第5話

 休日が訪れた。大きな格子窓から眩しい日光が降り注ぐ。別の席を頼もうかと思いかけたが、些細な問題ではあった。

「ねぇ、ほんとによかったの? こっちに戻ってきて、時間まで取っちゃって」

 目の前には、彼女がいる。後ろで髪を結い、額を出していた。机を挟んで、僕たちは座っている。二人で注文したパスタを待っていた。

「いいよ。実家にカメラ忘れたから、どっちにしろ帰らないとだめだったし」

「ドジだねぇ。式で持ってたね、一眼レフ。リューちゃんが撮ったのも見せてよ」

 歯を見せて彼女が笑う。一瞥し、僕は目を伏せる。冷や水を飲めば、温かいこの時間が固形になっていくように感じた。

 記念品制作の相談を直接会ってできないか。僕から持ちかけた。場所は駅近くにあるイタリアンの店。最近地元にできたらしく、僕はこの店を知らなかった。行ってみないか、と彼女から提案された。

 またおかしくなる前に、彼女に虫を返したい。裏の目的はもちろん言えなかった。

 左の薬指には尺取虫が巻きついている。従順にここまで着いてきてくれた。やはり彼女は認識できないようだったが、僕は右手で左手を覆っていた。ここには警戒すべき相手がいる。

 喚き声が上から聞こえた。反対側の壁に設置されたランプを僕は見やった。黒い翼を折り畳み、鳥はこちらを凝視している。

 鳥はやはり追ってきた。僕の思考を読んだのか、あの見苦しいまでの執念なのか。タクシーと電車を使っても振り切れず、彼女との待ち合わせ場所には先回りされていた。屋内に入り込まれ、隔てるものはない近距離。状況は最悪だ。

 緊張を察知されないよう平静を心がけるうちに料理が運ばれてくる。彼女はナスとキノコのパスタ、僕はカルボナーラ。

 雑談を続けるかたわらで、パスタを食べ進めた。麺にフォークを差し込んで巻き、口に運ぶ。鳥を注視しつつ、彼女にも悟られないように。板挟みの状況で、体が余計に縮こまる。

 皿のパスタが半分になる。ふと、彼女に意識を払う。彼女は食事の手を止めていた。

「リューちゃんさ」

 じっと、僕を見つめてくる。何か勘づかれたか。だとして、どこが気になったんだろう。唐突すぎて分析できない。

 彼女の視線は僕の手元に向いていた。

「パスタの一口、大きすぎない?」

 えっ、と素で声を漏らす。右手のフォーク、その先端。何重にも巻きついて、パスタは太い糸束のようになっている。だからといって、何を指摘されているのかがわからない。

「そうでもなくない?」

「明らかおかしいって。こう、フォークの端で引っかけるんだよ。リューちゃん、フォーク全体使ってるじゃん」

 彼女のフォークをよく見て見る。四本歯のうちの一本だけで麺を引っかけ、それからくるくる巻いていた。一方で僕のフォークは全部の歯と麺が絡んでいる。露骨なほどに不細工だ。

「もしかして、パスタがすぐ食べ終わるのってそういう理由? ずっと値段と合わないなって思ってたけど」

 大真面目に答えると、彼女が噴き出した。食べてる途中にやめてよ、と手で口を押さえて呟く。何に笑っているかは掴めなかったが、不思議と僕も面白くなってくる。

 そういえば、二人きりで食事をするのは久しぶりだった。じんわりと胸が熱くなる。パスタが残っているうちに一本だけ使う方法を試したが、僕にはできなかった。いままでの食べ方が染みついていて、直すのも難しそうだ。開き直ってがつがつ食べ始め、彼女がまた笑う。

 そのあいだ、鳥も虫も僕の脳裏から消えた。

 鳥と虫が蘇ったのは、料理を食べ終え、机の上が片付いたころ。

 始めよっか。彼女の一言で、上から濁音が降ってくる。締めつけられる感覚も薬指に戻る。僕は粛々と鞄から資料を取り出して、彼女にサンプルの画像を提示した。

 意見を聞き取りながら、僕は食事中のやり取りを回想する。フォークに巻きついたパスタが多すぎると知った瞬間、僕はどんな顔をしていただろう。恥に思って、流そうとしてさらに恥をかいた。記憶の中、彼女の小さな笑いが何度もハウリングして広がる。

 笑えているならそれでよかった。笑わせるのが僕なら、もっとよかった。

 彼女の指摘で、僕のくせが増えていったなら。想像するが、それ以上膨らんでいかない。気づくのが馬鹿みたいに遅すぎた。僕は独り、苦笑する。

「ごめん、お手洗い行ってくる」

 制作の相談がひと段落して、彼女が席を立つ。僕だけが場に残された。

 斜め上。素早く視線を向ける。

 ランプにとまった鳥が、羽を広げていた。ばさばさと翼を何回か上下に動かして、頭をこちらへ傾げる。僕に向かって嘴を向け、威嚇の姿勢を取っていた。いますぐにでも、突っ込んできそうだ。

 鳥に睨み返す。挙動を細部まで観察しながら、右手を動かした。鳥の視線も動かした手に向かう。右手は左手と重なり、薬指を包むように持った。握り込み、徐々に指から右手を外していく。今、薬指には何もない。

 手を開く。尺取虫が右手から転がり落ちる。うねうねと、虫が体をねじって動き出す。

 足場を蹴って、鳥が飛翔した。ランプから下方にある僕の机へ、滑空して飛び込んでくる。瞬時に翼を畳み、紡錘形の弾丸になって虫を狙う。わずかに開いた嘴で獲物を掠め取ろうとしていた。一瞬で鳥は席まで到達し、必死の形相で嘴を伸ばす。

 虫に嘴が届く、その瞬間。真横で待ち構えていた僕は、両腕で鳥に掴みかかった。下から上へ、羽交い絞めするように。反撃を予想していなかったのか、鳥はまんまと僕の腕に捕らえられた。

 鳥の抵抗は凄まじかった。筋肉で翼をあらゆる方向に振り回し、死にもの狂いでもがき続ける。濁りきった声をあたり一面に撒き散らし、耳を塞ぎたくなった。だが、両手はもう使っている。僕は脇を閉じ、胸で抱き締めるようにして鳥を押さえ込んだ。

 右手が鳥の嘴へと伸びる。手を引っかけ、片手で紙を丸めるように嘴を握った。鳴き声が嘴の中にこもり、僕自身の体勢も安定する。勢いのまま、僕はテーブルの下に鳥を引きずり込んだ。翼を振って抵抗するが、もはや鳥は無力だった。引きずられていく天敵の一部始終を、机の上で虫が見届ける。

 膝上で鳥を押さえつけると、彼女が戻ってきた。

「お待たせ。なんにも変わりないよね?」

「ないよ。何も」

 社交辞令のような確認を涼しい顔で終える。机の下では、鳥が拘束を振り払おうと暴れ続けていた。

 セットで付いてきたアイスコーヒーは残り少ない。彼女はコーヒーを、ストローでちびちびと飲んだ。なんだか名残惜しそうだった。

「いいの? 帰らなくて」

「大丈夫。うちの人にもリューちゃんだって言ってあるし」

 僕と会うに当たって、パートナーから了解は得ているようだ。相手方も僕を信頼している。なおさら、裏切れなくなった。

 左手を、机の上に出す。膝上の鳥は左ひじと右腕で固定。鳥が発する振動を受け取りながら、僕は指で机を叩く。寄ってきた尺取虫に対して、彼女を指し示す。

 意図を理解したようで、虫は狼狽えた。名残惜しそうに、僕の指にまとわりついてくる。もう一度、僕は指で机を叩いた。何度か頭を振ってから虫は向きを反転させ、彼女の方向へと這っていった。どうやれば戻るかはわからなかったが、あの虫も馬鹿ではない。あの虫には確かな知性がある。僕の意を汲んで戻ってくれるはずだ。

 彼女に伝える必要はない。いろいろと考えた末に、僕はそういう結論を下した。僕は彼女に幸せでいてほしい。失ったものがあるなら戻してあげたい。不誠実かもしれないが、不誠実なりの誠意で彼女の門出を祝ってやりたかった。

 これは献身と呼べるほど綺麗じゃない。分離していくものがまだ彼女にあってほしいという、僕のわがままだ。奪う勇気もなく、彼女を理由にして逃げる。けれど、幸福を願う感情は嘘でない。嘘でないと、自分を信じていたい。

 表層を取り繕う。無表情を顔に貼る。

「結婚ってどんな感じ?」

 思ってもいないことを、僕は尋ねた。

 突然聞かれ、彼女は顎に手を添えて悩み始めた。机を這う虫が彼女のひじに触れる。そこから器用に腕を登っていく。

「まだ分かんない。いまは楽しいが勝ってるかな。この人と家族になったっていうのが、なんか新鮮で」

 虫が彼女に戻るのを察知したのか、鳥がひどく暴れ出す。黙って左ひじの圧迫を強めた。体を曲げ、伸ばす。単調な動きを繰り返し、虫は彼女の手首まで到達した。

「でも、変な喧嘩も増えたんだよね。ポットの水とか捨てずに残すし。ありえんくない?」

 呆れ声。聞き慣れた声からトーンが一段低い。思い悩む顔に、尺取虫が張りつく。

 口を一息で渡り、反り立つ鼻を超える。非効率な身体機構が活きていた。そのまま眉間を抜け、虫は額に到着する。

 虫が僕を振り向く。下半分を彼女に固定し、上体をぶんぶん振った。Miyajimaの文字を僕は捉える。

 ひとしきり体を振って、虫は自分の先端を彼女の額に突き立てた。時間をかけて額へと潜っていく。鳥が跳ね上がりそうになる。そいつを押さえつけ、僕は見届ける。虫が姿を消し、何事もなかったかのように額は平らになった。

 あっ、と彼女が短い声を発する。

「リューちゃんにも誰か紹介しよっか?」

 胸の前に両手の拳を構え、握り込むポーズ。それをぐるんと一回転。

言葉と動きがまったく噛み合っていない。なんだ、大丈夫だ。杞憂だったんだな、全部。

名前が変わったくらいで人は変わんないんだ。そう考えることを許されたような気がした。

「今はいいわ。忙しい」

 彼女は頷いて、自分の携帯を見た。

「私そろそろ行くけど、どうする?」

「残っていこうかな。この店、いい感じだし」

 それにも彼女は頷く。トートバッグを肩に担ぎ、帰る準備をしていた。いっしょに帰ることもできたが、僕は満たされていた。彼女には彼女の過去が、漏れずに格納されている。それを知れただけで十分だった。

 テーブルにグラスを残し、彼女は立ち上がる。隣を通り抜けていく。靴の音が近づいて、僕から離れていく。彼女の姿を見たくなって、伏せていた目を上げた。格子窓に、薄く反射した彼女が映る。

 声はもう枯れていない。口は自然に動いた。

「結香。結婚おめでとう」

 窓の中、彼女が振り向く。驚いた表情から転じ、顔つきは柔和になる。気恥ずかしさを隠すように口を緩く結び、そして微笑む。

 退店していく彼女を見届ける。扉が閉まって彼女がいなくなると、全身から力が抜けた。

 鳥が僕の腕を振り払い、一気に羽ばたいた。飛び上がって机に乗り、僕を向いて大声を放つ。嘴を開き、鳥はしきりに叫ぶ。雑音を遮断させるほどの激昂だった。

 絶叫を聞き流す。うるさくも感じない。鳥の気持ちは耳が裂けそうなほどよくわかるが、同調する気にはなれない。

 叫びながら鳥は羽ばたいた。店内を荒らすように飛び回り、ぐんぐん速度を上げていく。目で追えないほどに高速になる。輪郭がぶれ、黒い球が跳ねているようだった。

 鳥が僕の元へと飛来する。目前を通過して、格子窓へと突入した。木枠に囲まれた一つの四角を鳥が貫く。ガラスが砕けて飛散する。

 太陽へ、鳥は飛んでいった。逆光で鳥は影になる。割れた格子窓から空を仰ぐ。鳥は小さくなっていき、最後には見えなくなった。

 本当は、ああするのがいいんだろう。

 僕はまだ留まっていた。空のグラスを、閉じかけた目で眺める。

 途端にあたりは静かになった。腕を伸ばし、沈黙を抱き締める。僕の内側で、この静かな空間を溶かしてしまいたかった。

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旧姓を食べる鳥 筏九命 @ikadakyumei

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