第8話
ジョアンは次の年、子供を産んだ。カルロスが帰ってきたのは、さらに次の年の春だった。
カルロスはジョアンの子供を見て、がく然と諦念、半分ずつその顔に浮かべた。
「何故って聞いてもいい?」
ジョアンは、ほんの少し沈黙する。
謝る気はなかった。謝ってもどうしようもないことだし、謝ることを拒絶していた。
「あなたを恨んで、一生を生きたくなかったの」
この言葉は嘘ではなかった。
ジョアンだって、出来るなら待っていたかった。カルロスさえいれば幸福な自分でいたかった。そんな自分の方が、ずっと素敵だろう。でも、それがどうしても出来なかった。その上、今の自分を嫌いにもなれなかった。
カルロスが帰ってきてくれたことは、嬉しかった。
この嬉しさがあれば、女の本能を乗り越えられただろうか。そう考えて、打ち消す。それは、もしかしたらありえたかもしれないけれど、ありえなかったのだ。
これはただの感情の美化だ。
カルロスが帰ってきた時、ジョアンの中には、これなら種などもらわずとも間に合ったのではないかという悲しみや悔しささえあった。自分は売女のようになってしまったと。
ジョアンは、かぶりをふり、すべての思考を捨てる。
カルロスと二人きりで生きていくとして、その生活は十年やそこらで終わらない。
そこで、カルロスを恨まずにいられるといいきれるほど、もう自分の愛に自信は持てなかった。
それなら、今帰ってきて一緒に暮らしても、もう前のように幸福ではいられないだろう。
もうやめよう。なにもかも終わったことだ。
「ただ、恋人としてはごめんなさい」
全部を打ち切ると、謝罪の言葉が出てきた。そう、そのことについては、申し訳なかった。
カルロスは「そうか」とうなずいて、黙りこんでいた。悲しみと怒りを、隠しきれていない顔だった。
「結局、そうか......女は」
そう言って、カルロスは黙り込んだ。
何かを納得させようとするその顔に言葉に、ジョアンが覚えたのは深い失望だった。
カルロス、あなたは女をわかっていない。女の本能を愛していない。
むしろあなたは、女の本能的なあり方を捨てさせて、待たせて、それを当然だと何故言えるの?
カルロスの態度は、あまりに傲慢に思えた。許しがたかった。愛する者に、見下げられるのはこれほど苦しく、腹立たしいものであったとは。
カルロスとはそれきりとなった。あまり悲しくない自分が、ジョアンは一番悲しかった。
しばらくして、ジョアンはカルロスの夢を見た。
ジーンの花に隠れて、ふたりで笑いあった。かつての自分たちの記憶――カルロスの赤い、汗に濡れた頬。いたずらっぽい目元。
「行ってくる」そう約束を交わした、あの日ですらない。ただの日常だった光景。「好きだ」と、互いに言い合って、それだけで楽しかった、幼い記憶。
ジョアンは目を覚ました。泣きたい気持ちは、気持ちだけだ。ジョアンの頬を濡らしはしない。手を取り合った熱が、今は余韻さえも遠かった。
あの自分たちは、すべて夢だったのだろうか? 違う。ただ、もうすべては変わってしまった。
赤ん坊が、隣に眠っている。ジョアンは、空虚な切なさをうめるように、赤ん坊を抱きしめた。ふくふくとあたたかい。
目を閉じて、さっき見た夢を思う。美しい光景だった。道が分かたれていれば、いっそう美しい思い出でいられた。けれど、あの日々とジョアンは同一線上に並んでいる。
だから、もうこれまでだ。種をもらったときから......もしかしたら、もっとずっと前から。すべてはかすみがかかり、ゆがんでしまった。
「よしよし」
ジョアンは、我が子を抱きしめ、あやした。無邪気な笑顔は、ジョアンの心を照らしてくれた。
この子を産んだことを、カルロスを捨てたことを、いつか後悔する日がくるのかもしれない。夜明け前は、いつも不安と勇気で、ないまぜになる。
けれど、自分は選んだ。きっとそれが全てなのだ。ジョアンは腕の中のぬくみを信じるようにする。
やがて夜が明ける。
ジョアンは子を抱いて、ジーンの花のもとへと歩いた。自分がひらき、守っていた花畑へ。
ジーンの花は、ゆうゆうと咲き誇っていた。視界が一面にひらけ、心がそこへ広がっていく。
ミリガンが背を丸め、花を世話している。ジョアンたちに気づいたようで、ぎこちなく手を振ってきた。
ジョアンは笑って、力いっぱい振り返した。
ジーンの花 小槻みしろ/白崎ぼたん @tsuki_towa
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