泣かない季節
紫 李鳥
泣かない季節
伸之と初めて会ったのは、夏休みの終わり頃だった。
その日、夕飯を摂っているとブザーが鳴った。
やがて、玄関に行った母と、知らない男の声が聞こえてきた。
間もなくして、日焼けした若い男が母と一緒にやって来た。
男は、私をチラッと見ると、斜向かいであぐらをかいている父と何やら喋っていた。
突然の見知らぬ訪問者に動揺して、私はどぎまぎしていた。
その時、自分がどんな挙動をとっていたのか、覚えていない。
途端、食欲をなくした。
「――
母の声が遠くに感じられた。
「……こんばんは」
挨拶しながら伸之を見ると、笑顔だった。
「あ、こんばんは。よろしく」
「ぁ、はい」
私は人見知りする性格だった。だが、緊張していたのは、それだけが理由ではなかった。……意識していた。伸之という異性を……。
「いやぁ、しかし、初めてじゃないか? こうやって来てくれたのは」
母が持ってきたグラスを手にした伸之に、父がビールを注ぎながら言った。
「はい。……実はニューヨークに行っちゃうもんで」
カチッ!
それを聞いた途端、私は持っていた茶碗を漬物皿にぶつけてしまった。
三人の視線が同時にこっちを向いた。
俯いた私の顔がみるみる赤くなるのを感じた。
「――だから、挨拶をと思って」
「何年ぐらい行くの?」
母が心配げに尋ねた。
「たぶん、……二、三年は」
ガチャン!
今度は茶碗を落としてしまった。
「実花、さっきから何やってるの?」
母の声が大きく感じた。
「……なんでもない」
(ったく、母さんは鈍感なんだから。お願いだから、こっちにフらないでよ)
「積もる話もあるでしょうから、明日は水入らずで、ゆっくりしてください」
ビールで上機嫌の父は、私と似たような赤い顔をほころばせた。
私は好物の西瓜にも手をつけず、味噌汁を啜ると、急いで二階に上がった。
……伸之は、二、三年もニューヨークに行ってしまう。……まだ、会話らしい会話もしてないのに、突然やって来て、突然行ってしまう。
私の頭は、伸之のことでいっぱいだった。
――伸之はいま、入院中。
ウチから歩いて二十分の病院に。
私は毎日お見舞いに行った。
「――母さんから」
そう言って、ピンクのバラとカスミソウのセットを花瓶に挿した。
「いつも、ありがとう」
「……退院したら、どうするの?」
「さぁ……、どうするかな」
左足にギプスをつけた伸之が天井を仰いだ。
「……父さんの会社に就職すればいいのに」
「うむ……そうだな。デスクワークなら下半身不随でもできるからな」
「車椅子、私が押してあげる」
「ぁぁ。押してもらおうかな」
伸之の優しい目がこっちを向いた。
「うん!」
伸之と初めて会ったあの日、夕食を終えた私は部屋に閉じこもると、伸之をどこにも行かせない画策を練った。
翌日、庭でラケットとシャトルを手にしていると、伸之が縁側から顔を出した。
「あれぇ、バドミントンか。久しぶりだな。一緒にやろうか?」
「うん、ぃぃょ」
私は縁側から離れると、垣根に背を向けた。
シュッ! シュッ!
ラリーはしばらく続いた。
「実花ちゃん、じょうずだね」
「伸之さんも」
途端、一階の屋根にシャトルを飛ばした。
「アッ!」
「大丈夫だよ。梯子はある?」
「うん。……納屋に」
「アッ! アーッ!」
伸之が梯子から落ちた。
「――ニューヨーク、行けなくて残念?」
「……そんなことないよ。仕事だから、行くしかないと思っただけで」
「……私のせいで……ごめんなさい」
私は申し訳なさそうに俯いた。
「実花ちゃんのせいじゃないさ。壊れかけの梯子のせい」
「……でも、私が屋根にシャトルを飛ばさなきゃ――」
「バカだな。そんなこと気にしてんのか? むしろ、退院後、叔母さんや実花ちゃんにお世話になるんだから、僕のほうが申し訳ないよ」
「……実花が、伸之さんの手足になってあげる」
そう言って、私はニコッとした。
「それは助かるな。……ありがとう」
――八年が過ぎた。
仕事が終わると、伸之が待つアパートに急いだ。
「ただいまっ!」
「おかえり~」
PCの前でマウスを動かしている伸之の首に腕を回すと、頬にくちづけをした。
同棲して、二年になる。もちろん、両親は知らない。
私は高校を卒業すると、就職を口実に上京していたのだ。
――八年前のあの時、伸之が足を踏み外すように梯子に細工して、故意にシャトルを屋根に飛ばした。
伸之を失いたくなかった。
伸之の居ない残りの夏を独りで過ごす自信がなかった。
伸之の居ない夏など考えられなかった。
伸之を身体障害者にしてでも傍に置いておきたかった。
ニューヨークに行かせたくなかった。
他の女と恋愛をさせたくなかった。
独り占めしたかった。
だから……
動けなくした。
泣かない季節 紫 李鳥 @shiritori
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