第31話 理解

「と言っても、どうして御嶋のことを知りたいんだ?」

「そう言われても…だって、長い付き合いなのに何も知らないって変じゃないですか」

 黒木はカップを撫でるように拭きながら神尾の言葉を受け止めた。神尾はあっ、と声を上げた。

「その仕草、ボスもよくやっています」

「そうか?もしかしたらウチの親父譲りかもね」

「修行時代の?」

「そうだよ、聞いたことある?」

「いえ全く」

 やれやれと言わんばかりに黒木は溜め息をつき、それから腰に手を当てて言った。

「言える範囲でなら何でも答えるけど…何から話せばいいのやら」

「お二人は中学生の頃に知り合ったんでしたっけ?」

「そう、あいつがこっちに引っ越してきてからだね」

「そこから聞きかせてください、お願いします」

 神尾は居住まいを正した。


 

 人の事を一つ理解すると新たな謎が一つ生まれる。ある人は親密になる為に謎を知りたがり、またある人は理解を得るために人と関わる。能動的なコミュニケーションとは往々にしてこういうものである。

 だが無情にも、人心理の追求過程で今まで組み立てたパズルが突如崩壊して、その人の事が何も分からなくなる事もまた、往々にしてある。人はこれを裏切りと呼ぶ。

 例えば御嶋の両親がそうである。家族全員が散り散りになるあの日まで、御嶋の視点から見ればごく普遍的な家庭だった。しかし実情は余りにも違い、両親は互いに引け目と怒りを抱き、しかしながら笑顔を貼り付けてお互いを見ていた。自分もまた裏切られていると露ほども知らずに。

 一家が供に過ごす間、両親の負の感情が御嶋に飛び火しなかったことは奇跡と呼べる。いや、それは曲がりなりにも両親の愛の形であった。しかしそれこそが最大の裏切りだと当の御嶋は受け取った。十年以上かけて理解していった両親とはなんだったのか、彼が見ていたのは平和な家庭は虚像に過ぎなかったのだと。

 人を知ろうとすると裏切られる、理解することは傷つくこと。これが誰しもに当てはまることはないと分かっていても、御嶋の身体の奥底の冷えた部分が今も他人をそう捉えている。だから理解されることを彼は拒んでいる。

 


 それからもう一年が過ぎた。

「おはようございます」

「ああ…おはよう」

 午前九時、いつもの通り神尾は『Rコール』に目覚めの一杯を飲みに来た。今日はバイトではなく学校の日なので、ゆっくりは出来ないという旨を、寝起きの腫れぼったい目を擦る御嶋に伝えた。冬は特に彼の寝覚めが悪い。

「くくく、学生は大変だ」

「ここだって最近繁盛してるじゃないですか。いただきますね」

 二人は窓際のテーブル席に向かい合って座った。このルーティンが四年も続こうとは二人も予想だにしなかったことだ。

「それがな」御嶋が欠伸をして言った。「どこかの看板娘がいないと客足が悪いんだ」

「そんなバカな」

「冗談だ、半分くらいは」

 もう半分に対して問いたださずに、神尾は俯いた。どうかしたのか、という風に御嶋は神尾の言葉を待った。

 不自然なくらいの間の後、神尾は呟いた。

「ねえボス、私がいなくなったら寂しいですか?」

「藪から棒だな」

 再び静寂が訪れて、刺すように二人を包んだ。愚鈍な空気が口から入って全身を支配し、身体を動かすことがなんとも億劫だった。

「そりゃ寂しいさ」

 御嶋はそれだけの言葉を絞り出すように口に出した。

「えへへ、そう言ってもらえて嬉しいです。ボスって普段何考えてるか分からないんですもん」

「失礼なやつだなぁ」

 空気が弛緩したと思いきや、神尾の物言いたげな表情を見つけて御嶋は尋ねた。

「言いたいことがあるのか?」

「言いたいことと言うか」神尾は俯いた。「言わなきゃいけないことと言うか」

 御嶋は黙って言葉を促した。

「その、大学卒業したら働かなきゃなんですけど、地元に戻らなきゃいけなくなって」

「…そうか。事情があるのか?」

「母が倒れたんです、今は祖父母が面倒見てくれてるらしいのですが…だから卒業したら戻って私が一緒にいなきゃ」

 いつの間にか神尾の声は上ずっていた。

「だから、もうすぐお別れです」

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一日の始まりと世界の終わりを一杯の珈琲と共に 大藤佐紀 @eiyoshi

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