ヒムカイバナ
〇鴉
日に向かう葵のきみ
天色の空に、雲の峰が押し寄せる、
薫る風が、太陽の熱を纏って、東の平野を吹き抜ける。
林地の奥にある、広大な地表を、鮮やかな黄の色が覆っていた。
誰がここに運んだか、元から在ったか、定かではないが、無数の向日葵が、花を咲かせていた。
東の空から昇りだした日に向かって、向日葵は次々と頭をもたげ始める。
暖かい風がそれを揺らして、隣り合った葉と葉が、さわさわと擦れる音が流れていく。
「ああ――今日も晴天でよかった」
揺れる向日葵の合間から、誰かの呟きが零れた。
無数の黄の色の中で、たった一輪、真っ直ぐと、東の空を見上げる花があった。
昇りかけの日の光を、一筋も残さず受け止めんとして、その花は花弁を広げ、葉を広げる。
「おてんとさま。おてんとさま。わたくしは、
やがて鮮烈になっていく夏の日差しを、全身に受け止めながら、一輪の向日葵は、心の底から愛おしそうに、呟いた。
この夏に開花してからというもの、その花は、天を司りし二柱神が片割れ、
来る日も、来る日も、目覚めの頃から眠りの頃まで、ひとときも首を下ろすことなく、崇高なるその姿を見つめ続けていることが、生き甲斐だった。
「初めて空を見上げたときにね、あの
『ほら、ほら、お
親が種子の奥に残した、声にならない声に揺り起こされ、その花が芽吹いたとき。
一番に見えたものは、目映い一閃だった。
次に感じたのは、身を焦がすような熱さだった。
それが何なのかを理解するよりも先に、遥か上空から、声が届いた。
『――日に向かう葵のきみ、――其の命、誇り高く謳歌しなさい』
微かな笑い声と共に、優しく囁かれたその声は、まだ寝惚けていた向日葵の生を、強く揺さぶり起こした。
それが初めての、“お天道様”への拝謁だった。
「あの御方の光はね、わたしの命に火を灯してくれるの。――あの御方の熱はね、わたしの命を燃やしてくれるの」
そのときから花は、
愛する
「あの御方が、お勤めをはたしにゆくのをね、見送るの。あの御方が、天高く昇るお姿をね、刹那さえ見逃したくないの」
その花は、朝が好きだった。
目覚めて一番に、愛する
周囲を囲む林の木々の先端から、その
その花は、昼が何よりも好きだった。
最も高く、最も尊い
最も高い場所から降り注がれる日差しが、一日のうちで最も強く、熱く、その身と心を焦がしてくれる、その
「ひとときも余すことなく、あなた様の下にいたいの。――わたしの愛しい御方。尊い御方。――本当なら、一日中でも、ひと夏中でも、あなた様の存在を、感じていたいの」
その花は、夕刻が嫌いだった。
一日の務めを終えて、西の空へ降りていく
その花は、夜が何よりも嫌いだった。
光が消え、熱が引き、冷えていく身と心に震えながら、眠りにつかなければならないその
「ああ――おてんとさま。わたしがこんなにも、あなた様に身も心も焼き焦がされて、あなた様を見つめていること――見えておられるのかしら?届いているかしら?」
遅くに起きてきた蝉達が、林の中から、じゃわじゃわと一斉に鳴きだす。
その音に紛れて、一輪の向日葵は独り言つ。
「おてんとさま。おてんとさま。――わたしはね、あなたが好きよ。生まれたときからずっと、あなたしか見えていないの。――あなたしか、ほしくないの」
何時しか、雲の峰が遠くへ流れ去り、薄雲が作った天頂への道を、日輪神はゆっくりとした歩みで昇っていた。
それをじっと見送りながら、一輪の向日葵は、深々と愛おしさを込めて、呟いた。
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文月はやがて、葉月に移りゆく。
来る日も、来る日も、その花は空を見上げ続ける。
空は常に天色の晴天とは限らず、雲が覆う日も、雨が降る日もあった。
しかし一輪の向日葵は、愛する
「いらない、いらない!――あの御方を遮るものなんて、いらない!――だれであろうと、空を覆わないで。あの御方を隠さないで!ああ――恨めしい、憎らしい!」
空を雲が覆えば雲を疎み、雨が降ろうものならば雨を恨み、雷が鳴り響けば負けじと叫んで、その花は、ただひたすら、晴天だけを願って、刹那も首を下さなかった。
何時しかその夏は、どうにも雨が降らない年だと囁かれるようになった。
水で潤されることがなく、夏の日差しに焼かれた下界は、徐々に乾いていった。
それは林地も、向日葵畑も同じで、草花達の中からぽつぽつと、萎れていくものが出始めていた。
例外なく、一輪の向日葵にも、同じ苦境が襲い掛かっていた。
それでもその花は、例え根が乾き、葉が萎れ、花弁が乾き始めても、ただ愚直に、日が動くだけの天色の空を見上げ続け、その身と心を焦がされることへの幸福の中にいた。
「おやめなさいよ。みっともない」
「神様が、あなたを見初めるわけないじゃないの」
「身の程知らずなことを願うのは、およしなさい」
数十日目の晴天の午後。
一面の黄の色の中で、呆れたような声が、あちこちでざわめいていた。
「お天道様は、遥か天界に住まう御方。誰も手なんて届きやしない」
「あちらはたった御一人の、
「惨めな、惨めな、ヒムカイバナ。身の程知らずのヒムカイバナ」
「毎日毎日、飽きもせず見上げて、馬鹿馬鹿しいとは思わないの」
咎めるように、諫めるように、ざわめきは徐々に大きくなり、一輪の向日葵を囲っていく。
「あたしたちは夏の花。夏の終わりに花を散らして、種を残すことが役目よ」
「それが草花の生。向日葵の生。それ以上の務めなんてないのよ」
嘲笑うように、案じるように、ざわめきは濃くなっていき、林の蝉の声さえも打ち消す。
「蝶も蜂も寄せ付けずに、手酷く追い返して。それでどうして種を残せるというの?」
「愚かな、愚かな、ヒムカイバナ。あなたは花の生に背いて、なにがしたいの?」
何時しか他の向日葵や、草花達は、その花を“ヒムカイバナ”と呼び、諭し、罵り、憐れみ、侮蔑していた。
くすくすという笑い声と、溜息の混ざるざわめきが、すぐ間近から聞こえてきても、“ヒムカイバナ”と呼ばれるようになったその花は、気にする素振りもなく、空を見上げていた。
「叶わない想いを抱いたまま、役目を果たさず、枯れていくつもりなの?」
「お天道様に恋慕していても、あなたの生には何も残らないわ」
「お
「――――」
ヒムカイバナとなじられるその花は、そんな物言いの数々もどこ吹く風で、今日も天頂から降りようとしている
「愚かな、愚かなヒムカイバナ。お天道様に恋慕した、愚かな花」
「哀れな、哀れな、ヒムカイバナ。叶わぬ相手に心を奪われた、哀れな花」
「持って生まれた務めも忘れて、恋に堕ちたヒムカイバナ」
「もうじき夏も終わるのに。いい加減に、目を覚ましなさい」
「これ以上、誇り高い花の生に、恥を上塗るのは、およしなさい」
「――なんとでも、言えばいいわ」
ざわめきを断つように、一輪の向日葵が、凛として言い放った。
「わたしの生は、初めて芽吹いたときから、あのひとのもの。――わたしの生には、あのひとしかいらないのよ」
強い意志のこもった、気高い声は、
「わたしの命は、あのひとの
その花は、毅然と言葉を続ける。
嘲笑われたことを怒るわけでも、哀れまれたことを見返すわけでもなかった。
ただ自身の中にのみ在り続ける、生きる意味を、今日まで共に暮らしてきた草花達に、語り続けた。
「この空の下で、最期の
一輪の向日葵の言葉に、周囲の向日葵や草花たちは、最早何も言うことはなかった。
だれもが口を閉ざし、言葉を返すことを諦めていた。
「ヒムカイバナ?――なんて素敵な名前かしら。
その花は、“ヒムカイバナ”の名を誇らしげに名乗り、枯れかけの葉を大きく広げる。
既に葉脈の中にも、茎の奥にも、乾きが侵食していて、本当ならば、立っていることも苦しくなっていた。
「おてんとさま、おてんとさま。わたしは――なんと言われても、どうと思われてもいいの。――いつまでも、いつまでも、あなた様を想っていますわ。――見つめていますわ」
そんな現実に目を背け、ヒムカイバナを名乗る一輪の向日葵は、ゆっくりと降りてゆく“お天道様”を、相も変わらず、愛おしげに見送り続けた。
**************************************
いつしか蝉の声も少なくなり、空には鱗雲が見え始めた頃。
林地の奥の花畑からは、黄の色が減っていた。
務めを果たした向日葵たちが、種を抱えて首を垂れ、満ち足りた様子で、次々と永い眠りについていった。
共に暮らしてきた仲間たちが、一輪、また一輪と、その生を終えて枯れていっても、ヒムカイバナと名付けられたその花だけは、乾いた葉を広げて、そこに立ち続けていた。
月明りも差さない、ある夜。
静かになった花畑の中心で、一輪の向日葵は、寒さに震えていた。
乾ききった表皮と葉が、あちこち破ける苦しさの中で、それよりも日の光を失った寂しさと、寒さを辛いと思いながら、朦朧としていた。
やがて意識が、深く、冷たい闇の中に落ちた頃。
「――おおい、おおい」
「そこのお前。起きろ、起きろ」
誰かに大きな声で呼ばれて、その花は、ゆっくりと視界を開けた。
そこは良く知った花畑ではなく、昼と夜が半々ずつ存在する、靄のかかった不思議な景色の中だった。
「――わたしを呼ぶのは、だれ?」
「俺たちだ」
その声を辿った先には、光り輝く巨大な入道雲と、それを取り囲む無数の雲があった。
「ひと騒がせな花め。よくも俺たちに、恨みつらみを向けてくれたな」
「おかげで雨もろくに降らせやしない。下界を見ただろう、みな乾き苦しんでいるじゃあないか」
「おかげで俺たちは務めを果たせなくて、
「空は常に晴天じゃあ成り立たないんだ。それを捻じ曲げやがって、なんて執念深い花だ」
雲たちは、縦横無尽に大きくなったり、小さくなったりしながら口々に、枯れかけの向日葵に向かって、へ文句を言い始める。
未だ覚めきらない意識の中で責め立てられているうちに、その花はこの夏の晴天続きが、自分の願いが通じてのことだったのだと、薄らと理解した。
やがて入道雲が「そこまで」と制したことで、辺りは静まり返った。
目映い光を背後に隠した入道雲が、こちらを見下ろして、厳かに問うてきた。
「向日葵よ。――己の命をも顧みぬほどの
一輪の向日葵は、干からびた花弁を微かに揺らして、自嘲めいた笑い声を零した。
「そんな畏れ多いこと、願ってなどいないわ。――わたしは、この生が終わるそのときまで、おてんとさまを見つめていられれば、満足だもの」
枯れかけた向日葵は、堅くなった茎を軋ませ、重くなった首を精一杯持ち上げて、入道雲を見上げ、凛然と言い切る。
目の前から注がれる、温かく柔らかい光に照らされていると、今まで覚えたことのない、穏やかな気持ちがこみ上げてきた。
「あぁ……でも、そうね。――もし、叶うのなら」
その穏やかさに解きほぐされるかのように、その花は、とつとつと言葉を続ける。
「もう一度だけ……もう一度だけ、
今の際に芽生えた、ささやかな願いを答えて、枯れかけの向日葵は細く溜息をついた。
気がつけば、見える景色がぼやけていて、よく見えなくなっていた。
「――何とも、不相応な願いを抱く花よな」
途絶え途絶えになっていく向日葵の言葉を、余すことなく聞き入れた入道雲は、深く、大きく溜息をついた。
「我らが
そして厳かな口ぶりでそう言い放ったかと思うと、入道雲は亀裂を走らせ、縦に割れた。
途端、穏やかだった光が、閃光に変わった。
「――そなたの願い、確かに聞きたもうた」
かろうじて見える世界を焼き尽くされる中、ふいに聞こえた声に、体が震えた。
「――――ああ……!」
それ以上の声が出せなくなっていると、目映い光の中で、確かに優しい微笑みが見えた。
こちらに伸びてくる手も、そっと花弁を撫でる指先も、確かに見えた。
「日に向かう葵のきみ――私の
「――――!」
初めて心を奪われた声が、優しく問いかけてくると、枯れかけていた根から茎に、熱が走る。
「ずっと、見ていたよ。そなたが私の、日々の務めを見届けてくれているのを。――ずっと、聞いていたよ。そなたが私を想ってくれている声を」
温かい手に、慈しむように頭を撫でられると、干からびていた花弁に、活力が沸いてくる。
「花の生を受けながら、不相応に一途で、いじらしいそなたを――このまま去らせてしまうのが、惜しくなってしまった」
「
そんな言葉を手向けられた、枯れかけの向日葵は、近付きすぎた日輪の熱によって、焼かれていた。
日を司る神の膝元で、一身に受け止めた光と熱は、炎となって花を包み込んでいた。
「おてんとさま、おてんとさま、――本当に、よろしいの?」
枯れかけていた体から、いよいよ命の一滴さえも消えていこうとする最中で、ヒムカイバナと呼ばれた一輪の向日葵は、喜びに満ちた声を零す。
「
轟々と音を立てる炎の中、もはや熱さも分からなくなった体の内には、これまで覚えたことのないほどに、強い鼓動が脈打っていた。今この命を生きんとして、躍動していた。
ずっと愛し続けてきた
「ああ――おいで、ヒムカイバナ。私の許で、いつまでも、いつまでも、私を見つめていておくれ」
生を受けた夏の間、ただ一途に愛し続けてきた“お天道様”の優しい声が、温もりが、燃え尽きて灰に変わろうとしていた体を、炎の代わりに覆った。
「あぁ――あぁ――なんてこと……なんていうことなの……!」
やがて炎が静まると、枯れかけていた一輪の向日葵は、日の光を受けて反射する青の葉を茂らせ、日の熱を受けて鮮やかに輝く、美しい黄の花をもつ姿へと変わっていた。
いつしか、見えなくなっていた視界は、鮮明にものが見えるようになっていた。
空の上の景色の中で、ヒムカイバナは、今一度、愛する
根のあった場所を包む手の温かさと、愛おしげにこちらを見つめる微笑みの眩しさに、体がはち切れてしまいそうなほどの幸福感を抱いて、一瞬、意識がくらりと揺れた。
「おてんとさま、おてんとさま、――嬉しい。――わたし、あなたを愛しているわ。これからもずっと、ずっと、愛しているわ」
歓喜に打ち震える声音からの、いじらしい言葉を聞き入れて、日輪神は満足そうに頷いた。
そしてヒムカイバナを連れて、雲たちが造った道を通って、空を降りていく。
神々が住まう天上界のうち、己が住まう地へと、帰っていった。
次の朝。
日の光は差さず、分厚い雲に覆われた地表は、久々に雨が降り注いだ。
雨は何日も、何日も降り続け、乾いた下界を潤し、無数の生命を潤し続けた。
やがて雨が上がり、再び雲の隙間から、天色が見えるようになった頃。
林地の奥の花畑の中央には、空を見上げたまま茶色く枯れた、一輪の向日葵があった。
己の生を全うして枯れていった草花たちとは違い、まるでまだ生きているかのように、空をじっと見つめたまま、永い眠りについていた。
「哀れで、愚かな、ヒムカイバナ」
「願いが叶い、愛したものの許へ発った、向日葵らしからぬ、ヒムカイバナ」
「――達者でなぁ」
何処からともなく生まれた、小さなざわめきは、蜻蛉が舞い始めた空へと、吸い込まれていった。
**************************************
幾年もの月日が流れた先の、いつかの夏。
東の平野の、林地の中の田舎町では、祭囃子が流れていた。
町の名物である、広大な向日葵畑の向こうには、神社があった。
夏祭りの屋台と、神輿で盛り上がるその敷地内で、興味深げな声がした。
「ねえねえ、これがヒムカイバナ様?」
「うん。うちのばあちゃんが話してたよ」
神社の片隅には、小さいながらも立派な境内社があり、その中には、上を向いた向日葵の像が収められていた。
その目の前で、浴衣姿の女子が二人、楽しそうに話をしていた。
「えっとね、お日様に恋しちゃった向日葵がいて、ずーっと空を見ていたら、神様もその向日葵を好きになってくれて、両想いになったんだって!」
「へー、だから恋愛成就の神様なんだ。この向日葵の…彫刻?が」
「そうそう!だからしっかりお願いしとこ、『彼氏できますように』って!」
そんな会話をして、けらけらと笑ってから、二人の女子は真剣な顔になって、境内社の中に手を合わせる。
だれが伝えたのか、遺したのか、
ヒムカイバナと向日葵畑は、何度も、何度も、夏を重ねて、そこに在り続けた。
ヒムカイバナ 〇鴉 @sion_crow
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