第3話
それから三十日近く経つが、鳥は一向に引き下がろうとしない。二十四時間、飲まず食わず眠らず。窓に張りつき、監視している。どうやって命を保っているかは定かでない。種類も生態も不明のままだ。理解できたことは一つだけ。
この鳥は、見苦しいくらい執念深い。
カーテンの隙間から、僕は外を覗き込む。忌々しい鳥が、しゃあしゃあと面を突き合わせてくる。掠れと、大砲にも似た野太さを混ぜ合わせた鳴き声が飛ぶ。墨で濡れた重い線が発射されたように感じ、僕は反射的に身を屈めた。声の残響が、耳の近くをうろうろする。舌打ちして睨みつけるが、視線は合わない。鳥は、左薬指の尺取虫に目を奪われている。僕は意識の外。敵視すらされていない。
鳥を視覚から追い出すため、僕は仕事用の椅子に座った。フローリングを蹴って机へと向く。部屋が暗いのでアームライトを点けた。吸血鬼じみた生活を強要させられてはいるが、請けた仕事はしなくてはならない。
指の柔軟をしてから、僕は鉛筆を握った。鳥の眼光が背に刺さるのを感じる。無視して、クロッキー帳にデザインのラフを描く。ときどき鳥が鳴き、やかましい。頭の中で浮かべた形状をとにかく絵として出力していく。ガラスを叩く音が後方で響いた。描き起こしたラフはどれも妙な弧線を描き、不格好な三日月を作り出している。
気を取られてはいけない。どれだけ奴の嘴が太くても、窓ガラスまでは壊せないはずだ。事実、ひと月はやり過ごした。このまま籠城を続けていれば、いつかは鳥も根負けするだろう。
そうすれば、宮島に尺取虫を返しに行ける。途中で鳥に奪われる心配もない。彼女が虫を嫌がって捨てるとしても、それは彼女が決めたことだ。宮島に何の相談もなく、彼女に潜んでいた虫を放棄していいわけがない。権利はすべて宮島にある。
彼女の一部だったものを、守らなくては。虫を預かる立場の僕には、その責任が発生している。
仕事を続けているうちに、紙に添えた左手が視界に入る。薬指に絡まった尺取虫が、堅苦しそうに頭を伸ばしていた。あるいは尻尾か。とにかく、動きたいという動作をしている。
虫の情緒ははかれない。本当なら虫に感情などないのだろうが、この尺取虫は若干理解できるように思う。犬や猫と同じように、喜怒哀楽の輪郭を掴めた。体を動かしたいときは頭か尾を遊ばせ、眠くなったらのろくなる。はかれないのはタイミング。あんなにも這い回ったと思ったら、突然止まる。虫かどうかに限らず生き物とは、簡単には噛み砕けないものなのかもしれない。
鉛筆を置き、空いた右手で虫に触れる。指全体を包むように右手で虫を覆って、指から虫を抜き取った。机に敷いた緑のカッティングマットに虫を這わせる。尺取虫は頭で周辺を確認する挙動を取ってから、意気揚々と体を反らす。
モニターとペンタブ、色のまとまりなく放り出されたコピック、消しカスと鉛筆の削り屑、植物図鑑とプリントアウトされた蜻蛉の写真。猥雑な街にも似た机を、尺取虫が横断する。入り乱れた机に虫が埋もれることはない。姿はむしろ明瞭だ。
俯瞰視点で、僕は尺取虫を観察した。移動のたびに持ち上がる上体が、重力に引かれて落ちる。一本線が丸みを帯びた。苦労して作った曲線を、虫は徐々に自重で潰す。潰した曲線の分だけ、前進する。わずか数センチ。
尺取虫は非効率的だ。共同生活での観察から、僕はそれを知った。この挙動が優位な状況もあるのだろうが、ずっと留まっているほうが有意義だと僕は思う。
その非効率がいまとなっては愛らしい。最初は気色悪いとしか思わなかったのに。大部分の無駄が、頭から体に伝達された情緒の余りに見えた。どうしても動く。制御できず、意思が理性を越えて動きたいように動く。虫に高度な知能はないとされていても、僕はそう捉えてしまう。
虫が体を反らし、腹を覗かせる。施されたMiyajimaの文字が、眼球に焼きつく。ただの虫だと排除しようとしても、僕はその記号で彼女を想起する。不可思議な接続を切断できない。虫が彼女の一部であったことを、僕は真正面から考えさせられる。
この瞬間、宮島は何をしているのだろう。結婚生活は楽しめているだろうか。いまが一番幸せなはず。話を聞くに、旦那は前の彼氏より何倍も性格がいいそうだ。相性もいいし、つまらない争いもそうそう起こらないだろう。
尺取虫はまだ這い回っている。旦那と喋るときは、やはり手を大きく振るのだろうか。虫の体が非効率に曲がる。どうだろう。本人は気にしていたし、直したんじゃないか。机に柔らかく、弧線が打ちつけられる。曲線が潰れて直線になっていく。愛らしい部分が、見慣れた部品に置き換えられる。
直ってたら、なんかちょっともったいないよな。
スマートフォンの着信音が部屋に割り込んだ。鳥の騒ぎ声とは違い、電子音は透き通っている。見失わないように虫を左手で覆ってから、僕は音の発信源を探した。資料の山に埋もれていた端末を発掘し、大急ぎで耳に当てる。
「あっ、リューちゃん。いまって大丈夫?」
宮島の声がした。おそるおそる、と身をこわばらせているのが電話越しにも伝わってくる。椅子から立ち上がり、足踏みをした。焦りを喉奥に隠し、平気そうに返答する。
「大丈夫だけど、何?」
「うん。お願いがあるんだけどさ」
打たれた相槌に気の抜けた感じこそあるが、口調から硬さが剝がれない。何か起きたのだろうか。追及したくなるが、混乱させるだけだろう。静かに次の言葉を待つ。宮島は思いきったように、言葉を一気に吐き出した。
「結婚の記念品なんだけど、リューちゃんが作ってくれないかな」
もちろんお金は払うから。付け足された常識的な補足が、僕を後ろに突き飛ばした。
「うっかりしててさ、二人して忘れてたんだよね。式挙げるとき、皿とかフレームとかも作ろうって言ってたのに」
言葉と言葉を繋ぐ少々の時間に、間延びした声が紛れ込む。自分が情けないと思った瞬間に出る、自分への呆れ声。
「誰に頼めばいいかわかんないから忘れたって話になって、そういえば部活の同期のリューちゃんが絵の仕事してたって流れになったの」
僕の名前が出て、口が緩む。口が緩む意味が分からなくて、自分に腹が立つ。双方が衝突して、声が殺される。電話中だったのを忘れ、黙り込んだ。
数秒が経つ。川の深さを確かめるように、宮島が声を投げた。
「ぶわって喋っちゃった。仕事、立て込んでたりする?」
その声で我に返る。普段通り、普段通りに。
「いや、別に。すぐじゃなくていいなら、いつものペースで納品できると思う」
「ほんとに? なら、お願いするね」
一転して、声色が朗らかになる。こちらの変化を悟られてはいない。口呼吸をしてから、僕は淡々と事を運ぼうとした。
「一応ホームページと専用のメアドがあるから、そこからデザインの要望とか書いて投げ込んで。依頼はそうやって受けてるし。あと資料として写真を何枚か、同じように送るよう頼むかも。ページのURL、あとで送るわ」
「そうなんだ。ごめん、電話しちゃって」
「いいよ。宮島が頼みやすいやり方なら」
「うん。うちの人とデザイン固めるね」
うちの人。夫や旦那のような、役割ではない形容。宮島にも内側がある。当たり前のことではあるが。宮島の内側に、新しい人間が入った。めでたいことだ、と僕は口には出さずに噛み締める。
宮島は、家ではどんな顔をするのだろう。不意に浮かんだ疑問を即座に叩き落とす。僕が気にしても仕方ないし、それは内側にいる者の特権だ。知ろうとすれば過介入になる。
頷いて、通話の終了を切り出そうとした直前だった。宮島は冗談を言う前のように、僕に呼びかける。
「リューちゃん、どうでもいいことだけどさ」
軽い笑いが空白に溶けた。
「私の名字、もう宮島じゃないよ」
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