を下さないのだ。」

 そして握力計ゲジが当然の疑問を口にすると、まるでぬるいプレワノ茶を出された時のように、魔女山ヒカル子は気だるく答えた。

「そんなものは簡単な話よ。それは本当に、新魔界なんて滅びてもいいと、私が心の底から腹の底からそう思っているからよ。」

「……君自身が何度も言うように、髑髏屋イツキはもういないのだ。それに君はこの世界を壊してしまいたいと言うが、君であれば、またイツキとは違う新しい魔界を築くことも容易いのではないのか。全てを壊してもなお、それが出来るだけの力がある。それでも君は、髑髏屋イツキの作ったこの新魔界を、手放したくないように見える。」

「……そうかも知れないわね。分からないわ。」

「君にも分からないことがあるのだな。」

「私はこの魔界のすべてを知り尽くす新魔界最強の魔女ですから、私が誰かに理解されるようではいけないのよ。もちろんそれは私自身でさえも例外ではなく、ね。」

「――まあいいさ。礼を言う、魔女山ヒカル子。」

「ええ、ええ。葉月サリイに、くれぐれもよろしく伝えてちょうだい。『遅刻、寝坊、立ち往生は懲罰房行きだ』とね。」

「それは――私の言葉だな。」

「よろしくお願いいたしますわ、ゲジ先生。」

「いいとも、ヒカル子君。」

 そうして握力計ゲジは、百匹のカエルを連れて、魔女山の巣を出て行った。久しい来客も後を濁さず、部屋には魔女山ヒカル子と残されたまだら模様のカエルが一匹、ぽつねんと座っている。

 カエルが魔女山ヒカル子を見た。

「ふん、何を見ているのよ。」

 従僕はげこげことしか喋らない。従僕の真の声は、あるじにしか聞こえないのが理だ。魔女山ヒカル子はカエルの言葉をきいて、不機嫌そうに顔をしかめた。

「――従者が生意気を言うのはおよしなさい。イツキのことなら、あらかじめ自分の墓のしたに捨ててきましたからね。彼女と私が再びまみえるのは、きっと新魔界が魔界となり、次の新魔界がさらに魔界となり、そしてその次の新魔界が魔界となっても、まだまだその先のことなのよ。だからあなた方カエルの皆様もね、イツキに会いたいのなら、あの三流魔術師に力を貸そうなんてせず、魔界を壊してしまえばいいのよ。あの愛しい愛しい髑髏屋イツキの作った、この忌々々々々々しい新魔界をね。」

 魔女山ヒカル子の言葉はいつしか独り言になっている。

 ブランコは揺れずに風もない。

 拒絶の季節は、すぐそこまで迫っていた。



——つづく

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