第34話 最後の客
昼食の後は御嶋と何を話すでもなく、あくまでいつも通りを過ごした。あまり意識して肩肘張っても疲れるだけだと思ったからだ。
「あれ、こういう時って菓子折とか用意するものなんですか?」
ふと、読んでいた本から顔を上げて神尾は言った。
「いやバイトだしなぁ。律儀な奴は持ってくるのかもしれんが」
「…今買ってきましょうか」
いい、いいと御嶋は首を振った。
「ところでお前、今日は何読んでるんだ?」
「向木呑先生の新作です」
考える素振りを見せた後御嶋は気づいたようだった。「ああ、倉橋さんか」
断酒によってスランプに陥ったと本人は自覚しているそうだが、神尾からすれば巧拙の変化は気づきようのないレベルであった。ただ、以前よりも作品のジャンルは絞られていることに関しては未だに読者の間で憶測が飛び交っている。
「最近ずっと忙しそうですよね」
「そうだな、俺もお前も何回アイデアの相談を受けたことか。これが酒に飲まれれば一瞬で閃くっていうんだから不思議なもんだ」
「そうですが、それでも止めてくれて良かったです。依存症にでもなったら大変ですから」
話しているうちに時計の短針が1を指したのでまかないの食器を片付けた。七和町での母の味とももうお別れかと、こびり付いたルーを落としながら名残惜しくなった。
「次に倉橋さんが来たらよろしく言っておいてください」
「そうするよ、彼女も凄く寂しがりそうだ」
も、というと?と訊くと御嶋は身体をギクリと震わせた。
「そりゃあれだ、山田さんだって寂しそうにしてたじゃないか」
「ふーん。まぁ確かに?」
なんだその目は、と呟くなり御嶋は視線を店の窓の方に移した。どうやら休憩終わりのタイミング良く客が来たらしい。
「いらっしゃ、お前か」
「よ。俺の方から遊びに来てやったというのに失礼な言い方だな」
店の扉を開け、真っ直ぐにカウンター席に腰を下ろしたのは御嶋の古き友人である黒木だった。
「友達に仕事してる姿見せるのって恥ずかしいだろ、なんか」
「よくミミズクに来るお前が言うかねそれ」
会話の邪魔にならないようサッとメニュー表を置いたが、黒木は礼を言って受け取った。
「こんにちは」
「え、ええ。こんにちは」
御嶋に秘密で一人ミミズクに行った手前、微かな気まずさを神尾は感じていた。その事に触れるべきか、はたまた向こうは触れてくるのか。今度は自分が事務所に籠もりたいと、精一杯作った笑顔の裏で考えていた。
「神尾ちゃん、もうすぐ地元の方に帰るんだって?」
「そうなんです」
「よくこんな奴に四年も付き合ってくれたなぁ」黒木は快活に笑った。「俺からもお礼を言うよ」
「いえとんでもない、お世話になったのは私の方なので」
「俺を差し置いて話すんじゃない」
「まぁまぁ。マスターには珈琲でも淹れてきて貰おうか。あとはカルボナーラ」
そうして御嶋はぼやきながら厨房へ消えていった。
「さっきは冗談半分に聞こえたかもしれないけど、君には本当に感謝してるんだ」
ただ四年アルバイトをしていただけです、とも言えず神尾は次の言葉を待った。
「御嶋には幸せになって欲しいんだ。そうならなければ不公平だし、何より俺が苦しい」
「…あぁ、奥さんの事…」
一年前、ミミズクで黒木から聞いた昔話が克明に思い出される。あの日の黒木は過ぎ去りし青春の郷愁に浸るような、そんな表情でいろいろな話をしてくれた。
「でもきっとボスはそんなに気にしてないですよ。猫みたいに自由気ままに過ごしていますし」
欠伸ばっかりしているんですよ。と二人で笑っていると御嶋が珈琲を持ってやってきた。
「なんだ、また俺の悪口か」
「いえ全く」
御嶋は珍しく真剣な目をして、黒木を見つめていた。
「あー。すまんがちょっと聞こえてた」首の裏を掻きながら続けた。「あのな黒木、俺は全く気にしちゃいない。寧ろ俺が逃げたんだ。この形が一番理想的なんだ」
「御嶋…」
「俺にはきっと彼女を幸せに出来なかっただろうが、お前は苦もなくやれているんだろ?」
まぁ飲めよと黒木の元にカップを置いて、御嶋は溜め息をついた。
「それよりなんでこの子に話したんだ」
「そ、それは私が聞いたんです。黒木さんは悪くないです」
いや、と黒木は神尾の言葉を遮った。
「俺は多分誰かに聞いて欲しかったんだ。神尾ちゃんが聞き上手だからついな」
もう一度、御嶋は溜め息をついたが今度は微笑んでいるように見えた。
「なんせうちの看板娘だからな」
もうすぐパスタが茹で上がる頃かな、と彼は残し再び厨房へ消えていった。
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