欄干

鹽夜亮

欄干

 冷たい夜風が肌を刺す。肺に吸い込む煙が熱い。ニコチンを取りすぎた脳は、えずいた。鴉が鳴いている。頭上に鷲が見えた。車の音は遠い。香りはない。

 コツコツと歩く音だけが響いた。遠くで信号の赤い点滅が見える。ひどく眠かった。珈琲を呷る。ホットにはしなかった。暖まるつもりはなかったから。橋の街灯は心細い。点々とその足元を照らしている。それに大した意味を見出せそうにはなかった。欄干には何か絵が描かれている。花だろうか。もうここに描かれた花たち全ても枯れただろう。どこに咲いていたとも知れないが。

 カチン。煙草を私は手放さなかった。ライターが小気味いい音をたてる。沈黙の暗澹に、厭に響いて聞こえた。そういえば今吸っているこの銘柄は何だったろう。過った疑問を解決するためにポケットから箱を取り出すことはしなかった。無駄だったから。

 橋は中央に向かって少しずつ半円形を描いている。車で走れば気にもならないほどの傾斜が、歩を進める私に特別な意味を感じさせた。階段をのぼる。坂をあがる。それらの意味する終点を私は知っている。

 坂が終わった。確かに視線の先では橋が下りへと向かっていた。頂、という言葉が脳裏をよぎった。欄干に上半身を預ける。珈琲の缶は横に置いた。のみならず私はまだ煙草を吹かし続けていた。

 視線を下に向けると、そこには川などなかった。闇があった。煙草に灯る先端の火だけがゆらゆらと揺れた。夜風は冷たさを増した。水場の近くは冷える。冷気は逆上せた脳をほんの少しは冷却させるのかもしれなかった。

 煙草を闇に投げ捨てた。赤い点となったそれが、闇の中をくるくると回りながら落ちてゆく。やがて、一瞬のうちに消えた。火は水に呑まれれば消える、重力に従って物は上から下へ落ちる、なんとわかりやすい方程式だろう。

 カチン。また煙草に火を点けた。ライターのガスが少ないことを感じた。同時に事足りることも。珈琲を呷る。それは空になった。空き缶を闇へ投げた。何も見えなかった。代わりにポチャンと遠くから小さな音が聞こえた。

 気分がなかった。感情がなかった。感性がなかった。文面がなかった。気力がなかった。体力がなかった。希望がなかった。絶望がなかった。杖がなかった。楔がなかった。不自由がなかった。束縛がなかった。好きなものがなかった。嫌いなものがなかった。愛するものがなかった。憎悪するものがなかった。時間がなかった。勇気がなかった。向上心がなかった。生命力がなかった。適応力がなかった。才能がなかった。努力がなかった。光がなかった。理由がなかった。虚しさがなかった。悔しさがなかった。悲しさがなかった。嬉しさがなかった。楽しさがなかった。怒りがなかった。

 私がなかった。何もなかった。

 最後の煙草が闇に消えた。

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欄干 鹽夜亮 @yuu1201

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