第4話

 落下してきた事実を、僕の頭が受け止める。事実はガラス玉のように弱々しく転がった。頭はいきなり漏斗の上部分に似た形状になり、玉の到達を遠ざけようとする。事実が頭を周回し、少しずつ中心の穴に迫った。ぐわんぐわんと揺れながら、障壁をなぎ倒して円を描く。恐れているらしい。けれど、事実はやがて理解にたどり着く。

 事実が僕に落ちて、浸透していく。体内で起こる不調和を、僕は隠蔽する。

「そうだったわ。ごめん」

「慣れないよね。私もなんだ」

 笑いかける彼女に共感ができない。独り、取り残されたように思えた。

「それじゃあ、また今度もよろしく。急な電話に出てくれてありがと」

 通話の向こう側で、彼女が短い声を漏らす。

「式、来てくれたよね。それもありがとう。嬉しかったし、なんか安心した」

 スポンジのような柔らかい声で、彼女はささやく。よかった。あの結婚式は彼女にとって楽しい記憶のままだ。安心という言葉に自分が沈んでいく。ただ、安堵はできなかった。沈むばかりで、周りにある安寧が僕に染みていかない。奇妙だった。

 またね。曖昧な台詞で、彼女は電話を切った。部屋には沈黙が張りついている。彼女の声が聞こえなくなると、静寂がその存在を訴えかけてきた。黒くなったスマートフォンの画面で無音がやかましく跳ね回る。

 左手がくすぐったい。黙ったせいで体の感覚が過敏になっていた。机に置いた左手を見下ろす。膨らんだ手の内側に、撫でてくる奴がいる。膨らませた手を握り、手のひらを表へと向けた。

 手の内側で尺取虫が暴れている。暴れるといっても可愛いもので、頭と尻尾をじたばた振り回す程度だ。虫を押さえる指の間隔を広げる。虫の腹がよく見えた。

 記された、彼女の旧姓。みやじま、みやじま。音を、僕は何度も繰り返し唱える。沈黙に潰され、音は次々消滅した。

 もはや誰の記号でもない。音だけがあって、意味はない。空虚な文字だ。

 これを守ることに、果たして意味はあるのだろうか。いや、あるに決まっている。これは彼女の持ち物で、勝手に処分してはいけない。失くしたら今後、彼女が困ってしまう。

 暗い思考の渦に僕は投げ込まれる。誰が困るんだよ。電話越しの彼女は十分に幸せそうだった。きっと今後は何十年も別の姓を名乗って暮らしていく。生まれたときに持たされた姓は格納されて、永遠に使われはしない。必要になるなんて仮定は、彼女の不幸を願うのと同義じゃないか。

 脳が末端から削られていく。高速回転によって思考が焼き切れる。摩耗する。何度も自分に言い聞かせた。止まらない。考えたくてたまらない。乱雑に身をねじらせる尺取虫を視覚情報として吸収しながら、自分の体が過熱していくのを感じる。

 立ち眩みがした。右手のスマートフォンを取り落とす。拾おうとしたが、脚が上手く曲がらない。膝を床に打ちつけ、そのまま座り込む。痛みがゆっくりと僕に流れた。

 カーテンの隙間から陽光が差し込む。尺取虫が照らされ、掘られた文字を光が満たしていく。一本ずつ、指を外していった。中指、小指、薬指。虫はつままれる格好になった。より激しく虫が蠢く。せいいっぱいの抵抗に見えたが、いまさら手を放す気にはなれなかった。

 虫を持った左手を胸に添える。空いた右腕で、僕は目の前にある空間を抱いた。ただただ意思が先行した。彼女の一部を軸にした、彼女を知りたい欲求に、僕は支配される。

 侵入する光が左手と、僕の全身を温めていく。温度を体感したのは久々で、想像との差異を示される。僕は光に負けないよう腕を締めた。僕が抱いているのは、所詮は虚無だ。するすると腕は貫通し、右手は左手と合流した。

 僕は彼女の体温を知らない。知らないまま、僕は一生を終える。物悲しい。これまで具象的な形状を取らなかった感情が、心の奥底で氷結する。

 がぁと鳴く、鳥の声が近い。真横を見た。カーテンから、鳥が僕を覗き込む。丸い目玉は虫ではなく、僕を捉えている。鳥と視線が合う。話が通じるかも、と初めて思えた。

 どうして鳥がこの虫に執着しているのか。それが理解できなかった。虫など他にいくらでもいるのに、絶食してまで張りつくなんて不可解だ。見苦しさを晒して、手に入るのはただの虫。僕が鳥なら釣り合わない。ずっと、その結論で留まっていた。

 欲しいんだ、どうしても。一刻も早く、飲み込んでしまいたい。そのためなら何だって犠牲にする。代用はできないのだから。

 内側に取り込まなくては。眺めているだけでは表面しか知れない。隅々まで包むためには、容赦なく侵害しなくてはならない。

 また鳥が騒ぎ始めた。部屋を満たす寂寞を突き破って、叫喚で染め上げる。もう耳障りではなかった。賞賛か拒絶か、どちらなのかは判断できない。明確に、威圧ではなかった。取り囲む鳴き声から一貫性が聞き取れる。

 鳥は、僕を同類だと認め始めているようだ。

 嘴がガラスに叩きつけられる。喚き羽ばたき、何かを促す。窓に遮られ届くのは音ばかり。鳥は邪魔できない。すべては僕次第だ。

 いまだ尺取虫は手のひらで混乱している。慌ただしさはコーヒーカップで溺れかけたとき以上だ。僕は虫を哀れに思った。お前が宿っていた彼女はお前がいなくてもどうにかなるよ。特に差し障りなくこれからも生きられるよ。

 Miyajima、みやじま、宮島……。腹に刻まれた文字を変換して、近づいていく。相変わらず、距離は変わらなかった。どれだけ近づいても、彼女は線の上に立っていない。

 この記号は彼女にとって不用品になった。

 鳥の鳴き声がひっきりなしに聞こえる、騒音で穴だらけの部屋。その窓の前。僕はかぱりと口を開き、顔を上に傾けた。

 いらないならくれよ。もういいだろ。

 虫を持つ手を高く掲げた。視界の端で鳥が飛び回る。ようやく上回れた。

 左腕を下すにつれ、体を揺らす尺取虫がだんだんと大きくなっていく。灰色の体表に食欲はそそられない。けれど摂取したい、飲み込みたい。唇に虫の端が当たる。さらに口を開いて舌を突き出した。揺れる虫を舌で絡めとり、空気といっしょに吸い上げる。

 虫はどうにか脱出しようとした。逃げないでくれ、お願いだから。指を丸ごと口に突っ込み、僕は震える虫を咥内へと押し込んだ。

 虫を口に収め、僕は左手で口に蓋をする。唇の裏から突起物で突かれる感覚がした。首をもう一段階傾けて、分泌された唾液を舌で歯の方向に集める。唾で押し流さなければ飲み込めない。虫はいま、舌に巻きついている。送り込まれた空気を喉が飲み下し、湿った音を僕は聞いた。覆った手をつたって、自分の口が歪むのを知る。

 想像する。この虫に詰まっている成分を。

 緩やかな速度で変容していく彼女。名前こそが唯一、別人になっていく彼女をいままでと結びつける。だけど姓は抜け落ちた。旧姓となって、過去を表す記号になった。

 彼女から切除された過去。現在を示してはいない。悔しさが湧き出す。他人でしかないのに。僕ならばそうはさせない。自分を潰してでも、彼女の記号に染まりたかった。

 だから僕は、旧姓を飲む。脱落した彼女の一部を飲む。変容によって彼女が取り落とした成分を、僕が吸収する。体の内側で溶かして、失ったものと同化する。虫を食せば、それができる気がした。

 大きく動く彼女の手。無意味な意思の余り。非効率な恥の部分。いらないけど彼女を象徴する動作。すべてが虫に内包されている。切除された過去として。

 それを僕が持って、いったい何になるんだ。

 薄く閉じかけていた目が開く。いや、いいじゃないか。僕が欲しいんだから。焼き切れた思考が再生して回り出す。彼女は使わない。ならいいだろ、飲んでも。高速回転が僕を削っていく。咥内では虫が暴れる。唇の裏を突き、唾液に逆らい舌に絡む。不調和が起こる。

 僕が持っても無駄なだけだろ。彼女が持っているから、それが魅力になるんだろ。そこが愛おしかったんじゃないか。これは彼女が持つべきだ。飼い殺されるとしても。

 宮島でなくなっても、彼女が宮島であることに意味があるんだ。

 その思考に至ったとき、僕は瞬発的に右手で腹を殴っていた。

 口から虫が解き放たれる。激しい呼吸音と同時に、鳥の絶叫が耳に流れ込む。罵倒しているように聞こえたが、どうでもよかった。

 吐き出された虫は、唾液まみれで床に横たわった。水分を浴びて衰弱しかけている。重苦しさで、僕は窒息しそうになった。大量の鎖が首に巻きついたように思えた。

 右手で虫をすくい取る。指で、付着した唾を拭う。震えていた虫も落ち着きを取り戻し、やがて手のひらを這い始めた。僕から逃げ出そうとはしない。首の鎖が、さらに重くなる。

 床に落とした携帯端末を拾った。着信履歴の一番上をタップし、耳元にかざす。

「あのさ、さっきの件なんだけど――」

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