「あなたも食べられたくなかったらさっさと出て行っ――」

「でも、どうやって目的の羆をおびき寄せるんですか? やっぱりそうゆう一族だから……神通力みたいのあるんですか?」

 女の語尾に被せるように問うた。出て行かされたら、彼女をひとりにしてしまう。

「そんなものあるわけないでしょ。あれを使うの」

 女が視線で示した引き戸の近くには、黒いボストンバッグがぽつんと置かれていた。

 腰を上げた俺に、女は「見ないほうがいいわよ」と低く言う。

 好奇心には抗えず、俺はボストンバッグに近づいた。ファスナーを開けると、荒い手触りの布が現れた。

 何が入っているのだろう。女が止めないところを見ると、危険なものではないのだろう。そっと布を開いた。

「う――うわあぁぁぁっ!!」

 俺はボストンバッグから飛びすさると、転げるように上がり框に縋りついた。中に入っていたのは、皮膚のついた頭蓋骨の一部と脚の大腿部だったのだ。

「羆の食い残しよ。熊は自分の所有物に過度に執着する生き物なの。地の果てまで追ってくるわ」

 女は暗い目でボストンバッグをじっと見つめた。

「失敗したら、次はそのバッグに私が入ることになるわね……」

 食べたばかりのお膳が胸元にせり上がってきた。思わず口を押えると、女に「こんなところで吐かないで」と睨まれた。

 なんとか吐き気を堪えた俺は、息も絶え絶え、女を見上げた。

「に……逃げましょう。雨だし、熊だって追ってこれないかもしれない」

「だめよ。私が逃げたら、きょうだいがかわりをさせられる。人喰い熊なんてそうそう出るもんじゃないんだから、私で仕留めることができれば、きょうだいたちの代は助かるのよ」

「お父さんに頼んで、何とかしてもらえないんですか? 世の父親は娘にべろべろだって言うじゃないですか」

 女は歪んだ笑みを浮かべた。

「父はそうゆう人じゃないもの。むしろ人喰い熊の出現を喜んでるわよ。私の犠牲で羆を鎮圧できれば、村の連中はより父に感謝してお金を貢ぐしね。子供なんて金儲けの道具としか見てないの。それより、あなたいつまでここにいるつもり?」

 そこで女は言葉を途切れさせた。苦し気に腹を抱え、歯を食いしばる。

「ど、どうしたんですか」

「……お腹が張っただけよ」

 大丈夫大丈夫、怖くない――女はそう言いながら、愛しげに下腹を撫でた。これから、その子諸共食われるというのに――。

 俺はごくりと唾を飲み込むと、「あの」と女を見た。

「名前、聞いていいですか」

 女は脂汗を浮かばせた顔で、怪訝そうに見返してきた。

衣咲いさきよ。野上衣咲」

 まだ痛むのか、その声は掠れていた。

「その羆を退治すれば、誰も死なずに済むんですよね?」

「退治……?」

 衣咲はぽかんとした。

「俺、衣咲さんを守ります。一飯の恩を返します」

「……あなた、どこの人?」

 東京です、と言うと、衣咲は力なく溜息をついた。俺はむっとする。

「本州だって熊被害はあるんですよ。農作業中に襲われたじいちゃんが鎌で追い払ったって話、何年か前にニュースで見ましたもん。何か武器になるものはないんですか? ナイフとか……」

「ナイフで羆に太刀打ちできるわけないでしょ」

 衣咲は呆れたように言う。

「だからって諦めるんですか? 悟ったようなことを言いながら、本当は子供と生きていきたいって思ってるんでしょう?」

 突然、衣咲はぐっと俺を睨んだ。その眼差しの強さに息を飲む。

「そんなの、当り前じゃない! でも――どうしようもないもの……」

 見開かれた目から、大粒の涙がぼろぼろと零れた。

「もしそれができたら、俺と付き合ってくれますか」

 衣咲は涙で濡れた目を俺に向けた。何を言っているのかわからないような顔だった。

「いや、結婚してください。赤ちゃんも我が子のように大事にします」

「……何言ってんの。私たち、さっき会ったばかりでしょ」

「一目惚れです。いけませんか」

 俺は上がり框から身を乗り出した。衣咲は椅子に座りながらもわずかに身を引いた。

「そうゆうの、吊り橋効果って言うのよ」

「だって、衣咲さんみたいにきれいな人、東京でもマジで見たことないです」

「そりゃそうでしょうよ。私の母は元モデルで、父が村から吸い上げたお金をガンガン貢いでつかまえた女なんだから」

 まったく引こうとしない俺に、衣咲はなんだか困惑した、泣き笑いのような顔をした。

「熊に食べられるのと、あなたと結婚するのと……どっちか選べっていうの?」

「そうです。俺が羆を退治できたら、一緒に東京に来てください。子育て支援だってこんな限界集落なんかよりよっぽど充実してますよ。そのクソみてえな親父からだって離れたいんでしょ」

 東京、と衣咲は夢見るように呟いた。

「それができたら、どんなにいいか……」

 赤々としたストーブの火に視線を落としていた衣咲は、ふいに顔を上げた。

「……ナイフでは無理でも、あれを使えば、れるかもしれない」

 衣咲が目を馳せたのは、板壁に立てかけてあるまさかりだった。

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