第33話 寂寥
「えっと、おはようございます」
それは神尾が既に大学を卒業し、地元に帰る直前のことだった。彼女が別れを惜しむ気持ちに苛まれながら裏口から店に入ると、
「ああ…おつかれ」
いつもは眠そうにしている御嶋が一人珍しく店開けの準備をしていたようだった。
「はい、手伝いますよ」
明かりをつけて机や床を拭いて表札を裏返す、そんな普段通りのことを一通り済ませると御嶋がセレクトしたBGMがささやかに流れ始めた。店内に活気が宿るようだと神尾は思った。
作業を終えた二人が自然と厨房に集まると僅かに沈黙が流れて、御嶋がそんな重い空気を遮るように言った。
「今日で最後か」
「そうですね」
「ま、いつも通りやるだけだな」
「…そうですね」
おいおい、と御嶋は右手で徐に顎を撫でた。
「湿気た顔をするんじゃない、明日で世界が終わるわけじゃないだろ」
「だってボスが寂しいって言うから」
「言ってない」
「寂しくないんですか?」
「お前なぁ」御嶋は嘆息した。「向こうで座ってなさい、珈琲淹れてやるから」
神尾は素直に従ったものの、テーブルの上に両手を置いて、指を交互に組んだり手のひら同士で擦ったりしながら、最後なのだから自分がボスに淹れてあげたかったと一人後悔した。
「でもあの人、最後だから自分がって言いそうだしなぁ」
「何か言ったか」
やがて、カップを持った御嶋が神尾の前に座った。
「いーえ、最後は私が淹れてあげたかったなぁと」
「最後だから淹れてやるさ…どうした?」
「なんでもないです」
談笑しているうちに開店時間を迎え、御嶋は裏へ引っ込んだ。シフトのある日は店番はすっかり神尾の役割となっていた。御嶋は裏にいる間勉強をしているのだと前に聞いたが具体的に何について学んでいるのか、ついに知ることはなかった。
「最後でもいつも通りやるだけ、か」
頬杖をしながら緩慢な時間の流れを感じる。外を悠々と駆け、草木を揺らす春風を窓から見ていると、四季とは春を楽しむ為にあるものだと感じてしまう。それ程までに人や自然に活気ある季節は美しく見えた。
とは言え変わらない景色ばかり見ていても退屈で、最後だと意識しているのに段々と瞼が重くなっていく。
本格的に意識を失いそうに、あるいは既に失っていたかもしれない。とにかくそんな頃に入り口のベルが突如鳴り響いて、神尾の意識は引き戻された。
「あぇ、いらっしゃいませ」よだれを垂らしていたかもしれないと口をサッと拭ってから店員の姿に戻った。「お好きな席へどうぞ」
神尾の目の前、カウンター席へと腰掛けた彼女は暖色系の花柄のワンピースに身を包んでいる。毎度の如くだが、その派手な出で立ちに神尾は舌を巻いた。
「おはようございます、山田さん」
「えぇ、おはよう」
猫マダムの山田は、彼女の愛猫「シャロちゃん」の一件以来足繁く店に通うようになっていた為、神尾がもうすぐここを発つことは既に知っていた。
「神尾ちゃん今日最後?」
「あ、はいそうです。店員として会えるのは今日が」
寂しくなるわねぇ、そう呟いて彼女はメニュー表に目を落とした。その表情には普段の彼女からは窺えない翳りがある。
「その、すみません」
「謝る事なんてないわよ」
次の瞬間には神尾の不安ごと振り払ってしまうかのような大らかな笑顔に切り替わった。
「ただずっと元気でいて欲しいわ、遠くにいるとそれが分からないでしょ?」
「はい、ですがずっと…というのは難しいかもしれません」
「真面目な子ねえ」
その後山田は注文したホットコーヒーを一口飲んで、息を吐いた。
「でも一番寂しがるのはやっぱり御嶋さんでしょうね」
手を口の横に当てながら少し声を潜めて、彼女はそう言った。珈琲を淹れた後、一向に表に出る気配のないボスはまたお勉強に戻ったのかと神尾は不思議がった。
「なんとなくだけどね、あの人昔よりも明るくなったと思うの」
「そうなんですか?」
「どう言えばいいのかしら、今も静かな人だけど昔は孤独な人って感じ?」
孤独…、そう心の中で呟いて反芻して、彼の人となりを知っている神尾は複雑な心持ちになった。「無理に明るく振る舞ってた、みたいな?」
「そう」山田は首をブンブンと振った。「前はそんな風に見えたわ」
「以外と不器用な方ですから」
二人は揃って笑った。
「きっと神尾ちゃんのおかげで変わったんだと私は思ってるわ」
「うーん、自覚はないです」
でも、と神尾は頬を掻きながら続けた。
「私の方こそお世話になりっぱなしでしたから。もしも今までで何か恩返し出来ていたのなら嬉しいですけど」
「大丈夫よ、きっと」
そう言う彼女はどこか満足げだった。程なくして珈琲を飲み干し、財布を取り出した。
「さて、今日はもう行かなくちゃなの」
「何かご予定があるんですね」
「そうなの、最後なのにごめんね」
札を受け取り、お釣りの小銭を手渡す。山田さんとはこのやり取りでさえもうすることは出来ないのか。そう感傷に浸ったために彼女が次に零した言葉を拾うことができなかった。
「あ、すみません何か言いました?」
「だからね、樋口さんとデートするのよ」
「え、デート?」
熱くなった目頭に驚きという冷水を思い切り浴びせられたようだった。二人がそんな仲に進展しているとは思いも寄らなかった。
「あの人奥手で誘っても中々来てくれないんだけどねー」
「お、お二人は付き合ってるのですか?」
山田はオホホと高らかに笑った。
「半分は冗談よ。私が一方的にアタックしているだけだもの」
「ま、まぁっ」
「きっとあの人、まだ昔の奥さんに対する後ろめたさとかがあるのよね」
「はぁ…ちょっとびっくりですが上手くいくと良いですね」
ありがとう、と言う山田の表情はあまりに恍惚としている。恋に年齢は関係ないとは言うがここまで妙齢の少女のような瞳が出来るのかと神尾は脱帽した。
「それじゃ、お母さん良くなると良いわね、神尾ちゃんも元気でね!」
「あ、はい。またいつか!」
そうして店内には再びの静寂が訪れた。
「出会いも別れも嵐のような人だったな…」
「ああ、最後のは爆弾発言が過ぎたな」
「あ、ボス。いつの間に」
振り返ると御嶋が腕を組んで頷いていた。どうやら二人の恋の話は彼の耳にも届いていなかったらしい。
「以前やんわりと聞いたことがあるがマダムの方も昔旦那を亡くしているらしい。ま、上手くいくといいな」
「二人とも猫好きなので大丈夫です、きっと」
「そういうものか?」御嶋は首を傾いだ。「そうだ、休憩入っていいぞ」
「ありがとうございます」
そういえば確かに腹の虫が鳴く時間になっていた。気づいた途端腹の底の方から体力がごっそり削られたような感覚に襲われる。
「そんな顔をするな。今は暇だしカレーでも作ってやろう」
「えへへ、ボス、今日は気前良いですね」
「多分俺はいつも良いぞ」
その後、出来上がるのを休憩室兼事務所で待つことにした。部屋の外からうっすらと聞こえる鍋の煮える音を聞きつつ、この部屋ももう見納めなのかと侘しい思いに駆られた。特に思い入れなどないはずなのにそれが不思議でならなかった。
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