2089/11/12 湖

「きれいなところですね」

 ボートを漕ぎながら、トラが眩しそうに目を細めた。春の昼下がり、柔らかな陽光が湖面できらめいていた。トラがカズキの屋敷に居候を始めて一年が経った頃のことだった。

「そんなもんかね。ガキの頃から来てるから、よく分からん」

 カズキはトラの対面に座って波に揺られていた。トラがボートを漕ぎたいと言って聞かなかったので、いささか手持ち無沙汰だ。幼い頃から見慣れた湖に特に真新しさは感じなかった。それでも、今回久しぶりにボートに乗ってみようなどと思ったのは、目の前にいる日本人の後輩のせいかもしれなかった。

 ここはカズキの父が湖水地方に所持していた別荘で――別荘と言っても大したものではなく、屋敷と比べれはごく小さな家だったが――すぐそばに湖があった。湖には桟橋とボートがあって、別荘の管理人が手入れをしてくれていた。

 長らくそのボートに乗ることはなかったのだが、久々の休暇にトラと二人で別荘に来たところ、トラが「乗ってみたい」と言い出し、今に至る。

(最後に乗ったの、いつだったかな)

 悪魔祓いとしての訓練を受け始めてからは、忙しくてここに来ることは稀になった。その頃にはボートに乗って喜ぶ歳でもなくなっていた。だから最後に乗ったのは子供の時だ。双子の姉は全くボートに興味を示さなかったので、カズキは父と二人でボートに乗った。

 記憶の中でオールを漕いでいる父の姿は、湖面の陽光に照らされて影になっている。心地よい波の揺れにうつらうつらするうちに、目の前にいるのが父なのか、後輩なのか、だんだんとあやふやになって。

「カズキ? 大丈夫ですか?」

 トラに声をかけられて、カズキは我に返った。こちらを覗き込む顔の、太い三角形の眉が心配そうに垂れている。

「わり、寝てたかも」

「それなら、よかったです。船酔いしちゃったのかと思いました」

 小さくトラが笑う。ボートの腹を叩く波の音。

「この陽気ですし、眠くなっちゃいますよね。戻ってから、少しお昼寝しましょうか」

「ん」

 カズキの声を肯定と受け取ったらしいトラが、ぐいと大きくオールを漕ぐ。ボートが向きを変え、そうしてゆっくりと、岸へと近づいていった。


 11月12日は霧こそ晴れたが、空は分厚い雲に覆われていた。たまさかの魔は最近にしては珍しく、昼間だというのに飛んで移動していた。そうせざるを得なかった。

 国境は徒歩で慎重に越えた。たまさかの魔の懸念通り、国境付近には無数の大砲が天を向いていた。どれも沈黙しているように見えたが、万が一を引き寄せかねないのがこの吸血鬼の体質の厄介さである。だから国境を越えてからしばらくの間、たまさかの魔は珍しく黙っていたし、カズキも(耳当てをつけられ、マフラーを巻かれて吸血鬼の腕に収まるという不愉快な状況ではあったが)比較的静かな時間を過ごすことができた。

「そろそろ、大丈夫ですかね」

 ある程度歩いたところで呟いて、たまさかの魔がカズキを抱えたまま周囲を見回した。11月のカナダには雪が積もっていた。雪といっても白くはなく、灰と塵が混ざって汚く濁っていたが、それでもなお雪と呼べるその下に、大災害の爪痕が残されているのはよくわかった。道路には陥没や寸断されている箇所が目立ち、冬も葉を落とさないはずの針葉樹林は黒く焦げ、立ち枯れていた。

「分かってはいたことですが、こちらも例外ではありませんでしたね。みんな滅んでいる」

 たまさかの魔が肩にかけたコートの袖が変形する。大きな翼の形をとって、ばさばさとやかましい羽音を立てながら浮き上がった。

「地図で確認しましたが、この辺りはほとんど森と湖しかありません。朝まで飛んでみて集落が見えなければ、しばらく粘るしかないですねえ」

 カズキはどうでも良かったので黙っていた。

 吸血鬼の懸念は的中する形となった。どこまで飛んでも見えるのは枯れた森、濁った雪に覆われた平野、そして幾つもの湖ばかりだった。湖は小さなものから大きなものまで無数にあったが、その全てが黒く淀み、死んでいた。たまさかの魔は枯れ木に触れない程度の高度を飛行していたが、それでも異臭が漂ってくる湖もあった。

「ああ、このあたりも、以前は風光明媚な場所だったでしょうにねえ」

 悲しげに吸血鬼が言う。その声色があまりにわざとらしいのでカズキは辟易した。

「どうでもいいくせに」

「おや、そんなことはありませんよ」

 ばさり、と翼を羽ばたかせながらたまさかの魔が続ける。

「湖を見ると思い出すんですよ。いつぞや、あなたのお父様の別荘に連れて行ってもらいましたよね。あなたとボートに乗って、湖に――」

 首しかないのに、カズキは全身の血が沸騰するような感覚に包まれた。ちょうど自分の口元にあった吸血鬼の手に、思い切り噛み付く。冷たい肌は北国の冬の風を受けて、いっそう氷めいていた。

「痛っ、カズキ、ど、どうしたんですか?」

 慌てた様子でたまさかの魔が聞いてくるが、無視した。

 こいつの指を食いちぎってやりたい。たとえ再生するとしても、無意味だとしても、そうしなければ気が済まない。

 いつしか唸りながら、カズキは歯を立てていた。

「カズキ、歯が痛んでしまいますよ」

 念の為と言わんばかりに、たまさかの魔が高度を落とした。そのまま崩れた道路に着地し、未だ自分の指に食らいついているカズキを宥めようとする。

「もう、うっかり俺が落としちゃったらどうするつもりだったんですか。カズキ、聞いてます?」

「うるさい」

 食いちぎってやれない悔しさと、首しかない不便さと、未だ燻っている怒りとを、吸血鬼の指と一緒にまとめて吐き出した。

「お前は、あいつじゃ、ない」

 カズキがそう言い放つと、たまさかの魔は大きく目を見開いた。そうして、困ったように太い三角形の眉を下げ――忌々しいことに、それがあの時の彼そのままで――カズキの頬を撫でた。

「でも、カズキ。俺は俺なんですよ」

 カズキは答えなかった。認める気はなかった。

 吸血鬼は小さくため息をついた。それからカズキの首を抱えなおして、とぼとぼと歩き出した。

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2089年11月、俺とあなたの逃避行 篠田石斛 @shinoda_rs_industry

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