第2話

 宮島とは高校からの付き合いだ。同じ文化部に所属していて、三年ばかり一緒に行動していた。高校卒業後は僕が地元を出たので、顔を合わせる頻度は以前ほどではない。ただ、会う機会はほかの同期と比べて段違いに多い。部活の同窓会以外にも、帰省の際には二人で食事に出かけ、互いに世間話や愚痴をぶつけ合う場を設けるほどだった。

 こうして順序立てて振り返っていると、もっと濃い風味のページが記憶に紛れていないか、探したくなる。けれど、探さない。探してもありはしない。無駄なことをして摩耗しても意味がない。無駄を省こうと思考する習慣が、以前から僕にはあった。

 実際存在しないのだから、探しても無駄ではある。強いて挙げるなら、誰にも共感されない印象が一つ。

 彼女の大振りなボディランゲージなら、いつまでも眺めていられる。他人には共有しづらいその印象を、宮島にはずっと抱いてきた。

 宮島には、話すときに体が動いてしまうくせがある。手の動きを少々添えたり、伝達を補助する動きが付いたり、その程度ならまだ一般的だろう。宮島のくせはそれらをはるかに超えていた。まったく意味のない動きが言葉といっしょに繰り出される。手指がわきわき動いていても宮島は真剣に話すので、ときたま変な光景が生まれた。

 宮島のくせを見つけたのは、高校生活が後半に差しかかったころだ。彼女はそのくせを恥ずかしがっていたが、直ることはなかった。いつまでも変わらない宮島のくせに、僕はいつのまにか安堵するようになっていた。彼女が手を大げさに動かすと、僕と宮島の時間が鈍化する。温かい沼に浸かったような感覚がした。

 この感覚は誰に対しても、たとえば家族やほかの友人にも働く種類のものだろう。かつて、僕はそう考えていたように思う。宮島がまとう独特な雰囲気を、僕が勝手に面白がっている。内輪の人間に気が緩むのと同じで、同期のくせが僕のツボにはまったのだと。抱いたのは一時的な好感で、二人が別々の道を往けば消える。この推測はものの見事に外れた。

 宮島以降、その感覚に浸れてはいない。

 摩耗したくなかった。感覚を掘り下げようとしなかった理由は、ただそれだけ。

 自分なんか擦り切れて塵になってしまえばいい。いまとなってはそう思っている。理屈を置き去りにした、包装のない熱が僕の内側で風を起こしている。

 しかし僕は塵にならず、風にも吹かれず、ワンルームの布団で目を覚ます。時間は平穏を保って流れ、部屋に朝がやってくる。

 死んでいればよかったのに。ここ最近は起き抜けに自己嫌悪がとり憑く。肌寒いから。肌寒いから悪く考える。その程度の理由だ。ぐしゃぐしゃに丸めて、嫌悪感を投げ捨てた。朝一から身軽になった僕は、息を吐きながら掃き出し窓のカーテンを開く。

 鳥が、僕を待ち構えていた。僕の左薬指に巻きついた尺取虫を、ガラスを隔てて凝視する。何も言わず、僕はカーテンを閉めた。

 奴は今日も、彼女の旧姓を狙っている。


 僕はいま、鳥を相手に籠城している。職場と寝床を兼ねたこの部屋から、一歩も外に出られずにいる。外出しようものならあの嘴でぶん殴られ、尺取虫をたやすく奪い返されるだろう。

 重い頭をなんとか持ち上げ、僕は服を着替えた。買い置きしたオートミールを温める時間で顔を洗い、髭を剃る。

 がんがぎゃあ。怪獣のような叫喚が窓とカーテンを貫通し、部屋に飛び込んでくる。その一発をきっかけに、発せられる鳴き声の数は増えていく。機関銃の一斉掃射みたく、途切れなく雪崩れ込んだ。間隙は埋め尽くされ、せまいワンルームは騒音でいっぱいになる。

 銃撃を受ける側はこれに耐えなければいけない。大変な立場だ。マフィア映画を思い浮かべつつ、僕はふやけた麦をすする。落ち着いているわけではなかった。こうなってしまっては、ただ待つ以外に方法はない。僕はそれを熟知している。オートミールにかけた塩が、舌先から僕に染み込んでいく。

 窮地に陥ったときの食事は美味いと聞くが、いまは冴えていた味覚も鈍くなってきている。舌も異変に慣れたのだろう。それもそうだ。籠城を始めてから、かれこれ一カ月が経とうとしている。

 僕は虫を持ち逃げした。

 どうすればいいかわからず、持ち帰ったというのが正しいか。動転していたあのときの僕に、正当性があるならの話だが。

 僕が虫を奪ってから、鳥は半狂乱になって会場中を飛び回った。黒い羽根をまき散らし、暴れるように飛んだ。虫を失ったのは奴にとって相当な痛手だったらしい。かなり必死になっていたが、僕に巻きついた虫を見つけることはとうとうできなかった。そのうち鳥は扉を乱暴に押し開けて出ていった。

 さて、問題になるのが残された尺取虫だ。Miyajimaと刻まれたこの虫は、元々宮島の一部だった。すべてを元に戻すのであれば、何も考えず宮島に返すべきだろう。僕自身、あの日の時点でその結論に達していた。

 しかし、僕は完全に躊躇した。この重大な選択を前にして。

 返すとして、いったいどうすれば元に戻るのか。生涯一度かもしれない披露宴を横切ってまで、声をかけていいものか。日を改めるとして、式の直後は幸せに水を差すに決まっている。そもそも、この虫は返していいものなのか。この尺取虫こそが、宮島に巣くっていた悪しき寄生虫という可能性もある。

 迷うあいだに時間が過ぎていく。撮影会の時間もやってくる。同卓に座っていた部活の同期たちといっしょに、宮島が座る花嫁の席へ向かった。

 思い返せば、直接話せる機会なんてそこしかなかったはずだ。なのに、僕は逃した。宮島の前にふらりと現れ、彼女と友人たちのじゃれ合いを眺め、写真を撮ったら席に座る。部活の面々に混ざり、その群れからは飛び出さない。飛び出せば不自然に映って、宮島にも同期たちにも怪しまれる。

 怪しまれれば、彼女の式を壊してしまう。彼女の記憶を傷つける。そう思うと何もできなくなった。

 いまは違う。他に優先すべきことがある。披露宴を台無しにされて、一番悲しむのは宮島だ。彼女が悲しむのは僕も望んでない。

 披露宴をやり過ごすうちに、会場の音楽が切り替わった。入場と同じ曲が流れ、進行役が新郎新婦に退場を促す。宮島が立ち上がる。会場を練り歩き、扉へと向かう。新郎と腕を組みながら。

 招待客が総出で彼女たちを祝う。拍手と祝福の言葉で耳が潰れそうになる。虫を叩かないよう注意して、僕も拍手に加わった。宮島の姿を目で追う。彼女は僕の席近くを通ろうとしていた。

 おめでとう。まだ言っていない。撮影会のときすら祝いはしなかった。同期たちが発した言葉で間に合っていたように思えたから。言わなければ。顔を上に傾ける。宮島はほぼ隣にまで迫っていた。

 宮島は口を緩く結び、僕のテーブルにも笑みを振り撒く。彼女と目が合う。飲んだ唾が喉を湿らす。僕は口をかぱりと開けた。

 瞬間、声が枯れる。宮島は脇を通り過ぎ、吸い込まれるように扉に消えた。硬直する僕の左手で、虫が微弱に震えたのを覚えている。

 言葉を何一つ音にできないまま、僕は帰った。虫を携え、地元から数百キロ離れたアパートへ。明日も仕事がある。立派な大人のような、身の丈に合わない理由を盾に僕は逃げ帰った。

 どうして祝えなかったのだろう。彼女の幸せを祝うことに不都合なんてない。なら、どうして。深く潜ろうとして、中断する。単に喉の調子が悪かったんだろう。

 それよりも。僕は指から尺取虫を外し、手のひらに寝かせて眺めた。結局、この虫は僕が持ったままだ。どうしようか。熟孝と眠気が混濁して、一個の解にまとまる。

 一度、様子を見る時間があってもいい。

 襲いかかる不安と無力感を、僕はねじ伏せた。ただ、ねじ伏せようが上塗りしようが、僕が虫を持ち逃げした事実は底にある。解消しない限り、僕はその事実を背負わなくてはならない。それを、僕は思い知らされる。

 鳥が追ってきた。

 アパートに戻った翌朝。ベランダの柵に、鳥は止まっていた。太い嘴を重たそうにもたげ、不気味なほどに丸い眼球で部屋の中を凝視する。あっ、と不覚を悟るがもう遅い。鳥の目が、床を這う尺取虫を見た。

 ぎゃあっぎゃあっ。エンジンがかかったかのように、鳥はけたたましく騒ぎ始めた。

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