④
その時。雨音に交じって、草を踏みしだく音が聞こえてきた。かなり重量感のある足音だった。
「……来た」
息を殺すような小声で、衣咲が呟く。
それはだんだん近づいてきて、家の周囲を回り始めた。
緊張感が一気に高まり、掌に汗が滲んだ。
凍りついたように戸口を見つめていると、不意に足音がとまった。獣じみた荒い呼吸音が、木戸を隔てたすぐ向こうで聞こえている。
「……熊は、引き戸なんて開けられないですよね……」
衣咲は答えもせず、はったと目を入り口に据えている。
どん、と衝撃がきた。
小屋全体が大きく揺れた。俺は驚きのあまり、腰を抜かしそうになった。羆が体当たりしているのだ。
さらにもう一打、衝撃がきた。板戸は容易に外れ、激しく音を立てて内側に倒れた。
打ちつける雨の中、暗い森を背景に現れたのは、巨大な黒い塊だった。荒く吐かれた息が白くけぶっている。
(……でかい)
起立すれば、俺の背丈をゆうに超えるであろう。大型犬ほどのサイズを想像していた俺は、圧倒されたように立ち尽くした。
羆は小山のような体を揺らしながら、中に入ってきた。冷気と共に、きつい獣臭がなだれ込んでくる。丸太のごとくの太い足が踏み出されるごとに、雨の滴りが土間を黒く濡らしていった。
たちまち汗がどっと吹き出し、全身が瘧のように震え出した。それは圧倒的な、本能的な恐怖だった。
――食べられる。
一瞬、死を覚悟したが、羆は一抱えもありそうな頭を左右に振りながら箱膳に近づき、鼻でひっくり返した。目の前で、喰いかけの鯛を貪り始める。
俺は身体が硬直し、足は委縮したように動かなかった。——羆がすぐそばにいるというのに。
ふいに腕をつかまれ、驚きのあまり呼吸がとまった。
「……こっち。奥にきて」
衣咲が、蒼白な顔で俺を見据えていた。なかば引きずられるようにぎくしゃくと框を越え、小屋の奥に連れて行かれた。
恋しかった石油ストーブの前に来ても、震えはまったくおさまらなかった。
羆はあっという間にお膳を平らげると、鼻をひくつかせながら、今度はボストンバッグに近寄っていった。丈夫なポリエステル生地を鋭い鉤爪で容易に引き裂き、鼻面を突っ込む。
がりがりと硬いものを咬みしだく音が、小屋に響き渡った。
(食ってる。人間を――)
あまりのことに、ふっと意識が飛びかけた。
「……うっ……」
苦しげな呻き声に、俺はすぐさま我に返った。
壁にもたれかかるようにして、衣咲が腹を抱えて蹲っていた。
「い、衣咲さんっ。大丈夫ですか」
俺は衣咲の前に屈みこんだ。衣咲は汗を額にびっしりと浮かばせ、歯を食いしばっていた。
「お腹が……」
その辛そうな顔に、血の気が引く。
(俺が、俺が守らなきゃ)
俺は生唾を何度も飲み込むと、
やっと鉞の柄に触れた瞬間、熊がボストンバッグから顔を上げ、ぐるりとこっちを向いた。
目が合った瞬間、動けなくなってしまった。
羆もぴたりと動きをとめたままだった。その黒々とした双眸を睨み返したまま、俺は浅い息を繰り返していた。目をそらせば襲ってくるだろう。それだけはわかった。
額から汗が鼻梁に伝ってゆく。恐怖と緊張感で、頭ががんがんと痛みはじめた。今さらのように後悔が込み上げる。
ああ。どうして俺は、こんな化け物じみた生き物を何とかしようと思ったのだろう。
衣咲はあんなにも逃がそうとしてくれたのに。
「貸して」
ふいに衣咲が俺の手から鉞を奪った。
衣咲の殺気を感じてか、雨でしとどに濡れているはずの羆の体毛が、風をはらんだかのように逆立った。
「い、衣咲さん!! だめだ、さがって――」
俺はとっさに衣咲を庇い、羆の前に立ちふさがった。その瞬間――。
がつんと衝撃が、背中に走った。
俺は前のめりに倒れた。熱いものが背を伝い、床に赤黒く広がってゆく。
突き刺さったのは、熊の爪ではなく、鉞の刃だった。
「……ごめんなさい」
脈打つような激痛の中、首をひねって仰ぎ見た。鉞の柄を握り、肩を大きく上下させた衣咲が見下ろしていた。白い着物に、真っ赤な
「あなたが来たせいで、生きる希望がわいちゃったの……」
衣咲は鉞を床に置いた。着物の袖から手榴弾を取り出し、クリップをずらす。そして俺の頭の横に屈みこみ、手を取って手榴弾を握らせた。
「このレバーを押したまま、ピンを引き抜くの。五秒で爆発するから、ぎりぎりまで我慢して、ちゃんと狙って。できる?」
殺気立った目で見つめる衣咲はやはり美しく、俺は朦朧としながらつい頷いてしまった。
「ありがとう。あなたのことは一生忘れない。この子と、何としても生き延びるわ」
衣咲は微笑んだ。まるで花がほころぶかのような笑顔で、俺はこんな状況であるのに思わず見とれてしまった。
衣咲は立ち上がると、俺の眼前から消えた。かわりに視界に入ったのは羆だった。血の臭いに惹きつけられたように、のしのしと近づいてくる。
羆はしばらく耳元で臭いを嗅いでいたが、ふいに強靭な力で俺の身体を転がした。仰向けにされ、ぼやけた視界の端に、俺の鞄を肩掛けした衣咲が、決死の顔つきで雨の中を出て行く姿が見えた。鞄の中には帰りの東京行きの飛行機のチケットが入っている。
ああ、行ってしまう。
また俺は、結婚相手に逃げられてしまうのか。
羆はあんぐりと大口を開けた。血に染まった歯がずらりと並び、血混じりの唾液が糸を引いて俺の顔に滴った。
生きながら喰われる前に、死ねる。ひどい仕打ちの中で、この手榴弾が唯一、衣咲に与えられた救いのように思えた。
俺は渾身の力でピンを引き抜き、腕ごとその口に突っ込んだ。
了
羆贄神事の一夜 うろこ道 @urokomichi
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