その時。雨音に交じって、草を踏みしだく音が聞こえてきた。かなり重量感のある足音だった。

「……来た」

 息を殺すような小声で、衣咲が呟く。

 それはだんだん近づいてきて、家の周囲を回り始めた。

 緊張感が一気に高まり、掌に汗が滲んだ。

 凍りついたように戸口を見つめていると、不意に足音がとまった。獣じみた荒い呼吸音が、木戸を隔てたすぐ向こうで聞こえている。

「……熊は、引き戸なんて開けられないですよね……」

 衣咲は答えもせず、はったと目を入り口に据えている。

 どん、と衝撃がきた。

 小屋全体が大きく揺れた。俺は驚きのあまり、腰を抜かしそうになった。羆が体当たりしているのだ。

 さらにもう一打、衝撃がきた。板戸は容易に外れ、激しく音を立てて内側に倒れた。

 打ちつける雨の中、暗い森を背景に現れたのは、巨大な黒い塊だった。荒く吐かれた息が白くけぶっている。

(……でかい)

 起立すれば、俺の背丈をゆうに超えるであろう。大型犬ほどのサイズを想像していた俺は、圧倒されたように立ち尽くした。

 羆は小山のような体を揺らしながら、中に入ってきた。冷気と共に、きつい獣臭がなだれ込んでくる。丸太のごとくの太い足が踏み出されるごとに、雨の滴りが土間を黒く濡らしていった。

 たちまち汗がどっと吹き出し、全身が瘧のように震え出した。それは圧倒的な、本能的な恐怖だった。

 ――食べられる。

 一瞬、死を覚悟したが、羆は一抱えもありそうな頭を左右に振りながら箱膳に近づき、鼻でひっくり返した。目の前で、喰いかけの鯛を貪り始める。

 俺は身体が硬直し、足は委縮したように動かなかった。——羆がすぐそばにいるというのに。

 ふいに腕をつかまれ、驚きのあまり呼吸がとまった。

「……こっち。奥にきて」

 衣咲が、蒼白な顔で俺を見据えていた。なかば引きずられるようにぎくしゃくと框を越え、小屋の奥に連れて行かれた。

 恋しかった石油ストーブの前に来ても、震えはまったくおさまらなかった。

 羆はあっという間にお膳を平らげると、鼻をひくつかせながら、今度はボストンバッグに近寄っていった。丈夫なポリエステル生地を鋭い鉤爪で容易に引き裂き、鼻面を突っ込む。

 がりがりと硬いものを咬みしだく音が、小屋に響き渡った。

(食ってる。人間を――)

 あまりのことに、ふっと意識が飛びかけた。

「……うっ……」

 苦しげな呻き声に、俺はすぐさま我に返った。

 壁にもたれかかるようにして、衣咲が腹を抱えて蹲っていた。

「い、衣咲さんっ。大丈夫ですか」

 俺は衣咲の前に屈みこんだ。衣咲は汗を額にびっしりと浮かばせ、歯を食いしばっていた。

「お腹が……」

 その辛そうな顔に、血の気が引く。

(俺が、俺が守らなきゃ)

 俺は生唾を何度も飲み込むと、まさかりに目を向けた。息を殺し、壁を背で伝うようにじりじりと近づいてゆく。

 やっと鉞の柄に触れた瞬間、熊がボストンバッグから顔を上げ、ぐるりとこっちを向いた。

 目が合った瞬間、動けなくなってしまった。

 羆もぴたりと動きをとめたままだった。その黒々とした双眸を睨み返したまま、俺は浅い息を繰り返していた。目をそらせば襲ってくるだろう。それだけはわかった。

 額から汗が鼻梁に伝ってゆく。恐怖と緊張感で、頭ががんがんと痛みはじめた。今さらのように後悔が込み上げる。

 ああ。どうして俺は、こんな化け物じみた生き物を何とかしようと思ったのだろう。

 衣咲はあんなにも逃がそうとしてくれたのに。

「貸して」

 ふいに衣咲が俺の手から鉞を奪った。

 衣咲の殺気を感じてか、雨でしとどに濡れているはずの羆の体毛が、風をはらんだかのように逆立った。

「い、衣咲さん!! だめだ、さがって――」

 俺はとっさに衣咲を庇い、羆の前に立ちふさがった。その瞬間――。

 がつんと衝撃が、背中に走った。

 俺は前のめりに倒れた。熱いものが背を伝い、床に赤黒く広がってゆく。

 突き刺さったのは、熊の爪ではなく、鉞の刃だった。

「……ごめんなさい」

 脈打つような激痛の中、首をひねって仰ぎ見た。鉞の柄を握り、肩を大きく上下させた衣咲が見下ろしていた。白い着物に、真っ赤な血飛沫ちしぶきが点々と散っている。

「あなたが来たせいで、生きる希望がわいちゃったの……」

 衣咲は鉞を床に置いた。着物の袖から手榴弾を取り出し、クリップをずらす。そして俺の頭の横に屈みこみ、手を取って手榴弾を握らせた。

「このレバーを押したまま、ピンを引き抜くの。五秒で爆発するから、ぎりぎりまで我慢して、ちゃんと狙って。できる?」

 殺気立った目で見つめる衣咲はやはり美しく、俺は朦朧としながらつい頷いてしまった。

「ありがとう。あなたのことは一生忘れない。この子と、何としても生き延びるわ」

 衣咲は微笑んだ。まるで花がほころぶかのような笑顔で、俺はこんな状況であるのに思わず見とれてしまった。

 衣咲は立ち上がると、俺の眼前から消えた。かわりに視界に入ったのは羆だった。血の臭いに惹きつけられたように、のしのしと近づいてくる。

 羆はしばらく耳元で臭いを嗅いでいたが、ふいに強靭な力で俺の身体を転がした。仰向けにされ、ぼやけた視界の端に、俺の鞄を肩掛けした衣咲が、決死の顔つきで雨の中を出て行く姿が見えた。鞄の中には帰りの東京行きの飛行機のチケットが入っている。

 ああ、行ってしまう。

 また俺は、結婚相手に逃げられてしまうのか。

 羆はあんぐりと大口を開けた。血に染まった歯がずらりと並び、血混じりの唾液が糸を引いて俺の顔に滴った。

 生きながら喰われる前に、死ねる。ひどい仕打ちの中で、この手榴弾が唯一、衣咲に与えられた救いのように思えた。

 俺は渾身の力でピンを引き抜き、腕ごとその口に突っ込んだ。



  了


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羆贄神事の一夜 うろこ道 @urokomichi

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