旧姓を食べる鳥

筏九命

第1話

 オオハシに似た大きな鳥が、ずぶとい嘴を花嫁の脳天に突き立てる。それが最初だった。

 友人席から彼女の姿を眺めていた僕は、花嫁襲撃までの一部始終を捉えていた。鳥は扉を強引に押し開けて披露宴会場に侵入。シャンデリア付近を何周か旋回し、急降下して花嫁の頭に飛び乗った。嘴を花嫁の顔の向きと揃え、鳥はためらうことなく頭を振るう。振り下ろされた嘴は、剥き出しになっていた彼女の額に深々と突き刺さった。

 誰も、鳥による花嫁襲撃に気づいていない。僕を除いて。招待客に式場スタッフ、彼女の隣に座る花婿までもが、花婿の友人二人組が披露する弾き語りに釘付けだった。鳥に気づいていないのは花嫁自身も同様らしい。鳥を頭に乗せたまま、彼女の肩はアコースティックギターの音色に合わせて揺れる。鳥は刺した嘴で彼女の頭に自分を固定し、なんとか安定を保とうとしていた。

 数秒に一度、鳥は身じろぎした。痙攣するように全身を震わせ、そのたびに花嫁の頭をほじくっていく。

 奥を探ろうとしたのか、鳥が嘴を右へ動かす。連動するように彼女の肩も右に傾き、腕に当たってフォークが落ちる。鳥が今度は左に動いた。彼女も左側を向いて、スタッフに落としたフォークを手渡す。額の位置を巧みに操り、掘削を進めている。

 彼女はいま、木の洞や虫の巣と同じ扱いを受けている。そう考えると、僕はあの鳥を突如として許せなくなった。途轍もない屈辱だ。ただの鳥ごときが彼女の額をほじくるなんて。純粋な憤りに心が染まる直前、砂利のような不安が僕の思考に混ざる。

 ただの友人でしかない自分に、彼女の身を案じる権利があるのだろうか。

 よぎった考えは、自分でも意味がわからなかった。人が鳥に襲われている。助けるのが筋だろう。余計な心配事でしかない。一刻も早く、僕は動き出すべきだ。

 理性は淡々と不安を処理しようとした。鳥を排除するにはどうすればいいか、その段階に考えを移そうとする。

 けれど、一度浮上した不安に脚を掴まれた。友人席の椅子から体が剥がれない。自分の都合で迷っている場合ではないのに。行儀よく席に着いて、進行する披露宴の中で僕だけが停滞する。

 僕を嘲弄するように、鳥は頭をねじった。厚い嘴が急速回転した後、逆方向に回る。回転の勢いに乗せて頭を振り上げ、鳥は花嫁の頭から嘴を引き抜いた。

 彼女の額に出血はない。あったのは嘴の太さにはほど遠い、極小の穴だけだ。その穴も肌を爪で弱く刺したときのように、時間をかけて元に戻ろうとしている。

 鳥の嘴には、尺取虫に似た生物が挟まっていた。虫は紐状の体を必死にくねらせ、嘴から逃れようと蠢いている。

 あの虫は彼女の頭から採れたものらしい。あれが彼女にとって良いのか悪いのか、僕には判断できなかった。

 花嫁を蹴って鳥が飛び出す。反動を受けて彼女の頭が弾む。鳥は翼を広げ、虫を咥えたままシャンデリアの周囲を飛び回る。体躯に見合った丸い目玉で会場を見下ろす。この場から逃げ出すために場内の様子をうかがっているようだ。

 嘴の先端ではまだ虫が蠢いている。身をよじらせる姿は哀れに映った。空中に連れ去られてもなお、抵抗を続けている。彼女の一部だった虫が、食い潰される宿命に抗おうとしていた。

 何もしなければ、尺取虫は鳥に連れ去られるのだろう。それで終わりだ。別に、鳥は花嫁に影響を残すような危害を加えなかった。一瞥すると、彼女は花婿と談笑している。笑えているならそれでよかった。彼女が鳥に襲われたときは青ざめたが、虫のような何かが抜き取られただけなら、僕が何かしら手を下す必要はないのかもしれない。

 どちらでもよかった。趨勢が変わることに意味を求めてはいなかった。全部終わったと思っていたから。それでも僕は、テーブルに置かれたティースプーンに手を伸ばしていた。小さな金属を握り込み、鳥が僕のほうに回ってくるのを待つ。

 鳥が僕のテーブルに最接近する。座ったまま、スプーンを投げつける。幸運にも、招待客の視線は次の余興に集中していた。

 ぐぎゃっ。スプーンは鳥の眼球に命中した。短い悲鳴を上げ、鳥が墜ちる。

 まさか当たるとは。自分でも顔が引き攣っていくのがわかった。

 僕はただ、耐え難かっただけだ。また、彼女に何も関われなかった。これ以上、血管に注入される毒のような観念で体を染めたくない。半ばやけくそでスプーンを投げただけだった。

 墜落する鳥の嘴から尺取虫が零れ落ちる。鳥の旋回によって遠心力が生まれていたのだろう。放り出され、虫は騒がしい披露宴を通り抜けていく。頭と尻尾を振り回し、慌ただしく落下した。

 空を踊ってから、尺取虫は僕のコーヒーカップに着水した。水滴が跳ね、クロスに淡い円斑ができる。虫はコーヒーの中から頭を出し、水面で暴れ回った。でたらめな水紋が生まれては消える。

 僕は大急ぎで尺取虫をすくい取った。一見しただけでは正体が掴めない虫も、溺死寸前となれば見ていられない。指でつまみ、両手に包んで閉じ込める。虫は蠢き続け、濡れた状態で僕の手をくすぐった。想像した感触と寸分違わず、ただただ気色が悪い。合わせた手をわずかに膨らませ、両親指の隙間から内側を覗き込んだ。

 虫はすすけた灰と同じ色をしていた。横幅は、体を曲げて前進するのにほどよい太さだ。生物種も尺取虫で正しかったのかと思いかけたが、その体はやけに長細い。発育のいいミミズを上回るような体長。死んだカマキリから出てくるハリガネムシを連想した。

 寄生虫の映像が頭に流れる。思わず、蓋にしていた右手を開いた。生まれた隙を虫に突かれる。虫はもんどり打って体をねじり、左手の上を這い始めた。弧線のように体を曲げ、決して平らではない手のひらを移動する。

 やはり尺取虫だ、と無意味な感嘆に浸って数秒。折れ曲がり天井へ向いた薬指を虫は器用に登った。第二関節に達して、大きく体を反らす。揺れ戻る勢いを使い、虫は指に何重も巻きついた。

 一連の動作を観察して、僕は困惑した。虫が手を這い、指に巻きついたからではない。

 体を逸らしたときに見えた、虫の腹。文字が刻まれていた。読み解くまでに時間を要したが、確かに僕のよく知る言葉だった。


〝Miyajima〟


 八文字のアルファベット。ローマ字読みだと確信した。フラッシュバックのように、意味より先に音が蘇る。

 Miyajima、みやじま、宮島。

 変換を繰り返すたび、寂しさの棘が刺さる。

想起した文字に近づけば近づくほど、距離の遠さを実感してしまう。嫌になって、僕は虫から視線を外した。

 行き場を失った僕の視線はしばらく会場を漂い、最後に花嫁にたどり着く。大勢の招待客と被って、彼女を目に収めることができない。

 ある一瞬。彼女がこちらを見た。人々の隙間から、ひらひらと振られる手が見えた。僕でない誰かに応えたのだろう。カメラに手を振ったと考えるのが自然だ。

 ウェディングドレスの白に覆われた彼女。額の出た髪型を見るのは今日が初めてだ。よく似合っていた。僕が会っていた彼女とは別人のように見える。

 いや、もう別の人なのか。戸籍すら、僕の知る名前からは書き換わっている。

 地続きの存在であってほしい。いまだに考えてしまう。どちらにしても、僕には関係がない。関係が、あってはいけない。

 僕はまた、花嫁を眺めた。左手で頬杖を突けば、薬指に巻きついた尺取虫が視界に入り込む。宮島、みやじま、Miyajima……。反芻した文字を遠ざけようとしたが、最初から距離なんて変わっていなかった。

 宮島は、この式を挙げた花嫁の旧姓。

 僕にとっては、何年間かに渡って呼び続けた、彼女を表す唯一の記号だった。

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