第32話 まるで世界の終わりのような

 神尾が大学のため地元を離れてからは、神尾の母は残って一人で暮らしていた。幼い頃に父を遠ざけてしまった事への償いとして、神尾の成長の妨げを作らないことだけを考えて彼女は娘に尽くすように過ごしていた。それは娘が地元を離れてからも変わることなく、一人で生計を立てているにもかかわらず仕送りの額にも妥協はなかった。

 母の苦労を遠くにいる神尾が気づくにはもう少し大人になる必要があった。彼女は世間知らずのお嬢様のようにこの世の常識に疎い部分がある。尤もそれこそ母の寵愛の顕れなのだが、今その寵愛が祟った。一人暮らし故に根を詰めて働いている身を案じてやれる存在はなく、病院に運ばれてようやく自分が危機に瀕していることを彼女は実感した。


 開店前の『Rコール』は冬の冷気を助長するかのように静かで、ひんやりとしていた。稼働を始めた暖房の音がおもむろに鳴り、神尾は冷めないうちにと珈琲を飲み干した。

「祖父母から事情を聞いて、なんて甘えて生きてきたんだろうって思って」

 片親ながら自分が蝶よ花よと育てられ、母の作り出す精一杯の幸せを享受してきたことに神尾は今になって気づいた。

「長期休みに帰った時だって、母が弱みを見せたり私に当たったりとか何にもなかったんです」

「前に離婚の事を話してくれたろう。きっとそのことが負い目だったに違いない」

「そんなの別に気にしてないのに。父親がいないくらい…」

 神尾はハッとした。

「ごめんなさいボス、そういうつもりじゃ」

「いいや、謝ることはない。今更親の愛が欲しかったなんて言う歳でもないからな」

 御嶋はひょうきんな笑いで返した。

「神尾、お前は愛されているな」

「それは…はい、そうだと思います」

「病状はどうなんだ?」

「詳しく聞いてはいませんが安静にしていれば大丈夫だそうです。もう無理はさせられません、祖父母と私とで助け合っていかなきゃ」

 それがいい、と御嶋は首肯した。

「残り短い間ですがよろしくお願いします、ボス」


 『Rコール』を後にし、大学で授業を受け、家路に着く。何度も繰り返した今が当然じゃなくなる。誰しもが経験する理不尽で避けようのない別れ、まるでそれは世界の終わりを味わっているかのようだった。この世で生きる人たちはどうやってそれに向き合っているのか神尾は理解しかねていた。七和町と、『Rコール』と、御嶋と、常連の客達と、今生の別れでなくとも当たり前だったそれらに寂寥の念が募っていく。 普段より足取りが重かった。冷えた鉛色の空の下、余計な妄想だけが悠々と広がっていく。

 仮に母が危篤でなかったら自分はどうしていただろうと、ふと不謹慎な考えが過って自己嫌悪した。そもそも今までここにいられたのはその母のおかげだというのに。

 気づけば橙色の光が神尾を、街を照らしていた。暖かくも薄暗い夜を迎え入れるための光。

「もうすぐお前ともお別れだ」

 公園で黄昏れているといつも彼はやってくる。ここに住み着いているようだが私が去ったらこの子はどうなるのだろう、ユウヒを撫でながら考えた。ユウヒの事も自分の今後も不明瞭だったが、どうかこの子は寂しい思いをしないようにと願った。

 

「おいおい、露骨に悲しそうな顔をするんじゃない」

 表札はOPENにしてあるはずだが客は誰もいない、平日の昼前だった。神尾は席に座ったまま、しょぼしょぼとする瞼を擦った。

「眠いだけです」

「お前、ふてぶてしくなったなぁ」

「乙女に向かって太いとか失礼ですよ」

 御嶋は嘆息しながらも口角を上げていた。

「そうだ、今更だが暇なときは珈琲の淹れ方を教えてやろう」

「え、嬉しいです」

 四年近く務めた神尾はここで初めて御嶋に師事した。神尾は食品に関しては企業秘密とばかり思っていたので自分から聞くことはなかったがそうではなかったらしい。

 緩やかに時間は過ぎていった。珈琲がフィルターを通して零れていく様を眺めていると苦みのある口惜しさがじわじわと広がっていく。ここまでを振り返ってみて、後悔があるようで反省点が浮かばない。過去もまた、漠然とした未来のように見通しの悪いものだった。

「料理の方はそれなりに器具や材料とかそれを場所も必要だが、珈琲だけなら割かしなんとかなるからな。実家で淹れてやると良い」

「珈琲用の道具も結構高そうなイメージですけど…」

「社会人からすればそうでもないさ」御嶋は首の裏を掻いた。「社会人はいいぞ、ここの倍は給料貰えるからな」

「ボスもどっかに務めてたことあるんですか?」

「あるとも、ここを開く前だな」

「…そうですか」

 二人はサーバーに溜まっていく珈琲から目を離さずにいた。 

「いいか神尾、大人になるってのは思ったより辛い事じゃないぞ。辛いことだってあるが逃げても良いし逃げられないことがあってもそれがずっと続くわけじゃない。何となくで生きてけるんだ」

「そうでしょうか」

「そうとも」

 苦いはずなのに、まるで珈琲のように安らぎのある暖かい言葉だと神尾は思った。

「帰ったら取り敢えず母に感謝を伝えて…あとは珈琲を淹れてあげたいです」

「そうするといい」

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