ハコ――品名「夢」

香久山 ゆみ

ハコ――品名「夢」

 この箱には何が入っているのでしょう。

 ひんやりとした生活感のない空間で、私は淡々とペンを動かします。梱包された段ボールに宛名を書くことが私の仕事です。

 上手に生きることができなくて、でも、死ぬのも怖くて、四年近くずっと引きこもっていました。だけど、私ももうすぐ三十になります。このままではいけないと思い、でもやっぱり外に出るのは怖くて、友人のマコさんに相談したところ、週に一度の勤務で、他に厄介な同僚もいない、この仕事を紹介してもらいました。それでもあれこれ逡巡し、ようやく履歴書を送るのにひと月近くかかってしまいました。にもかかわらず、採用していただいたのは幸いでした。ここはとても私に合っているようです。

 私の勤め先は、お庭はあるけれどそれほど大きくもない一軒のおうちです。ここで働くのは、私と、そして、雇い主である赤穂さんの二人だけ。二階建てのおうちの二階が赤穂さんの仕事部屋です。そして、一階のダイニングキッチンと繋がる部屋が私の仕事場です。赤穂さんが梱包した段ボール箱と顧客リストを持って二階から下りてきます。それを受け取り、リストの宛名を書き、宅配業者に渡すのが私の仕事です。社会復帰したばかりの私にはちょうどいいお仕事。それに、私は男性は苦手なんですが、赤穂さんはほとんど二階でお仕事されていますし、物静かで穏やかな方なので、困るようなことも何もありません。時々、下りてこられた赤穂さんにお茶を差し出して、世間話をします。

 ですが、働き始めてひと月も経つと、さすがに少し物足りなくなってきました。だって、私の仕事といえば、ただ宛名を書くことだけなのです。それも、ほんの数個です。五つの時もあれば、発送するものができていないという時もあります。あとは、書類を片したり、掃除したり、お茶を淹れたり。すぐに手持ち無沙汰になってしまいます。

 なので、赤穂さんに、何か他にお仕事はないかお伺いしましたが、無いとおっしゃいます。二階のお掃除もしましょうかと提案しても、仕事に集中したいし、とても散らかっているので結構ですと、断られてしまいました。私が二階に上がることはありません。お客様がいらっしゃることもないのですが、あ、いえ、ありました。初老の男性が赤穂さんを訪ねていらしたのを何度かお見掛けしました。その男性は、仕立ての良さそうなスーツを着て、ポマードでべったりとお髪を固めていらっしゃって、関西訛りで少しおしゃべり。「よう、実」なんて赤穂さんに声を掛けて、ちょっと馴れ馴れしい。正直私は苦手です。ですが、男性が訪ねてくると、赤穂さんは彼を二階の仕事部屋に招き入れます。私がお茶とお菓子をお持ちしましょうかと言うと、赤穂さんはありがとうと言いながらも、私の淹れたお茶をご自分で持って上がります。なんだかつまらない。

 私ももっと赤穂さんのお役に立ちたいと思うのですが、私にお手伝いできることなんて無いのです。だって、いつも宛名を書いているこの段ボールの中身が何かということさえ、私は知らないのですから。

 赤穂さんから渡されたリストをもとに、宛先を書きます。宛名ラベルをパソコンで作りましょうかと提案したこともありますが、赤穂さんは手書きがいいんだと言いました。履歴書の字を見て君に決めたんだと。本当でしょうか。私は小学生の時こそお習字に通っていたこともありますが、別段きれいな字でもないのです。けれど、それ以来、空いた時間にはペン字のお稽古をして時間を潰すことにしました。私って単純ですね。送り先の住所と、名前と、品名。送り先はさまざまです。ほとんど個人名ですが、時々会社名の時もあります。始めて見るお名前もあれば、何度かお見掛けする名前もあります。品名には、「愛」とか「夢」とか「旅」とか。箱の大きさもばらばらです。何が入っているのでしょうか。赤穂さんが箱を持って下りてくる時には、すでにガムテープで梱包されています。隙間から覗くということもできません。こっそり箱を振ってみても、何の手ごたえもありません。赤穂さんに何が入っているのですかと尋ねても、教えてくれません。いっそ自分で注文してみようかしらとも思いましたが、注文の仕方もわかりません。

 一度、お客様からお問合せの電話が掛かってきたことがありました。何度か宛名を書いたお名前だったので、赤穂さんに繋ぐ前に、「いつもありがとうございます。先日の商品はいかがでしたか。たしか〝旅〟のご注文でしたね」と探ってみたのですが、「ええ、とても素敵な旅でしたよ。ありがとう」というお答えで、結局箱の中身はわからずじまいでした。

 一体、赤穂さんは箱の中に何を詰めているのだろう。私は何を送っているのだろう。

 とうとう我慢できなくなった私は、ある日、宛名を書いたお客さまの家を訪ねてみることにしました。もちろん赤穂さんには内緒で。ばれるとくびになるかも知れませんが、知りたいという欲求には勝てませんでした。

 こっそり書き写した宛名をもとに辿り着いたお宅は、仕事場から程近い大きな邸宅でした。緊張しながら呼び鈴を押すと、上品なご婦人が出ていらっしゃいました。発送の商品を間違えたかもしれないので確認を、とか、お客様満足度のアンケートを集計しておりまして、とか。いろんな言い訳を考えてはいましたが、私にそんな器用な真似ができるはずもありません。結局観念して、正直に事情を話して箱の中身が見たいとお願いすると、ご婦人は快く了承してくださいました。

 箱のあるという部屋に向かう途中、「箱の中には何が入っていたんでしょうか」と尋ねても、ご婦人は「とても素敵なものよ、うふふ」と言うばかりで、教えてくれません。あの空っぽの箱に一体何が? 不安と期待で胸がドキドキしてきました。

「ここよ」ご婦人が案内してくれたのは、応接間のようでした。「開けるわね」ご婦人が扉を開きました。

 瞬間、私の目に飛び込んできたのは、海。

 窓の外の広い海、そして青空に舞う楽園の花々に私は心奪われました。いいえ、ちがう。そこに窓はありません。壁には大きな段ボール箱がこちらに口を開く形で飾られています。その段ボール箱の内側に油絵の海が広がっています。広げられたダンボールの口の内側はあたかも窓枠のように絵の具が塗られています。壁にかけられた海の絵の下には作品タイトルを記すプレートが掛けられています。「品名 夢」私の書いた宛名ラベルです。「どう? 素敵でしょ」放心状態の私にご婦人が話しかけます。「赤穂さんの絵って、まるで夢が詰まったおもちゃ箱みたいでいつも楽しみにしているのよ」

 ご婦人の声を遠くに聞きながら私は楽園の海に魅入っています。海には小さな船が浮かんでいます。船には女の人が一人乗っていて、何か書き物をしているようです。

「それにしても不思議ね、赤穂さんが誰かをお雇いになるなんて。彼、ずっと家に籠もって描いていて。彼の姿を知るのは画商の山内さんだけだったから。人間嫌いの画家なんて噂されて」

 山内さんは、おそらくポマードの男性のことでしょう。では、このお仕事を紹介してくれたマコさんは、彼とどういうお知り合いなのでしょうか。マコさんも私と同じ引きこもりで、私たちはネットで知り合いました。実際に会ったことはありませんが、穏やかな文面からきっと素敵な人です。マコさんと赤穂さんもネットで知り合ったのでしょうか。赤穂さんも、マコさんに惹かれたのでしょうか。

「あ」

 絵の隅に画家のサインを見つけた私は、まるで雷に打たれたように目を瞠りました。絵には赤穂さんのサインがありました。ミノル・アコウ。

「M.AKO」

 マコ。マコさんのハンドルネームです。

 ご婦人にお礼を言って、私は走りました。赤穂さんだったんです。一人で引きこもって人生に押し潰されそうな私をいつも励ましてくれたのは。息苦しい部屋から私を外に出してくれたのは。そして――。

 仕事場である赤穂さんの家に着くと、私は階段を駆け上がりました。初めて上がる二階。迷わず彼の部屋を開けます。むせ返るほどの絵の具の匂い。カーテンの閉まった薄暗い部屋には床いっぱいに段ボール箱。壁にもいっぱいの絵が飾られています。海。森。空。星。花。楽園――。この部屋は、なんて広くて、そして、なんて狭いのだろう。段ボールのカンバスに向かった赤穂さんが、驚いて振り返ります。私は赤穂さんに駆け寄って、言葉にならず、思わず抱き締めました。彼はまた驚いて小さな声を上げました。赤穂さん赤穂さん。

 今度は私がこの箱から彼を連れ出そう。そう思うのは大き過ぎる夢でしょうか。

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