簡易な闇

つくも せんぺい

景清洞とユニットバス

 まぶたの裏には光が眠っている。

 完全な漆黒なんて存在せず、夜道で目を閉じても、残光というのか、黄色や緑や紫の光が明滅する。そのまましばらく光を眺め、やがて髪をクシャリと掴んで、ため息をもらした。


 先日のゼミで行った創作合宿。

 課題である【闇】がテーマの小説を書くことが目的で、僕は夜道を散歩していた。

 ひんやりとした風が頬や耳を撫で、キンモクセイの香りが心地いい。


 レンタルビデオ屋へと続く郵便局裏の坂道は、街灯が少ない畑沿いの道で、アスファルトとは違う感触が気に入っていた。けれど、合宿から日を空けて考え始めたのは失敗だったと嘆息する。

 夜道で理屈や仮想の言葉を並べてみても、あの日の感触は戻らない。目を閉じても同じ。



 ――白紙の方がキレイなのに、自分が汚してしまって申し訳ない。



 合宿の時に講師が言った、小説を書く際に頭をよぎるという言葉を思いだした。

 まさにその通りだといま感じている。自分がいまやろうとしていることは蛇足だ。

 ……なんて、文学的な言葉を並べても、書けていない自分を棚に上げるいいわけだなと苦笑した。


 景清洞という鍾乳洞が、合宿の見学先だった。

 暗闇が怖いという人が居る。

 誰しもが抱く感情で、それは僕も例外じゃない。


 けれどあの日、鍾乳洞での手も見えない闇の中で僕は、背筋が冷える感覚の端でどこか落ち着く、居心地の良さを感じていた。

 闇の中で自分の体が指先から溶けて、闇に同化していくような……ボンヤリした感覚。ここは怖いけれど死ぬには優しい場所だと、矛盾したわけの分からないことを考えたのを憶えている。


 指で触れるとザラッとしたぬるい壁。

 反対に身震いするくらいの冷気と、冷気を震わす泉の雫。白色でゴロゴロとした大小さまざまな石。天国にしてはそっけないけれど、地獄ほど悪くはないハズだ。

 鍾乳洞は夏は涼しく冬は暖かいと聞いた。座ってみたりはしなかったけれど、きっとお尻は湿って冷たいんだろう。


 あそこで身を潜めた人物はどう思って過ごしたのか、知るのはきっと無理だ。見えない中で壁に「たすけて」と書く心理なんて知りたくもないけれど……。


 ――平景清。


 洞窟の名前の由来になった、洞窟の中で潜んだ平家だという。

 合宿で見かけた「たすけて」は、その景清殿の字ではないだろうけど。

 彼もこんな湿った暗闇を心地良いとは感じなかっただろう。

 僕は家に帰り布団をしっかり体に巻き付けて眠った。





 次の日、眠りから醒めきらない頭でまた課題の案を練っていた。


 ――眠りは闇だと思う?


 答えはノーだ。

 スリープはダークとイコールではない。少なくとも、僕にとっては。

 胸に感じる圧迫感に視界がボンヤリと白んで、指先がピリピリと痛み鼓動が耳障りになっていく、緊張。ジェットコースターやお化け屋敷なんかでは如実に感じるあの感覚。

 ゼミの生徒たち複数人で入ったにも関わらず感じた、あの景清洞での緊張を眠る度に抱くんじゃたまらない。


 なら、闇に閉じ込められて眠ったら……?

 昼も夜も判らない暗闇で数日過ごしたら、あの日の気持ちに近づけるだろうか?


 そう思い立ってからは早かった。

 とりあえず思いつくものをユニットバスの中へ放り込んだ。とは言っても、三つだけ。

 二リットルのお茶。ライター。トイレットペーパーの予備。パンなどの食べ物はわざと止めた。

 景清は潜伏したのだから、食べ物なんて無かったかもしれない。


 上着をはおって、バスルームに入り電気を消す。

 すぐに真っ暗になるわけじゃなく、緑の残光が視界に残って痛い。残光はだんだんと小さくなるけれど、まばたきをする度にチカチカ眩しかった。

 目が慣れてくると、てのひらの輪郭が浮き上がってきたので、光を探す。入り口の足元に通気口があり、そこから光が入っていた。

 一度外に出て、茶色のバスタオルとガムテープで外から通気口を塞いでまた中に入った。今度は残光が落ち着いた後も手は見えなかった。


 しばらくここで過ごす。そう決めた。

 手探りで、持ってきた三つを浴槽の隅に置き、自分は浴槽の中に座った。

 ユニットバスだって立派なリアルな闇だ。そう思って見えない手のひらを握っては開いた。


 始めは寝起きだったからか、いつの間にか寝ていた。

 自分の体勢を確認したが、浴槽の中で動ける範囲なんて限られていて、寝返りも打ててないようだ。痛む首を回し、持ってきていた茶を飲んだ。


 排水口のところにライターがひっかかっていて、落ちるところだったとヒヤリとする。試しに点けてみようと思ったが、止めた。いま点けたらせっかくの試みが台無しだ。


 出だしは好調なんだと思う。

 けれど特に思うこともない。狭いなとは思うけれど……。


 またしばらく経って、スマホの振動を感じた。

 しかし電源を切った上に持って入ってきていないし、振動も着信音もあるわけがなかった。

 錯覚を振り払おうと首を振ると、キンと耳鳴りがして、やがて汽笛のようなぼうっと鈍い音に変わった。


 振動の錯覚はそれから度々訪れ、首を振って誤魔化した。

 しまいには左の太股が痙攣した。


 痛みはなかったが、僕自身スマホに頓着しない人間だと思っていただけに、ショックだった。それから予備のトイレットペーパーを壁に投げて、気を紛らせた。


 景清殿の時代には出来ない暇の潰し方だろうと、二三度投げて止め、ため息を吐いた。髪を触ると、見えなくてもちゃんと僕が居る。手で探れば、すぐそこに持ち込んだ物もある。この繰り返しで、一日くらいは過ぎたと思う。


 次に寝て起きると、胃がキリキリと痛んだ。

 空腹なんだと自覚したのは痛みを感じ始めたから。暗闇では感覚が鈍くなるようだった。お茶を一口飲んで誤魔化す。


 立ち上がって伸びをすると、天井に触れた。右も左も判らない恐怖は、ここにはない。出口まで一歩の、真っ暗でも僕の住む借家だと理解しているから。


 鍾乳洞にはあった暗闇の脅威は、ここにはない。

 時間と日にちは判らないが、四回は寝て起きた。退屈の方が勝っている。


「目的を持ってここに居るから、恐怖が弱いんだよ」


 手に持っていたトイレットペーパーから声がした気がした。

 静止。耳鳴り。トイレットペーパーを振る。


「お……い、お……おいおい」


 振ると声は途切れ途切れになり、振るのを止めると「おいおい」とまた繰り返した。トイレットペーパーを凝視するけれど、暗くて見えない。

 けれどだんだんとソイツの輪郭がぼんやりと浮かび上がってくる気がした。ギョッとして思わず浴槽のフチに叩き付けるように置く。


「ッチ、なんでこんなことしてんだろねぇ俺ら」


 舌打ち一つ、退屈そうな口調でトイレットペーパーは言った。

 なんでかって、課題の為だ。


「課題ってさ、結局暗くて書けないなら寝て忘れるんだから、こんな固くて寝苦しいところに居る意味があるわけ?」


 口に出さなかったのに、声は反応してきた。その言葉は何度も暗闇で僕が思考したことに酷似していた。その答えが乱暴な口調ですぐに返ってくる。


「俺はお前が創った仮想の友人なわけ! お解り? 暇人」


 シンと、静まる。

 僕の吐く息が震えているのがわかった。すぐに理解する。

 僕が思考すると、ソイツは喋りだす。僕の思考し得るものしか話せないから。


 いつか観た映画で、無人島に遭難した男がヤシの実に雪だるま調の顔を描いて『コン』という名前の友人を作っていた。

 じゃあこのトイレットペーパーもコンだ。顔は見えないけれど。よろしくコン。


「ああ、よろしく」


 意外と良いヤツだ。それからコンはひとしきりグチを吐いた。

 暗いだの狭いだの、トイレが不便だの、お茶がぬるいだの。しつこくて僕はいつの間にか眠ってしまった。まどろみながら、トイレだけは景清殿より僕の方が不便かもなんて笑った。


「こんな暗闇で花子さん待ってるより、秋は台風だぜ? 景清の旦那一人に想いを馳せるよりもずっと良い案があるって。一撃で五千人を闇に葬った強烈なのもあるんだし、昭和の伊勢湾台風っていうんだけどな。平成でもリンゴ台風っていってな……」


 知ってる。青森のリンゴ園なんかを含めて保険金五千七百億の被害を叩き出した台風。コンは僕に引き籠もるより雷に打たれて閃けと言っているらしい。


「退屈だろ?」


 コンはよく話の最後にこう付け加えた。

 その次に寝て起きてからも、またコンがずっと喋っていた。けれど今回は様子が違った。


「どっかの国の刑罰で、トロッコって知ってるか? A地点とB地点の間に線路が敷いてある。A地点には山があってな、B地点の平地へその山の土を全て移動させてB地点に山を作るんだ。その土の量は多すぎても少なすぎてもいけない。運び終えた後で達成感がある量がいいんだ。囚人は運び終えたら解放だと思ってるからな。でもな、運び終えたらまた今度はBの山をAへ運び戻すんだ。それが終わったらまたBへ。これが何か解るか?」


 怒涛のように喋るのは、僕が散々同じことを考えたからだ。解らないわけがない。


「解るか?」


 解る。トロッコの刑の果てには、何もない。ただ囚人には無意味がつきつけられるんだ。無意味を意味する刑。言葉は矛盾するけれど、トロッコの刑を表すには正しい。

 それよりも、偉そうに講釈するほどの話じゃない。引き出しのなさにコンを身近に感じる。


「そう、無意味だ。それが一番人間を壊すんだよ。囚人は壊れるってわけだ」


 頷いた。景清洞にいた人々がどうなのかは知らないが、いま僕が気づいているのは、人にとっての混沌は無意味とイコールだということだった。


 景清は平家の武士。命を繋ごうと鍾乳洞に身を潜めた。他にもそこに身を潜めた人間も、命を繋ごうとしていたんだろう。けれど前も後ろもわからず、助けが来るかもわからない。日にちもなくあてもなく待つというジリジリとした焦燥は、脅えずには、狂わずにはいられなかったろう。


 対して僕の現状は一歩で出口、ドアノブを捻れば光だ。

 体験に限界があるのは気づいていた。

 むしろ仮想にすらなっていない。


「なら、いまはぬるいだろう?」


 コンに押されるように、右手が動いた。

 ライターはまた排水口にひっかかっていた。ライターは何度か擦るとすんなり火がつき、眩しさに目がズキリと痛んだ。


 すぐ目の前にはトイレットペーパーがあり、僕は無言で火を近づけた。コンの抵抗の声はない。トイレットペーパーは白かった。彼はもう居ないんだろう。


 触れる前に火がつき。種火よりも何倍もの灯りが広がる。焦臭さが空腹だったことを思い出させる。壁が黒ずんだが、燃えも溶けもしなかった。そう時間もかからずに、トイレットペーパーはタコ糸くらいの細い灰になり、また灰よりも黒い闇が空間を満たした。


 ふと、ライターをつけて浴槽に貼ってある注意書きを読んだ。


『火気を近付けないでください』


 上から二番目の項目だった。

 なんだか馬鹿馬鹿しくなって、僕はこの闇籠りを止めることにした。

 明るくたって、日ごろ目の前にある決まり一つ見えてやしない。そう痛感した。


 持ち上げたお茶は半分くらいしか減っていなかった。

 シャワーで浴槽の灰を流すと、黒ずみも一緒に消えた。この時間の証が消えた。


 ユニットバスから出て、久しぶりに蛍光灯の光を浴びてから時計を見た。

 ちょうど四十時間。

 ハッと思わず鼻で笑う。五回以上も寝て、あれだけ考えた気でいたのにも関わらず、時計は二日分も進んでくれなかったらしい。


 ユニットバスの扉に向き直ると、上だけガムテープで貼ったバスタオルがまだそのままだ。またやり直そうかとも思った。

 そうする意味はないと考え直して、とりあえずコンビニにでも出かけようと僕は伸びをした。


 時計を見るとまだ明け方には早いくらいだ。

 五回も寝たんだから、ユニットバスの闇でも時差ボケになれるかも知れないなと嘆息した。



 ――了




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