死が二人を分つまで
安江俊明
第1話
男はスコッチの水割りを舐めながら、同じカウンターの止まり木に座っている女を眺めていた。女はカクテルグラスを守るように両手をカウンターの上に置いて、店のマスターの背後にずらりと並んでいる酒瓶に視線を注いでいる。
男の視線からはプロフィールしか見えないが、歳の頃なら三十過ぎか、ミディアムボブの髪形にきりっとした眉毛、通った鼻筋にルージュが似合っている。
中でも神田清太郎の目を引き付けているのは、落ち着いたベージュのツーピースを粋に着こなし、豊かな胸を想像させる胸元、きゅっと引き締まったウエストライン、スカートから覗いているすらりとした脚。
清太郎は女が見られているのに気付くのを避けるため、手元に置いている読みかけの小説に眼鏡の縁を指でいじりながらしばしば目を落としている。そして隙を見ては目の角で女を見つめるのである。
女は誰か男を待っている様子はない。その証拠に、時計を見る仕草は一切していない。それに清太郎がおよそ四十分前に巣としているバーOKADAに入った時に、すでに女は今座っている止まり木に独りで腰を下ろしていた。
あるいは女は男と一緒にバーに入ったが、男が急用か何かで先に帰ったのかも知れない。
そう思いを巡らせていると、女はゆっくりとカクテルをルージュの口元に運び、口を潤す程度に飲み、グラスを静かにコースターの上に置いた。
そして、おもむろに立ち上がり、マスターにチェックを頼んだ。
背丈を思ったより高く見せているのは白いハイヒールのようだ。
女はカウンターの上に紙に書いて差し出された金額を見て、釣りは要らないと言い、紙幣を置いて店を出て行った。
店にはテーブル席に昔で言う社用族のサラリーマン風のグループがいるだけだった。
「マスター、あの女は?」
岡田がニヤリとした表情で清太郎を見つめた。
「神田さんもお好きですね」
「いや、そういう意味じゃなくってね、余り見かけない顔だからさ」
清太郎は照れ隠し気味に言った。
「その通り、初めてですよ。この店」
それにしてもいい女だと喉まで出かかった言葉を飲み込んで、清太郎は新しいスコッチの水割りを頼んだ。
「彼女はずっと独りで飲んでいたの?」
「ええ、独りでしたよ」スコッチを作りながら岡田が答えた。
「何だろうね。カクテル一杯で結構長い時間居ただろ?」
「そうですね。まあ、最近女性でもお独り様が流行っているようですからね」
清太郎は新しい水割りをグッと飲んで店を出ようとした。
「今夜はえらくお早いですね」
「うん、今制作中の絵があるんだ」
「毎度有難うございます」
マスターの岡田は料金を受け取り、清太郎をドアの外まで送り出した。
もう初夏なのに、夜風が冷たい。
どうせ帰っても誰が待っているわけじゃない。もう一軒寄って帰ろう。
清太郎は駅に続く飲み屋街を少し歩いて、馴染みのスナックに顔を出した。
ドアを開けると、清太郎はあっと驚いた。先ほどの女がカウンターに座っており、ドアの音で振り返り、清太郎と目を合わせたのだった。
「いらっしゃい! しばらくぶりじゃない? どっかで浮気してるの?」ママが笑みをたたえて清太郎を迎えた。
店はママとその女だけだった。しかも、二人の会話からして、女はそこも初めての客のようである。
「神ちゃん、いつもの?」
「ああ」
ママがジェントルマン・ジャックの水割りを作った。
「きれいな方でしょ、こちら。どうしたらそんなにきれいになれるのかって、さっきから聞いていたのよ」
「何をおっしゃいますやら!」
清太郎は初めて女が発する声を聞いた。おとなしいだけじゃなく、結構喋り慣れている感じがする。女はここでもカクテルを注文していた。
「それで、その美容液はお高いんでしょ?」
ママがビールを飲みながら女に尋ねている。女がママに奢ったのだろう。
「あ、ごめん。紹介が遅れちゃった。この男前は、神田清太郎さん。四十半ばにもなって、まだ花の独身を貫いている絵描きさんよ。そして、この美人は後藤マリさん。そうでしたよね? さっきお名刺いただいたばっかりなので間違ったら大変だわ」
ママはカウンターに置かれた名刺を急いで確認した。
「神田です。よろしく。さっき、バーOKADAにおられましたよね。お隣に座ってらっしゃいましたよ」
マリはちょっと驚いたような顔をした。
「そうでしたか。わたし全然気づかなかった。失礼しました」
マリが軽く頭を垂れた。
「いえいえ、何をおっしゃる」
「さあ、さあ、とりあえずこの素敵な出会いに乾杯しましょうよ。乾杯!」
ママの音頭で三人がグラスを持ち上げた。
乾杯が終わり、マリは清太郎に声を掛けた。
「神田さんは画家でいらっしゃるの?」
清太郎は頭を掻いた。
「ええ、売れない画家です」
ママが援軍を出した。
「神ちゃんはね、公募展なんかで何回も入賞してるの。業界では結構有名なのよ」
「そうですか。それはスゴイですねぇ」
マリはカクテルグラスを持って、また口を潤す程度に飲んだ。
スナックも閉店し、清太郎はマリと共にJRの最寄り駅に向かって歩いたが、もうとっくに終電の時刻は過ぎていた。
「タクシーで送りますよ」
酔いの頭で清太郎は声をかけた。
「いえ、この近くのホテルに泊まっていますから、歩きます」
「いや、この時間、この辺りは物騒ですから、乗って行きなさい」
そう言って、駅前にたった一台停まっているタクシーの窓をたたいた。
「すみません。ではお言葉に甘えて」
先に降りるからとマリはあとで乗り、行先を運転手に告げた。
「ホテルGですか。あそこはいいホテルですよね」
清太郎の声に、マリはにっこりと頷いた。
マリをホテル前で降ろし、清太郎は自宅に向かった。途中、上着のポケットからマリからもらった名刺を後部座席の薄暗いライトの下で眺めた。住所は地方の中堅都市だった。
日が経っても清太郎の頭からマリのことが離れない。絵筆を持っていても、制作中の作品に集中できないほどだ。
あのミディアムボブの髪形。きりっとした眉毛。通った鼻筋。悩ましい唇。ウエストライン。すらりとした脚。ひとつひとつ彼女の姿が浮かんでは消える。
清太郎は二階のアトリエの窓を開けて、腕を伸ばして深呼吸をした。姿こそ見えないが、鳥のさえずりが聞こえる。窓からはこじんまりした庭が見える。
その季節はシャクナゲが赤と白の混じった派手な花を一杯つけている。清太郎はシャクナゲの花でマリの黒髪を飾ったら、どんな感じになるだろうかと想像してみた。
マリと初めて出会った日の翌日、電話で交わした会話が蘇る。
「昨日はね、夫が商談で都会に出て来たから、わたしついて行ったの。昼間は独りでブティックを回ってドレスを二着買ったわ。夜は夜で、夫は付き合いがあるから、わたし独りで飲みに出かけていたってわけ。そこであなたと出会ったのよ」
マリの愛らしい声が伝わって来る。
「ご主人は都会に来て仕事をし、その度君もついて来るってわけなのかい?」
「最近は特に多くなったわ。金利の関係で、住宅関連は今好況なの。だから夫の仕事も増えて、田舎から出張が多いのよ」
「もしよければ、そのたびに会えないか? 付き合うよ」
清太郎は本音で尋ねた。
「ええ、いいわよ。あなたのよく行く店に連れてって」
そして当日、またマリと会える日がやって来たのだ。
清太郎はシャクナゲの花を一瞥すると窓を閉めて、鼻歌まじりでコーヒーを沸かし始めた。今夜は果たして彼女とどんな夜になるのだろう。そう思うだけで胸がワクワクして来る。出来上がったコーヒーをブラックで飲みながら、アトリエのソファに座り、夜に想いを馳せた。
その夜、街の中心部にあるレストランで待ち合わせていた。
時間通りにマリは現れた。今夜はシックなドレスを着こなしている。首からはエメラルドのネックレスが光り、お揃いのイアリングが耳を飾っている。
「こんばんわ。いいレストランで食事が出来て嬉しいわ」
マリはそう言いながら、ボーイの介添えで清太郎の向かいに腰を下ろした。
清太郎はコース料理に合わせてワインを注文し、テイスティングをしたあとで注がれたワイングラスで乾杯した。
「このあとは何処へ連れてっていただけるのかしら」
食事を口に運びながら、マリは清太郎に目をやった。
「こないだ行ったバーやスナックより、もうちょっと上等なところに行こう。そこでお酒を楽しみながら、色々と話そう。どうだい?」
「あら、わたしはバーOKADAでもいいわよ。落ち着けるし」
「今夜はボクのお勧めのところに行こう」
本当はOKADAの方が、料金がはるかに安くてよかったのに、そこはマリの手前、男としていい恰好を見せたかったのだった。
マリを連れて行ったのはビルの最上階にある個室専用のラウンジだった。窓からは煌めく大都会の夜景が眼下に広がっている。二人はカクテルを注文し、しばし夜景に黙って見入っていた。
清太郎の胸には先ほどからマリへの願い事が去来している。でも、それを言った途端、マリは怒って席を立つかもしれない。
そう思うと、話し出すことが出来ない。だけど、話さなければ何も先に進まない。
黙りこくったままの清太郎にマリは気付く。
「一体どうしたの。何か……?」
清太郎はゴクンと唾を飲み込む。カッと頭に血が上る。
「あのう、モデルになってくれないかな?」
マリの表情の変化が恐ろしく、目を一瞬閉じて下を向いた。やはり無理なのだろう。
「ええ、いいわよ」
清太郎は耳を疑った。
「えっ? 何と言った?」
薄っすら目を開けると、マリの笑顔があった。
「モデルになってもいいと言ったのよ」
清太郎、これは本当に現実なのかとまだ疑っている。職業柄今までモデルをデッサンしたことは数限りない。でも、親しくなったばかりのマリにお願いするのは、折角育ち始めている二人の関係を一気に破壊してしまうリスクがあると、清太郎なりに思っていたのだ。
清太郎は山で言えば六合目辺りまで登ったような感じだった。まだ八合目、頂上には至っていない。そう思いながら、改めてマリの表情を窺った。マリは清太郎を見つめ、次の言葉を待っているようだった。
「あのう、確認だけど、モデルというのは……」
「ヌードでしょ? 画家がモデルと言えば、大体相場が決まってるわ」ケロっとしてマリが言った。
「それはそうなんだけど……」
清太郎は思わずポケットからハンカチを取り出して額の汗を拭った。
「……実はわたし、ヌードモデルはニ、三回したことがあるのよ。叔父さんが画家なんで」
清太郎はマリのちっとも臆することのない様子を見て、却って恥ずかしくなった。
「わたし、叔父さんの前で裸になるの、最初は凄く緊張もし、恥ずかしい思いがあったわ。だって親戚じゃない? けれど、叔父さんから画家にとって裸婦というのは造形美術の勉強の基本だし、骨格や筋肉、手足のバランスとか日常の生活では気付かないものが見えるし、裸婦と画家は造形芸術作品を共同で目指すパートナー同士だと言われ、確かにそうだと納得したのよ。だから、脱いだの」
清太郎はマリの絵に対する理解に感心していた。
「本当はね、叔父さんはその時モデルを雇うお金がなかったのよ。わたしそれを知っていたから、叔父さんを助けてあげるつもりだったの」
マリはペロリと舌を出して微笑んだ。
「ありがとう。ボクは勿論モデル料はきちんと支払わせてもらうから安心して。それじゃ、いつ来てもらえるかな?」
案ずるよりも産むがやすし、清太郎はホッと安堵の溜息をついた。
マリが清太郎のアトリエにやって来た日は、朝からあいにくの天候になった。
アトリエの窓のカーテンは閉じられ、激しい雨音だけが聞こえていた。部屋はデッサンに適した採光がなされ、温度もマリが寒がらないように設定されている。
マリは座位で少し斜めの角度で、長い黒髪を両腕で掻き上げるポーズをとったり、腕をダランと降ろしたりしながら、清太郎の要求を素直に聞いている。
ポーズが決まり、清太郎は改めてマリの裸体を見つめていた。胸の豊かさは想像以上だ。乳首はピンと立ち、乳房のボリュームも谷間が隠れてしまうほど張り切っている。少し開脚した太ももの間からは黒々とした茂みが覗いている。
清太郎は心の中だけ男の顔を覗かせて、その茂みの奥を覗いてみたい気を必死に抑えていた。
マリは数回のモデル経験があるだけに少しは慣れているせいなのか、魅力的な脚線美を使った身体表現能力には目を見張るものがあった。
清太郎は鉛筆を握り、キャンバスに座位の裸婦を描き始めた。
張り詰めて描いていたせいか、相当強かったはずの雨音も殆ど気付かないまま、休憩を挟みながらのデッサン作業が終わった。
マリは服を着て、清太郎のデッサン画を見つめた。
「どういう画風か画調になるのかしら」
「どちらか言うと、写実主義的な方かな」
「そう、だったらモデルがわたしってわかるかもね」
「そこまで行くかどうかはお楽しみってとこかな」
清太郎はそう言って笑った。
マリは閉じられた窓のカーテンを少し開いて外を眺めた。
「あら、シャクナゲだわ。一杯咲いている。さっきまで気付かなかったわ。雨によく映えるわね。あなた、シャクナゲの花言葉って知ってる?」
「いや」
「危険とか警戒よ。葉に毒があるの。それに昔は高山の山奥にしかなかったから、採るのは命がけだったからそんな花言葉になったらしいわ。高嶺の花とも呼ばれるわね」
「君は花に詳しいねぇ」
そう言いながら、マリの黒髪をシャクナゲの花で飾ったらどんな感じになるだろうかと想像したことを思い出した。
マリは俺にとっては高嶺の花なのか。危険な、警戒すべき女なのか。いや、花言葉なんて当てにならない。
清太郎はシャクナゲの咲く庭を眺めるマリの横顔に見入っていた。
デッサンを描き切った清太郎は、絵の具を持ち出して絵画制作を開始していた。デッサン画を描いた時のマリの裸体は鮮明に清太郎の意識の中に入り込んでいる。
ピンと立った乳首の赤み。谷間が隠れてしまうほど張り切っている豊かな乳房。開脚した太ももの間から覗いていた黒々とした茂み。長い髪を両腕で掻き上げた時に覗いたうなじの美しさと色気。潤んだ瞳。腰から尻にかけての曲線美。どれをとっても、玄人女としか肉体関係のなかった清太郎にしてみれば、素人女の醸し出す強烈な色気の前にへたり込んでしまいそうだ。
清太郎はますますマリのことが好きになっていくのだった。
翌週、清太郎は夫の仕事を口実に都会にやって来たマリを電話で中心街にある噴水広場に呼び出した。初夏の太陽が照り付け、木洩れ日が広場に置かれたテーブルに煌めいている。
マリは紺のワンピースに白いベルトを締めて、テーブルの椅子に座って腕時計を見ている。
清太郎は遅刻して現れた。
「ごめん、呼び出しておいて。何か頼んだかい」
「いいえ、まだよ」
マリは近くを通りがかったウェイターに手を挙げ、二人一緒にソフトドリンクを注文した。
「今日は君にお願い事があるんだ。モデルの件と言い、君にお願いばかりして申し訳ないけど」
「何かしら、お願いって」
「うん、ちょっと待ってくれ」
「何よ、勿体ぶって」
マリが顔をしかめた。
「いや、いざと言うと、言葉にならなくってさ」
そう言うと、清太郎はポケットからハンカチを取り出して汗を拭った。
「はっきりしないわね、あなたって。男らしくないわ」
清太郎はその言葉に引っかかった。
「ちょっと、その言葉きついんじゃないか」
クレームをつけるような言葉がたやすく出てしまうほど、何度も出会ううちに二人は親しくなっていた。
「怒ったのね。わたし、優柔不断の人嫌いなの!」
マリはさっとテーブルから立って、自分のドリンク代を置いて帰
ろうとした。清太郎は慌ててマリを捕まえて、もう一度テーブルに
座らせた。
「まあ待ってくれよ。ボクが悪かった。ただ、ボクが君にお願いすることは、とってもリキが要ることなのさ、ヌードモデルのお願いの時もね。あの時は君が素直に引き受けてくれたから、驚いたけど」
清太郎を見つめる彼女のこめかみに青筋が浮き上がっていた。
「……そんなに怖い顔するなよ。謝っているんだからさぁ」
周りのテーブルから二人の揉める姿を見られているのではないかと、清太郎は見渡してみたが、気付いた人はいなかったようだ。
「だったら、そのリキが要ることを早く言ってみてよ」
「うん」
清太郎はこれ以上優柔不断な姿を見せれば、マリは今度こそ帰ってしまうと思い、やっと腹をくくった。
「マリ、ボクと結婚して欲しい」
マリは何とも言えない表情をして、首を傾げていた。
「わたし既婚者よ。結婚だなんて……」
清太郎は拝むように彼女を見つめていた。
「君に会ってから、ボクの心の中には君しかいない。毎晩君の夢を見る。ボクの人生の中で初めてのことだ」
マリは顔をしかめながら清太郎を見つめている。
「あなたは自分の立場からしかものを言ってないわ。そんなこと言われても、ハイハイと答えられると思うの? 旦那がいるのよ、わたし」
「だったら別れてくれ、お願いだ」
清太郎は頭を垂れた。気分的に土下座の手前まで行った。
「何言ってるの! そんなに聞き分けのない人とはもう付き合わないから」
「ヌードモデルにまでなってくれたじゃないか」
「それとこれとは全然中身が違うでしょ? わからない人ね。もうわたし帰る!」
マリは足早に去ろうとしたが、清太郎は前に立ちはだかった。
「人を呼ぶわよ!」
彼女は鋭い目で清太郎を睨みつけた。
「わかった。ボクが悪かった。謝るから、今日は付き合ってくれ。お願いだ」
マリはどうするか迷っている様だった。
「わがままは止めてちょうだいよ。今度困らせたら絶交よ!」
清太郎は場所を変えて、何とか彼女の不機嫌を直そうと、バーOKADAに向かった。夜の帳が降りるまでは大分と時間があるが、マスターに無理をいい、早めに店を開けてもらうことになった。バーの準備が出来るまで、近くの喫茶店でコーヒーを飲んだ。
「失礼な言い方かも知れないけど、君はご主人を愛しているの?」
マリは清太郎の目を見た。
「ええ、愛してるわ」
「そうか。いや、そうだろうなあ。不動産業だったね、ご主人は」
「わたしたち、歳はまあまあ離れてるの」
彼女の不機嫌はもうだいぶマシのようだ。清太郎はホッとしていた。
「五十代だったね、ご主人」
「ええ」
「子供さんはいないの?」
「いないわ。旦那が子供嫌いだから」
彼女は至極当然のように答えた。
「でも、ご主人とはこれからもずっと一緒にということだよな」
「教会の結婚式で司祭が言うじゃない? 神の前に進み出た新郎新婦を前にして、お互いの生涯の愛の誓いを確かめる言葉よ。『死が二人を分かつまで』って。だから、生きてる限り、わたしはその誓いを守るつもりよ」
「君はクリスチャンなのかい?」
「そうじゃないけど、イギリスのロイヤル・ウェディングなんかで見たことがあったし、実際に自分がその立場になって見てグッと来たの。尤も旦那はどう感じたのか知らないけど」
「でも、それはあくまで建前だろ? 決まり文句でそう言われているに過ぎないだろ?」
「いいえ、わたしの中では今それが人生の指針のようになっているの」
これまで見たことのない別のマリを垣間見たような気がして、清太郎は心が揺れた。
「『死が二人を分かつまで』か。ある意味凄いな」
そう言いながら、清太郎はマリの中に潜む越えられないものの存在を感じていた。やはり高嶺の花か……。
それからはお互いに連絡をとることもなくなってしまった。清太郎が一体何を求めているのか、その魂胆があからさまになり、マリの固い信心が変わらない限り清太郎の希望は決して実現しないという冷気が突然流れ始め、二人のこれまでの気楽な物言いまでもが凍り付いて行った。
マリの夫の存在が清太郎の前に大きく立ちはだかっている。
しかし、清太郎の胸の内では、会わなければそれで済むというような生易しい気持はなかった。逆に会わないでいることが、清太郎の胸に留まるマリという女性の存在を肥大化させ、思い焦がれる胸をいっそう膨らませて行ったのである。
あのマリを死が分かつまで愛を誓わせた夫って一体どんな男だろう。清太郎は自分の目で確かめてみたい気持ちに駆られた。
よし、調べてみよう。先ずはパソコンのホームページに当たってみる。
マリからもらっている名刺には自宅住所に加え、夫の会社の住所も印刷されていた。株式会社後藤リアルエステート。社長・後藤誠。正面写真が掲載されている。この種の写真によくあるように、とにかく微笑んでいる。眉毛は太く、鼻柱が強そうで、目は眉毛に隠れるような感じで大きく、ちょっと達磨和尚を連想するイメージだ。頭は丸坊主で耳の縁に頭髪が残る。
年齢はアラカンぐらいか。とすれば、マリより三十歳ほど年長の感じ
だ。
株式会社後藤リアルエステート代表取締役社長の肩書の次には、月並みな通り一遍の挨拶文が記されている。業態、年商、都心部の不動産開発で売り上げを急激に伸ばしている云々。
俺の知りたいことは勿論こんなページには載っていない。とにかく一度本人に身近で会ってみたい。そのためには都会の出張の折、彼はどのホテルに泊まり、どこの料亭、クラブ、バーを利用するのかが知りたい。
マリとの間では、今や夫の話は禁句に近いものになったから、直接尋
ねるわけに行かない。
清太郎はある探偵事務所に足を運んだ。依頼内容は後藤の都会でのナイトライフである。調査費用は見積もりで少々値が張ることがわかったが、清太郎は直ぐに依頼をかけた。
一週間あまり経ったある日、探偵事務所から調査が終わったという連絡があり、清太郎は事務所に向かった。
応接室に案内され、調査報告書を渡された。清太郎は早速目を通すと、彼の贔屓の店、常連の店がリストアップされ、最近の訪問頻度と、店内での写真が添付されていた。
ある夜、清太郎は後藤が最近最も贔屓にしているという「響」というショットバーに行き、釣り糸を垂れた。ショットバーと言っても、本格的なバーで、マスターとバーテンの身なりも高級感を醸し出している。BGMもモダンジャズが耳に心地よい程度の音量で、部屋全体が音響システム化されているように感じる。会話の調子から、客はやはり常連が多そうだ。
清太郎は好みのウオッカマティーニを注文した。彼の好きな007の映画で主役のジェームズ・ボンドがオーダーするマティーニだ。映画の中で、シェイクはするが、ステアはしないで、と必ずボンドが注文を付けるのがミソである。
清太郎はバーテンがカクテルをシェイクする一流のスタイルを目の当たりにしながら、後藤が果たして今夜現れるかどうかを気にし、腕時計を見た。
午後十時を回った頃、後藤は独りで現れた。料金の高い店なのに、ほぼ満員の盛況ぶりである。カウンターの一番端っこが辛うじて空いていたので、後藤はそちらの止まり木に腰を掛けた。
マスターが飛んで行き、後藤に声を掛けている。カウンターの真ん中の席が空けば、すぐご案内しますとでも言ってご機嫌を取っているのだろう。
清太郎の目的は後藤と知り合うことではない。たとえ遠目であっても、マリの夫が、どのような態度や顔つきで人に接する人物なのかという人間ウォッチングであり、マリと共に死が分かつまでの愛を誓った男とは一体どんな人物なのかを自分の目で確かめてみるという作業である。
後藤は隣の席にいる年配の男とグラスを合わせ、話し、笑っている。頭に室内のライトが反射し、輝いている。
後藤は話を中断し、マスターに大きく手を挙げて呼んだ。
「君ね、今夜は客が多いからね、BGMは少し音量を上げたらどうなんだ。せっかくの音楽が聞こえないんじゃBGMじゃない。バック・グラウンド・ミュージックだから、ちゃんと聞こえなくっちゃな。高い料金取るんだから、目配りはちゃんとせんと。君らプロだろ?」
マスターの態度はまるで殿様に額づく家来といった感じである。
直ぐに音量の調節に走った。
後藤は再び隣の男と話し始め、また高笑いでご機嫌の様子である。
そこに黄色のドレスを着た如何にもラウンジ嬢といった感じの若い女が店に入って来た。後藤が見つけ、手を振って招いている。
マスターがそれに気づき、目を白黒させている。女を案内する席がないのだ。
後藤の二つ隣に座っていた中年男がその辺の事情を巧みに読み取って、席を立った。
「マスター、帰るよ」
マスターはまず空いた席に女性を案内し、席を譲った男に感謝して、伝票を持って支払いを受けながら、バーテンに指示して女の注文を聞かせていた。
後藤と話していた隣の席の男は、後藤と女が隣同士になるように席を譲り、後藤は若い女の手を取って、頬にキスをした。女は後藤の手を握り、身体をすり寄せて甘えるふりをしている。ひょっとしたら後藤はその若い相手と不倫の間柄で、何処かにマンションの一室でも買ってやっているのかも知れないと清太郎は想像をたくましくしていた。
そのうち後藤は若い女と手に手を取って響を出た。清太郎は二人に気づかれないように跡をつけた。二人は笑いながらすぐ近くにあるラブホテルに入って行った。
清太郎は後藤という男がどういう男なのか、これである程度その正体を見たような気がした。
出張に同伴した妻を接待で忙しいと追い払い、妻を独りぼっちで酒場に放り出す男。
死が二人を分かつまでという永遠の愛を誓い、それを生涯守ろうとする貞淑な妻を裏切り、若い女と不倫し、不動産バブルのあぶく銭で快楽を貪っている男。
マリはこんなハレンチな裏切り男のために永遠の愛の誓いを守ろうとし、こんなにマリを愛している俺とは結婚出来ないと言う。一体そんな理不尽がまかり通っていいのか。
清太郎はマリに対する熱い想いで胸を焦がしながら、後藤に対する敵愾心を増幅させて行った。
国本征一は清太郎の大阪の小学校時代の同級生である。家庭環境が複雑だったこともあり、高校時代にぐれ始め、いつの間にか一端の暴力団組員になっていた。他の組との抗争事件で発生した殺人未遂事件で逮捕され、懲役七年の刑で服役したことがある。
出所後、小学校卒業とともに東京に引っ越していた清太郎を頼って金の無心に来たことが何度かあった。そのたびに、清太郎は幼馴染みのよしみもあり、借金の返済を当てにせず、付き合って来た。
その国本に清太郎はお返しをしてもらおうという気になっていた。
清太郎は国本にアトリエ兼自宅に来てもらい、話し込んだ。
国本はアトリエに裸婦の絵が壁に掛けてあるのに気付いた。
「えらいベッピンさんやなあ。いいオッパイしとる。お前、実際にこの美人を裸にして描いたのか」
国本は顎髭を撫でながらニヤリとした表情を清太郎に向けた。
「契約モデルの女さ」清太郎は素っ気なく言う。
「画家ってのは、こんなベッピンさんの裸を拝んで絵を描いて、あとは何処かでやらせてもらうんか。ええなぁ」
清太郎は国本のいつもの下衆な言い方が気に障った。
「おい、おい。バカな想像をするな! そんなことはないよ」
「隠すな、隠すな。俺だったら、こんな美人の裸を見た途端、押し倒してやっちゃうけどなあ」
国本はしげしげと絵の裸婦を見つめ、出されたビールを飲んだ。
彼は清太郎から持ち出された話に戻った。
「それにしても、お前その男を俺に殺してくれって?」
清太郎は黙って頷いた。
「やってくれるか?」
「やらんこともない。でも、これは高くつくぜ。わかってるだろうな?」
そう言って、国本は右手の指で円を作った。
「ブツは何を使う?」国本が尋ねた。
そんなことを俺に聞くか? 清太郎は面倒臭い男だと思った。
「お前何か持ってないのか?」
「チャカならあるぞ」
「銃か? とにかく手段はお前に任す。報酬は五百万だ。引き受けてくれるなら、今日この場で半分、前金を渡す」
「よし、決まった」国本が手をパンと叩いた。
「そうと決まったら、お前に色々ターゲットの情報を与えるからな」
清太郎はデスクの上に後藤の住所などを書いたメモを広げた。
「それと、ホームページの写真では実際のターゲットの顔やら何やらの感じがよく掴めない。スナップ写真もあるが、そいつがよく行くバーにお前を連れて行くから、そこでうまい酒を飲みながら、よーくそのターゲットを観察して欲しい。それが条件だ」
「OK。うまい酒ならどこでも行くぜ。それにしてもいい女だなあ」
国本がまた目を絵の裸婦に転じた。絵を褒めているのではない。あくまで写真のような写実的な全裸の女が豊かなオッパイをさらし、陰毛を覗かせていることに興味があるのだ。
「さあ、これが前金だ」
清太郎は百万円の札束をふたつ、それに五十万円のキャッシュを封筒から出して見せた。
「よし、頂こう」
現金を確認した国本は、封筒に金を戻し、持参したリュックサックに封筒を入れて立ち上がった。
清太郎は再びバー響を訪れた。その夜は国本の都合で店に着いたのは十時半を回っていたが、週末でもあり店は満席に近かった。
ドアを開けて見ると、ちょうど二席空いていたので座ろうとしたら、マスターがストップをかけた。
「お客さん、申し訳ありませんが、当店にはドレスコードがありまして、こちらの方はご入店をお断りさせて頂きます」
マスターは国本が睨みつけているのに一瞬ひるんだが、あくまでもドレスコードを盾に譲る気配はない。
「こら、おっさん、客に向かって何を御託並べているんや。さっさと中へ入れんかい!」
国本が凄みを効かせた。
揉め事が店内にも伝わり、高級なスーツを着込んだ面々が一斉に視線を国本に向けた。
「マスター、硬いこと言わんと入ってもらったらどうや。皆さん、週末を楽しみたいんやからなぁ」
たしなめたのは、何と後藤だった。上客の後藤からそう言われれば、従わないわけには行かない。マスターは渋々二人を席に案内した。
「どうも有難うございました」
清太郎は後藤に礼を言って、名刺を差し出した。
「ほう、絵を描かれるんですか」
後藤はちらりと国本を見て、二人に握手を求めた。二人は太い指のがっちりした手を握った。
「あの男だよ、ターゲットは……」
席に着いた清太郎は国本に耳打ちした。
国本は頷きながら後藤を繫々と眺めた。
「OK.頭に入ったぞ」
その声で後藤がこちらを見た。
清太郎は会釈し微笑みを後藤に返した。
国本は早速殺人の準備に取り掛かった。長い間鍵付きの引き出しにしまい込んでいた拳銃と銃弾、それにサイレンサーを取り出して磨き、実際に銃弾を拳銃に装填してみて、不具合がないか調べた。
昔鍛えた拳銃の腕に鈍りはないか試しておかなくちゃ。国本は人が滅多に分け入らない山奥まで登山の真似事をして出かけ、実弾射撃で腕を確かめた。
地方都市にある後藤の邸にも足を運び、周りの環境を確かめ、逃走経路などを決めた。後藤の地元での行動は、清太郎が探偵事務所に依頼して得た関連資料を渡した。
それらを基に国本は後藤の在宅率の最も高いと考えられる日を決行日に選んだ。
決行日の後藤の邸付近はどんよりとした曇天が朝から垂れ込めていた。むんむんする蒸し暑さが空気を生暖かくしている。梅雨が近い。
国本は既に調べておいた後藤邸近くの駐車場に車を入れて、手袋をし、徒歩で邸に向かった。周りには豪邸が並び、人影は全くない。
後藤という天然石の表札が掲げられた大きな門構えの住宅の裏に回り、連なる石垣の一角に足を載せ、グイッと腕の力で石垣を越えて庭の隅に降り立った。竹藪の隙間から築山の脇にある障子部屋を見ると、人影が動いていた。
国本はホルダーから拳銃を抜いて、そろりと障子部屋に足を近づけた。
突然部屋の中でガチャンという大きな音がした。大きな壺でも倒れて割れたような音だった。国本は一瞬ひるみ、姿勢を低くして銃口を人影に向けた。
部屋ではバタバタと人が動く音がしていた。割れた壺のかけらを集めて処分しているのだろうか。
部屋の中の人物が確かに後藤だと確信が持てないので、築山から部屋が覗ける方に行こうとした時だった。
「あなた誰ですの!」
築山の入り口にある竹網の木戸に女の姿があった。顔を見られたと思った瞬間、国本はサイレンサーを付けた拳銃を発射した。女がもんどり打って倒れたのを見て、近づいてその死を確認した上で、国本は築山を横断して白壁を乗り越え、必死の思いで邸から出て行った。
サイレンサーと言っても、完全な消音は無理で、音を下げるに過ぎない。部屋の中の人物の耳に入り、一体何の音なのかと確かめるべく走り出て来た。
「奥様! どうなさいました? 奥様!」
後藤家のお手伝いさんが裸足のまま庭に出て震えていた。
その頃国本は駐車場に停めてあった車に乗り、スピードを出して現場から逃げ去った。
呼ばれた救急車がサイレンを鳴らして後藤邸に到着し、警察車両まで横付けされて、日頃は閑静な住宅街は蜂の巣をつついたような騒ぎになった。後藤はその日会社に急用があり、不在だった。
国本はその足で清太郎のアトリエに着いた。清太郎は注文された絵の仕上げに余念がなかったが、車のエンジン音で筆を止め、ドアホン・カメラで外を覗いた。国本だ。もう済んだのか。俺はこれでマリと一緒になれるんだ。そう思い、胸が高鳴った。
玄関に走り、ドアを開けて国本を迎え入れた。
「お疲れさん。どうだい、うまく行ったかい?」
国本の顔は引き攣っていた。
「どうしたんだ。言ってみろ」
清太郎はアトリエのソファに国本を案内して話を待った。
「失敗だ。あいつはやれなかった」
「えっ、今日後藤は在宅じゃなかったのか?」
「あいつの姿はなかった」
「それで?」
はっきりしない国本に苛立ちを覚えた。
「俺、女に顔を見られたんだ。だからその女を殺しちまった」
「えっ、女!」
清太郎の脳裏にマリの顔が浮かんだ。
呆然としながらも、何かを凝視する国本の視線を追ったら、壁に掛かっている裸婦像だった。
「この女だ! 俺が殺しちまったのは!」
清太郎の顔からさっと血の気が引いた。
「お前、一体何ということをしてくれたんだ!」
清太郎は知らぬ間に国本の胸倉を両腕で強く掴み、睨みつけていた。
「離さんかい!」
国本が清太郎の腕を振りほどき、逆に睨みつけた。
清太郎はへなへなとソファの向かいにあった椅子に倒れ込み、白髪交じりの頭を抱えた。よりにもよって、死が俺とマリを分かってしまったのだ。
「まあ、そんなにがっかりするな。必ずあいつは殺してやるから」
そのうちに清太郎は大粒の涙を流して号泣し始めた。国本は何故清太郎が取り乱すのかわからず、理由を聞き出そうとした。
「もうあいつなんかどうでもいい! もうこれで全てが終わったんだ!」
泣き崩れる清太郎を前にして、国本は為す術を知らなかった。
ようやく泣き止んだ清太郎に国本が話しかけた。
「一体どうしたんだ。訳を話してくれ」
清太郎はぐったりした感じで、黙ったまま日頃吸わない煙草を引き出しから取り出し、火をつけた。紫煙が辺りに広がった。
「……後藤なんか、もうどうでもいい」
「何だって! お前はあいつを殺してくれと言ったじゃないか」
清太郎は煙草をくわえたまま、頭を抱えた。
「もう終わってしまったんだ。俺はお前が殺してしまった女と結婚するために、後藤を消してくれと頼んだんだ。だから終わったんだよ」
「何だと! 俺はそこまで聞いてないぞ」
「そこまでいう必要はないだろ。お前が俺の言う通りにしてくれれば、うまく行ったんだから……」
「おい! 約束の金はどうなるんだ! あと半分残ってるぞ!」
国本は身を乗り出して清太郎に迫った。
「金はやるから、もう帰ってくれ」
金を受け取り、国本は謝意を頷きで示して帰って行った。
夕方、新聞を見ると、事件が報道されていた。
不動産王の妻殺害さる。富裕層を狙った強盗の居直り殺人か。
清太郎は三面記事に大きく扱われている事件の詳報を食い入るように見つめた。
やはり、マリが死んだことは間違いなかった。
死が二人を分かつまで、というマリが繰り返し言った言葉が脳裏を掠めていた。
清太郎の胸に、マリとの二人だけの時間が走馬灯のように浮かんでは消えた。
マリの告別式は大々的に執り行われた。それは後藤の人間関係の広さを表していた。殺人事件の犠牲者の葬儀とあって、警察関係者も遠巻きに葬儀を見守っている。事件の首謀者として逮捕される恐れさえあるのに、マリに別れを告げようと清太郎は敢えて葬儀に足を運んだ。きょろきょろすると挙動不審などと疑われると思い、出来るだけ平静を装っていた。
自分が企画した殺人計画で間違って最も大切な人を失ってしまったことは、いくら悔いても悔い過ぎることはなかった。
一般の焼香の列に加わった清太郎はマリの遺影の前に進み出て、手を合わせた。マリの黒髪にシャクナゲの花を飾るという妄想は、花言葉と結びついてこんな形で危険な現実になるとは思いもしなかった。
遺影は在りし日の微笑みを湛えて、清太郎を見つめているような気がした。さようなら、マリ。
焼香が終わり、帰ろうとすると、警察の関係者が歩み寄って来た。何事かと緊張して足がすくんだが、参列者には全て尋ねていることと言われ、マリとの関係を尋ねられた。
「いや、わたしはご主人と時々同じ店でご一緒するので、奥様の焼香に参りました」と咄嗟に答え、警察は直ぐに解放してくれた。
事件の捜査で警察は最初の目撃者であるお手伝いさんから当時の状況を真っ先に聴取した。
「わたし、その直前に和室を掃除していました。その時誤って床の間に飾ってあった壺を引っかけて壊してしまったのです。ああ、ご主人と奥様に大目玉を食らうと思いながら、割れた壺を片づけていたんです。その時に余り聞いたことのない鈍い音が耳に飛び込んで来て不安になりました。それで、音がしたと思われる庭に急いで見たら、築山の入り口あたりに奥様が倒れてらして、びっくりして救急車を呼びました」
「その時誰か見かけませんでしたか」
「いいえ、誰も……」
「何か他に気づかれたことは」
「いえ、今も申しました通り、壺の片付けに没頭していましたから」
警察は当然後藤からも聴取する。
「奥様は誰かに恨まれたりするようなことはありましたか」
「いいえ、妻に限ってそんなことはこれっぽっちもありません」
「失礼ですが、どなたか付き合っていた男性のお心当たりは?」
「不倫なんてとんでもない! わたしら夫婦は愛し合っておりました。死ぬまでは決して別れないって、結婚式の時に司祭の前で固く永遠の愛の誓いを致しました。わたしも妻も不倫なんてこと絶対にあり得ません!」
「このように大邸宅にお住まいなんですから、当然巨額の資産をお持ちなわけです。資産関係でトラブルは?」
「ありません。第一わたしも、妻も一人っ子ですし、親戚付きあいもありませんし……」
鑑識は後藤邸内外の指紋検出、遺留品捜査に全力を挙げた。
「犯人は手袋してますね。邸内の指紋は旦那さんと奥さん、それにお手伝いさんのだけです。庭などからも不審な指紋は今のところ出てません」
捜査一課長は捜査会議で檄を飛ばした。
「とにかくもう一度現場から洗い直せ。それに近所の聞き込みも徹底的に行うこと。きっと何か手掛かりがあるはずだ!」
それからひと月が経った。
すっかり人生の拠り所をなくしてしまった清太郎は、注文を受けた絵にも身が入らず、少し描いてはアトリエの窓を開けて煙草を吸った。日に日に吸う本数が増えている。
煙草の火をもみ消している時に玄関のドアホンが鳴った。
覗き穴から見ると、国本だった。あいつ何しに来やがったのか。
ドアを開けると、さっと足を出してドアを閉められないようにした。
「久しぶりだな」国本がニヤリと笑った。
「一体何の用だ」
「まあ、アトリエに入れてくれ。ここだと人目につくからな」
国本は辺りを見渡しながら、上がり込んで来た。
アトリエのソファに座ると、国本はテーブルに置かれてあった煙草のケースから一本取り出し、自分のライターで火をつけた。紫煙がさっと辺りに広がった。
「何の用だ」
清太郎は顔をしかめて同じ質問を繰り返した。
「チャカの弾からどうも足がついたらしい。警察が俺を嗅ぎ回っている。長いこと使ってなかったから珍しい弾だというのを忘れてたんだ」
国本は煙草を吸い、煙を吐き出した。
「俺は追われる身になった。だから逃走資金が欲しい」
「何を言い出すかと思えば、また金か。二度に分けてたっぷりやっただろう」
「あれでは足りない。どれだけ逃げ続けなきゃならないのかもわからないからな」
そう言って、国本は清太郎を睨みつけた。
「もうお前にやる金はない!」
清太郎は睨み返した。
「いいのか、俺がゲロしても。お前はどう見ても事件の首謀者だぜ」
国本の笑みに、清太郎は唇を噛んだ。
「早くしてくれ。同じところにじっとしてたらパクられちまうぜ」
「金はないと言っただろ!」
清太郎は吐き出すように言った。
国本はバッグから何かを取り出した。あのサイレンサーが付いた拳銃だった。
「俺にこれを使わせるな!」
そう言って、銃口を清太郎に向けた。清太郎は心臓が縮む思いだった。
「今は現金がない。駅前のATMまで行かないとな」
清太郎は応じるようなふりを見せた。
「だったら行こうじゃないか。俺と一緒に」
国本は銃口で玄関の方を指し示した。
「ちょっと待ってくれ。小便だ」
清太郎はトイレに向かった。
トイレに行くふりをして、台所にあるキッチンナイフを後ろ手に隠し持った。
「おい、まだか?」
国本がイラついて来ている。清太郎はわざと大きな音でトイレのドアを閉めた。もう出てくると国本が安心した次の瞬間だった。清太郎はキッチンナイフで国本の背中に切りつけた。
悲鳴を上げて国本は床に倒れ込んだ。
「お前なんかに一生付きまとわれるなんて御免被る!」
清太郎はうつ伏せになって倒れた国本の背中をもう一度思い切り刺した。血しぶきが辺りに飛び散った。国本は即死した。
清太郎はソファに倒れ込んで、荒い息を吐いていた。
夜の帳が降りた頃、清太郎は国本の遺体を寝袋に詰め込んで、ガレージまで運んだ。トランクを開け遺体を放り入れ、納屋から特大スコップを持ち出して、積み込んで車を走らせた。
山道で車を転がしているうちに激しく雨が降り出した。ワイパーが効かないほどの大雨が一度に降った。雷鳴がとどろき、舗装が切れた山道の両側にある木々が稲光に照らされ、踊っているように見えた。
清太郎は車を停め、雨が止むのをじっと待った。持参した懐中電灯の光で腕時計を見ると、時刻は夜の九時を回っていた。もう二時間近くも走り続けて来たことになる。
そのうち雨は小降りになり、清太郎は辺りを懐中電灯で照らしてみた。山道の片側にある斜面がえぐれたようになっているところがあった。その下あたりは草が繁茂しており、試しにスコップで掘り進むと激しい雨で地面が柔らかくなり、結構な深さの穴が掘れることがわかった。清太郎は掘り出した穴に遺体の入った寝袋を放り込み、上から必死に土をかぶせて行った。
ある夜、清太郎は久しぶりにバー響を訪れた。相も変わらず店は背広族でほぼ満員状態だった。カウンターの空席に座り、ウオッカマティーニを注文した。
「お客さん、何回か来られたことがありますね。007の好物を注文されたから思い出しました」
バーテンが微笑み、ウオッカとドライベルモットでベースを作ってシェイクが始まった。
「007の映画の台詞通りに『ステアはしない』でしたね」
そう言ってバーテンはカクテルグラスに注ぎ、レモン・ピールを絞りかけて、オリーブを飾り、清太郎の前に差し出した。
口をつけて「いや、さすがにプロの腕前だね」と清太郎は満足げな表情を浮かべた。
ドアが開いて後藤が姿を見せた。マリの告別式以来だ。今夜も前とは別の若い女を連れている。ドレスや化粧から見て、クラブかラウンジの女だ。
「お待ちしておりました」
マスターが二人にすり寄って、指定席と書かれたプレートを取り去り、着席を促した。
腰を落ち着けた途端、後藤は若い女の唇にキスをして、肩に手を回した。女も後藤の頬に口づけし、抱きついて微笑んでいる。
死が二人を分かつ前から全く変わらない後藤の姿に、清太郎はマリを想像して義憤さえ覚えた。
後藤が清太郎に気づき、微笑んで手を振った。
「その節はありがとうございました」
清太郎は軽く会釈をした。
「こないだのお連れさんは、今夜は来られない?」
「ええ、ちょっと用事がありまして」
閻魔大王に呼ばれたのです、と心の中で呟いた。
「あっ、そうそう。あなたは絵描きさんでしたな」
「そうですが……?」
「いやね、わたし絵が欲しいんですよ。でも、都会のギャラリー筋はわたしの最も不得手な分野でしてな。絵心もありません。ですから一度ね、お宅の描かれた絵を拝見して、気に入ったのがあれば、購入したいんですよ」
「それは有難うございます。一度拙宅のアトリエまでご足労いただいてご覧いただければと思います。ところで、どういう絵がお好みですか。ボクはどちらかと言いますと写実的な画風なんですがね」
「家の寝室に飾りたいんです。裸婦なんかいいですね」
後藤はそう言ってニヤリと笑った。
裸婦か。直ぐにマリの裸体画が浮かんだ。
清太郎と後藤はそれぞれの手帳を出して日程を決めた。
後藤が絵を見にやって来る日が来た。開け放したアトリエの窓辺から見えるアメリカハナミズキの花が庭を吹き渡る風にそよいでいた。マリがヌードモデルを終えて見下ろしたあのシャクナゲの花はもう枯れてしまっている。
清太郎はマリをモデルにした裸体画を後藤に見せるべきかどうか迷っていた。在りし日のマリが快く脱いでくれて仕上がった、今では俺の唯一とも言える彼女の記念の絵だ。これが後藤家の寝室を飾ることになれば、いたたまれないような気がした。
あんな色欲の権化みたいな不倫男の寝室をマリの聖なる裸体画が飾るなんて許せない。
見せないでおこうと思ったものの、振り返ればわざわざ無名に近い俺の絵を買おうと、一度見てみたいとまで言う奇特な客などいやしない。どうせあいつは資産家だ。ふんだくってやろう。
しかし見せるにしても、あの絵はやっぱり手元に置いておきたい。常識をはるかに超えるような額を提示すれば、きっと買うのを諦めるに違いない。
あれこれと思案するうちに、黒塗りの大型車が清太郎の自宅に横付けされた。
運転手が走って後部のドアを開け、後藤が車を降りた。
窓からその光景を眺めていた清太郎は階段を駆け下り、玄関のドアを開けた。
「ようこそお越しを。むさくるしいところですが……」
後藤は秘書と共に清太郎に二階に案内された。アトリエには数点の裸婦の絵が審判を待っていた。まるで買われて行くのを待つ飾り窓の女だ。清太郎にはそんな気がした。
「なるほど、なるほど」
後藤は絵を一点ずつ見ながら頷いた。そしてある絵の前で立ち止まった。
「ううん、これはいい! わたしの美的感覚にピッタリの絵だ」
マリをモデルにした裸婦の絵だった。自分で描けた最高の裸婦像と自負していたマリの裸体画を、この男は選ぼうとしている。それはそれで画家冥利に尽きることなのだが、事はそう簡単ではない。
「神田さん、これ頂きます。おいくらでしょうか」
これまで国本に無心され、返って来なかった金を含めて、清太郎は頭の中の算盤を弾いていた。マリをこれまで通り身近に置いておくために、思いっきり吹っ掛けてやろう。
秘書をちらりと見ながら、清太郎は金額を後藤に耳打ちした。
「ああ、結構です」
後藤は秘書に金額を告げて、その場で小切手を切るように命じた。
しまった! 諦めると思い、一般には目の飛び出るような金額を吹っ掛けたのに、あいつは買うという。これでは引っ込みがつかない。
後藤は買うことになった裸体画を、目を細めながら眺めている。
「何か、亡くなった女房に似たところがあるなぁ」
後藤が漏らした。
「そうですか。偶然ですかね」
清太郎は後藤が一体何を感じ始めたのか気になり、じっと表情の動きに目を凝らしていた。
「神田さんだから言いますがね、顔が似ているのは勿論、この乳房の出っ張り加減ですね。女房はこんな風に谷間が見えなくなるほどボリュームのある立派な胸をしてました。それと、この左腹のホクロです。女房にもあるんですよ」
後藤は何か感づいたのだろうか。清太郎は唾を飲み込んだ。
「絵と言いますのは現実とはまた違う空間で展開する観念的な空間の産物です。作品というのは現実ではありません」
清太郎は汗を押さえながらやっとそう言った。
後藤が絵から目を離し、清太郎を見つめた。
「そうでしょうなあ。作品というものはね。わかりました。それじゃ失礼します。絵は今週中にでも自宅の方に届けておいてください。手伝いの女性が居りますから」
秘書から小切手を受け取った清太郎は、後藤を玄関まで送り出した。
「えらいお茶も出しませんで」
清太郎が後藤に頭を下げた。
後藤が帰ったあとで、清太郎は受け取った小切手をつくづく眺めた。
金のためとは言え、俺はマリを売り飛ばしてしまった。そう思うと、本当に大切なものを失ったという喪失感が現実のものとなり、清太郎の心の中に渦巻いた。
俺は何てことをしてしまったんだ! あんな不倫ばっかりしている嘘っぱち野郎にマリを取られてしまった! 俺のマリを!
山中の林道で道路の改良工事が始まっていた。それは清太郎が国本の遺体を埋めたあの林道で、片側の斜面から土砂が林道に流れ出さないようにするための工事だった。重機で掘り起こされた土の中から国本の遺体が掘り出されて、現場は騒然となった。警察が駆けつけ、捜査が始まった。
清太郎は昼のテレビニュースで国本の遺体が見つかったことを知り、心に戦慄が走った。
不動産王の妻が銃で殺害された事件で使用された特殊な弾丸の所有者が国本であり、容疑者として追われていた国本が今度は遺体で発見されたのだ。司法解剖の結果、国本はナイフ様の刃物で背中二か所を刺され、一か所の傷が致命傷となったことがわかった。
勿論この内容は捜査上の秘密であり、公表されていない。
警察は殺害事件の容疑者・国本に共犯がおり、実行犯である国本の口封じのために首謀者の人物が国本を殺害したものとみて、捜査が行われていた。
清太郎は家の納屋に放置してあったキッチンナイフを始末する必要に迫られ、ある夜、近くに流れる川に放り捨てた。
後藤は届けられた裸体画をベッドルームの壁に掛けた。
それにしても、と後藤には心に引っかかっていることがあった。壁に
掛かった裸婦像をもう一度じっくりと見てみた。
女房がまるで生き返ったようだ。豊か過ぎる胸。胸から腹そして太ももに至る曲線美。左腹にあるホクロ。顔の感じも女房そのものである。
あの神田とかいう都会暮らしの絵描きは、マリが俺と出張中に知り合い、男と女の関係になって、あいつの前で裸を曝したのではなかろうか。
しかし、まさか。でも、あいつの描き方は写実主義とか何とか言っていた。写実だから対象をそのまま描き出すんだろう。そのくらいは俺でもわかる。マリは本当にあいつの前で脱いだのだろうか。
そうこうしているうちに二人の刑事が後藤を訪ねて来た。その後の事件の推移を報告しがてら、さらに後藤から思い出したことでもないかどうか探りに来たのである。
後藤はその裸体画のことを刑事に話した。そして刑事をベッドルームに案内した。
「これは亡くなった奥さんがモデルですよね?」
絵に見入っている二人の刑事が異口同音に尋ねた。
「やはり、あなたがたもそう思われますか」
「勿論お身体の方は存じ上げませんが、お顔がそっくりですね。これは誰が描かれたんですか。ご主人?」
「いやいや、わたしじゃありません。この絵は神田という画家から買ったんです」
「神田? 名前は何という人でしょう」
「ちょっと待って下さい。名刺がありますから」
後藤は名刺入れを探した。
「神田清太郎ですね」
刑事は手帳に書き留め、直ぐに捜査本部に電話を入れた。
「神田清太郎。住所は……」
刑事は名刺からの情報を捜査本部に送った。
「刑事さん、何か出ますかね?」後藤が尋ねた。
「神田という画家が殺された奥さんをモデルにした絵という可能性もあります。念のため確認させてもらいます」
暫くして、捜査本部から刑事に連絡が入った。
「何っ! 国本の小学生の同期に同姓同名の人物がいるって!」
刑事同士が鋭い目で頷き合った。
「後藤さん、今からこの男にうちの出先の刑事が回って確認を入れますので」
清太郎が二階の窓辺で庭を眺めながら煙草を吸っていると、一台の車が家の前に停まり、男が二人降りて来た。何か辺りを探っているような表情だ。直ぐにドアホンが鳴った。
二人の男は警察手帳を見せた。
「神田清太郎さんですね。少しお話を聞きたいので、署までご同行願えますかな」
清太郎はギクリとしたが、努めて平静を装いながら身支度をした。
署の取調室で清太郎は容疑をきっぱり否認した。容疑というのは、国本の殺害と、後藤マリの殺害に関してである。
「あんたと国本が共謀して後藤マリさんを殺害したんだろ?」
「そんなこと知りませんよ。大体国本なんて小学校以来会ってません」
「じゃあ、あんたのアトリエから国本の指紋が出たのはどう説明するんだ。それに、出し忘れたと思われるゴミ袋の中から煙草の吸殻が出て来た。DNA検査で国本が吸ったものとわかっているぞ」
清太郎は下を向いて黙り込んでしまった。
「国本は後藤マリさん殺害の実行犯として指名手配寸前に殺害された。あんたと国本の関係ははっきりしているし、仲間割れか何かで国本を殺害したんじゃないのか。あんたと後藤マリさんの関係もわかって来た。あんたが後藤さんに売った絵のモデルはマリさんと瓜二つだ。マリさんが裸になれるほど、あんたと彼女は深い関係にあったことを示唆している。マリさんをモデルに絵を描いたんだな? どうなんだ!」
刑事は声を荒げ、デスクをドンと思い切り叩いた。
「わたしは後藤マリなんて女知りませんよ。モデルに雇ったこともない。刑事さんは推測で物を言っている。証拠を見せてくださいよ!」
何とか自供を引き出そうとする捜査側と否認する清太郎のせめぎ合いが続いた。
しかし、連日の取り調べの中で嘘を暴かれ、状況証拠で追い詰められた清太郎はアトリエの床から国本の血痕が採取されるなどしたため自暴自棄になり、とうとう容疑を少しずつ認め始めた。
好きになり、求婚した後藤マリに、夫の後藤誠と死別しない限り結婚は出来ないと言われ、幼馴染みの国本に後藤誠殺しを依頼したと供述した。
しかし、国本が誤ってマリを殺害してしまったこと。さらに国本が犯行を公にすると脅し、金を要求したため、アトリエで国本をキッチンナイフで刺殺し、遺体を寝袋に入れて山中の林道脇に埋めたことなどを自白した。
凶器に使われたキッチンナイフは清太郎の自供通り、近くの川底から発見された。
いつも何かある度に二階のアトリエの窓辺に佇み、移り変わる季節を忘れずに咲く庭の花々や風景を眺め、絵の構想を練り、マリへの愛に身を焦がしていた清太郎も起訴され、今や窓ひとつない独房の中で運命の判決を待つ身となってしまった。
ある夜、後藤はいつものようにバー響で酔わせたクラブの若い女を、独り暮らしになった邸に連れ帰った。居間で酒をさらに飲ませてから、ベッドルームに連れ込んだ。若い女は少し眠そうだったが、クラブ用の派手なドレスそれにブラジャーとパンティを次々に脱いで、一糸纏わぬ姿でベッドの中に潜り込んだ。
後藤もネクタイを外し、背広を脱いで女を抱き締めた。乳房を揉み、乳首を吸って、へその下まで舐め回し、よがる女と合体した。
真夜中になり、女が目を覚まし、部屋の灯りを付けた途端、悲鳴を上げた。
「何だ! どうしたんだ!」
目をこすりながら起き上がった後藤も思わず身体を反らせ、身震いした。
壁に掛かっている裸体画の女の身体のあちこちから血のような赤い液体がポタポタ垂れていた。
あの後藤ならきっとマリ亡き邸の寝室に女を連れ帰るに違いない。後藤と女に対し、マリに代わって鉄槌を下してやりたい。全く子供じみた行為だが、それが俺に出来る精一杯の反抗だ。
取り調べで清太郎は、後藤に絵を売らざるを得なくなったので、裸体画から赤い液体が浸み出す仕掛けを思いつき、それを仕掛けてから絵を売ったと供述した。
了
死が二人を分つまで 安江俊明 @tyty
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