第35話 冬は終わりを告げて

 一年前の『ミミズク』にて、黒木に尋ねた時の事を神尾はまだ鮮明に覚えている。

「以前仰っていた…ボスへの借りとはなんなのでしょうか?」

 店内を覆う香ばしい匂いはすっかり身体や衣服に纏わり付き、自分では感じられない程に染みついていた。

 暖かい珈琲を飲んでいると、雪化粧した街を散々歩いて凍えた事もすっかり昔のように思える。

「その事か…それは」

 黒木は露骨に言葉に窮した。

「秘密…にさせてくれないかな」

「ええ、無理に聞き出したりなんてできませんし」

 ありがとう、と呟く彼の眉間には皺が寄っていた。まずいことを訊いてしまったのかと不安がっていると彼は徐に話し始めた。

「人生にはね、自分がどんなに頭を捻っても身体を動かしても乗り越えられないような問題を、他人が易々と解決するなんて事があるのさ」

 は、はぁと神尾は頷いた。

「俺にとっては君や御嶋がそうだった。でも御嶋や君にとっては俺がそうなのかもしれないね」

 つまり、とそこまで言ってまた間が出来た。その哀愁さすら漂う表情から、彼の中で精一杯言葉を選んでいることが窺えた。

「俺がどうしても選べなかった事を、あいつは簡単にできたんだ」

 それはまるで罪を独白するかのように、今にも消え入りそうな声だった。

「嫌なら話さなくて大丈夫ですからね」

「いいや、墓にまで持って行くにはあまりに情けない話だから…ここで勝手ながら供養させてもらうよ」

「むしろこちらからお願いしていますから全然気にしないで下さい」

 それでは、と神尾は珈琲を一口啜り居住まいを正して、両手を膝の上に置いた。

「いつでもどうぞ」

「あぁ、ありがとう」

 黒木は観念したように目を閉じ溜め息を吐いた。

「家内だ。うちの奥さんの事だよ」

「あっ、あの綺麗な」

「会ったことあったかい?」

「はい、初めてここに来た帰りにすれ違って。少しだけ話しました」

「そうだったのか、妻とは大学で出会ってね。俺達と趣味が合ったからよく三人で行動していたんだ」

 昔ボスが言っていたバンドのことだろうかと神尾は勘繰ったが訊かないでおいた。

「そのうち…まぁなんだ、惚れた腫れたの話になったわけだ」

 彼が照れくさそうにそう言ったものだから、神尾も少し上気した。

「言ってしまえばあいつが身を引いたって話だよ。あいつは俺に自分の気持ちを悟らせることなく譲ったんだ」

 あいつも彼女を好いていたのに気づいたのはずっと後だったよ、そう言って彼は遠くを見るような顔をした。

「あの時は悔しかったな」

「悔しい、ですか?」

「分からない、他にも色々な感情が取り巻いていたかもしれない。あいつに譲られた劣等感とか罪悪感とか、にも関わらず妻と一緒にいられることへの多幸感とかね」

「それは…複雑ですね」

 自分だったらどうしていただろうか、と考えただけでも胃がキュッと絞まるようだった。

「この事って奥さんは知っているのですか?」

「ずっと一緒に居た俺でも気づけなかったんだからきっと知らないと思う。ま、当時は怖くて聞けなかったし今更聞くこともしないさ。御嶋の為にもね」

 それがいいです、と神尾は頷いた。 

「詳しい話は分かりませんが黒木さんを選んだのは奥さんですよね、だから気にする事なんて一切ないですよ。きっと」

「ありがとう。と言いたいが俺が最も気にしてるのは御嶋の事だよ」

「ボスの?」

「あいつと付き合ってからというもの浮いた話の一つも聞かん。最初で最後のチャンスを俺に受け渡した、なんてことになったら寝覚めが悪いでしょ?」

「確かに、そういう素振りを見せたことはないですね」

 神尾は苦笑いで答えた。

「まぁあいつには家庭の事情もあったからな…家族を持ちたくないのかもしれない。幸せの形は人それぞれだし、あいつが思う幸せを享受してくれればそれでいいんだが」

「それもきっと大丈夫ですよ」

 胸を張って言う神尾に黒木は意外そうな顔をした。

「いっつも呑気にやってますし、もし恋をするにしても悪い人ではないのでいつか良い人が見つかります」

「だといいが」黒木は苦笑した。「最初に君と来た時は本当に驚いたよ。女っ気がないあいつがまさか未成年と、なんてさ」

「今はもう成人済みですよ」

「おっと、それはそれは。参ったな」

「あ、いえ深い意味はなくて」

 神尾は胸の前に両腕を伸ばし、制止するように振った。

「ああ、さっき君が言ったように選ぶのは神尾ちゃんだよ」

「ああもう、変なこと言わないでください」

 七和町の冬はよく冷えると言うのに、しばらくぽかぽかと暖かかった事を神尾は鮮明に覚えている。

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一日の始まりと世界の終わりを一杯の珈琲と共に 大藤佐紀 @eiyoshi

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