その煙草は、かつて観た海月の様に

間川 レイ

第1話

 1.

「ただいまぁ」


 なんて、我ながら白々しくなるぐらい明るく作った声が、がらんとしたアパートの一室に響き渡る。


「おかえり」


 なんてあの子の落ち着いた声も、廊下にひょっこり出す顔も、もう見る事はないと分かっている。分かっているのに、いつもの返事が返ってくることを期待してしまう。今日こそは返事が返ってくると、願ってしまう。そんな事、あるわけ無いのに。


 きっかけは本当に些細なこと。もっと広いアパートに引っ越すか、思い切って一軒家を借りるか。部屋割りはどうするか。寝室は分けるか分けないか。どの荷物は持っていき、どの荷物は処分するか。手続きはどこまでどちらが担当するか。そんな、ありふれたとまでは言えないけれど、些細な対立。些細な対立であったし、これまでも喧嘩なんて何度もしてきたから、今回も雨降って地固まるでは無いけれど、いつもの様に丸く収まる。そのはずであった。


 だけどいつからだろう。その対立が刺々しくなってきたのは。話し合いが感情的にぶつかり合うようになったのは、いつからだっだだろう。


 元々は、この家も大分手狭になってきたし、結婚こそできないものの、パートナーとして今後も生きていくつもりであったから、ちょっとぐらい贅沢をと、こんな仮暮らしではなくて一生を共に歩むパートナーと過ごすに足る家を探そうと言う、明るく、暖かい話だったのに。


 いや、拗れ始めたのは最初からだったのかもしれない。広いアパートにするか家を借りるか。どうせ一緒に一生を過ごすならと、多少無理をしてでも家を借りようと言ったあの子。子供ができるわけでも無いのに、家なんか借りてどうするのと。それに私達とて、それほど稼ぎがあるわけでは無い。そんな大きな使い方をするより、未来のための貯金に回すべきだと主張した私。今思えば私のいい方にも悪いところがあったけれど、どちらが間違っていてどちらが正しい、そんな話ではなかったはずだった。


 なのに、どうしてこんな事になったのだろう。そんな事を思いながら私1人には広すぎるベッドに飛び込んで顔をうずめる。


 きっかけというなら、寝室の話。寝室をわけるか分けないか。就職先が違う分、2人きりでいられる時間は可能な限り一緒にいたい私と、とは言え1人の時間は作りたいし、パートナーだからと言ってずっと一緒にいたいわけじゃ無いというあの子。2人の時間は作るから、プライベートな時間は欲しいというあの子に、あの子の仕事は激務でいつだって残業まみれ、2人の時間なんて殆ど確保できないと知っているからこそ2人の時間を大事にしたい私が「彼女なんだよ⁈」と泣いてしまったことは今でも悔やまれる。


 それにしたってここまで拗れるなんて。私は枕の横に置いてあった海月の人形をぎゅっと握りしめる。かつて一緒に巡った水族館。そこの水族館は各地の海月を集めていることで有名で、マスコットキャラにも海月を採用するぐらい海月に力を入れている水族館だった。


 色とりどりの触腕を気ままに伸ばして、人の作り出した水流に気ままにふわふわと流される海月たち。海月たちのためか演出のためか展示通路の照明は可能な限り落とされていて、時々によって変わるランプの光に合わせて色を変える海月たちの姿は、とても神秘的だった。


「彼らの脳はどこにあるんだろうね」なんてあの子は言って。「こうして水槽の中にいることをどう考えているんだろうね」なんて。難しいことを考えるね、なんて言って笑って。宝石みたいにキラキラ輝く熱帯魚、水飛沫のかかるぐらい近くで観たイルカショー。そうしたものも印象的だったけど、中でも記憶に残っているのは、外は馬鹿みたいに暑いのに、クーラーは寒いぐらい効いていて、繋いだあの子の手の暖かかったこと。そしてふわふわの泡に包まれ水槽の中を漂う海月たちをみるあの子の横顔。


 私達に似ているとあの子が面白がって買ったお揃いの海月型の人形。その二つともを私は抱きしめる。次から次へと過ぎ去った日ばかりが蘇ってくる。一緒に浴衣姿で行った花火大会。慣れぬ下駄ですれた指に絆創膏を貼ってくれた。たまには旅行でもと一緒に泊まった温泉旅館。「髪、結んでくれる」と向けられた火照ったうなじのエロティックな事。焼いたマシュマロが食べたいからと言ってキャンプに誘われたこともある。外はカリカリ、中はもちもちで美味しかった。そして共に見上げた降るような星空。一緒にお酒を飲んだりした。理不尽な上司、訳のわからない後輩の愚痴で盛り上がった。そんな同僚いる?と共に憤った。いろんなことを話した。いろんな時を過ごした。


 会いたい。どうしようもなく会いたい。会ってせめて謝りたい。私が悪かったからと。悪いところは治すから、どうか私を見捨てないでと。でもそれは叶わぬ夢。


 あの子は3日前から帰って来ず、LINEの既読もつかぬまま。私達の仲は取り返しのつかないぐらい拗れてしまったのだから。


 きっと、本格的に拗れ出したのは持ち物の整理をどうするかの話になってから。とりあえず住まいはアパートを借りて、寝室は別の物件を探す事になった時。どうにかこうにか条件にあう物件は見つかったけれど、2人の共用部たるリビングは今より手狭だった。それこそ、2人分の荷物がギリギリ収まるかどうかと言った具合。あの子は私の蔵書を指して言った。「この本たちも多少は整理しないとね」


 私としては信じられない思いだった。部屋に収まりきらないのなら処分の必要性もわかる。涙を飲んで処分を考えよう。だが、リビングには2人分の荷物を入れてもまだ余裕があるのだ。それに、リビングが手狭なら折角寝室を複数確保したのだ。寝室にだっておけばいいのだ。それでも手狭になるなら工夫をすればいいのだ。足らぬ足らぬは工夫が足らぬ。手狭になってからそれは考えるべきだと言った。でもあの子は頑固だった。「これからも荷物は増えるだろうし、今の段階でギリギリにしてどうするの。いい機会なんだから処分しなよ」


 私はショックだった。あの子だって私がどれだけ本を愛しているか知っているはずななのに。私は自分でいうのもなんだが愛書家だ。読書というのは魂の休息だ。読みたい本が手元に無いというのはストレスだ。大体私の手元にあるのは厳選に厳選を重ねた愛読書たちだ。いついかなる時に再び読み返したくなるとも限らない。その時その本が手元に無いことがどれだけ辛いことか、あの子だって知らないはずはないのに。だってあの子だって本を私ほどじゃないけど読むし、何より私たちは本の貸し借りを通じて知り合ったのだから。あの子の本に対する愛情は嘘だったのだろうか。そんなあっさり見捨てられるぐらいに。そう、思ってしまった。思うべきじゃないのに、思ってしまった。


 ならば私は何を信じたらいい。あんなに本について語り合ったのに。どの本が面白い、あの本が面白い。一晩中語り明かしたことだってあったのに、それは全部嘘で、ただ単に私の話に合わせていただけじゃないのか、なんて。一緒に本屋に行って好みの本を見つけたと喜びあったのも嘘、おすすめした本をはにかむように微笑みながら「面白かったよ」と言ってくれたのも嘘、お礼にと作ってくれたマドレーヌが美味しかったのも嘘なのではないか、なんて。思ってしまった。だから私は言った。言ってしまった。


「絶対にいや。死んだ方がマシ。」


 それがどんなふうに受け止められるか、考えもせずに。


 そして極め付けはお金の話。敷金、礼金はどのぐらいの割合で払うか、家賃は折半かどちらかが多めに出すか。私達はさほど稼いでいる方ではなかったとは言え、比較するならあの子のほうが断然多かった。一方は無名のベンチャー企業、かたや業界大手となれば比較するのもバカらしい。だから、あの子は多めに出すつもりだった。その分家事の割合は私を多くして。


 それでも私は同じ額を出したかった。多少無理をしてでも。荷物の件では折れてもらったし、私は割と我が強いほうだ。今まで迷惑を沢山かけて来たし、これからもかけるだろう。だから迷惑料という意味もかねて、同じ額を出したかった。借りを作らなくていい部分で借りを作りたくないと思った部分もある。だから私は意地でも同額出す気だった。でもそれは、あの子からすればとても水臭く感じられたようだった。


「私ってそんなに信用できないかな」


 あの子は初めて私の前で泣いた。静かに、ポロポロ涙を溢して。私達の中で泣くのはもっぱら私の役割だったから、あの子が泣くのを初めて見た。私は言葉を尽くして否定した。そんなことない、いつもお世話になっているからこれ以上負担になりたくないだけ。


 でもあの子は泣き腫らした目で言った。


「負担って何よ。私があなたをそんな風に思うなんて思っているわけ」


 あの子はポツリと静かに言った。


「あなたは変わったよ」


「昔のあなたは何を考えているか分かりやすかった。でも今はあなたが何を考えてるのか全然わかんない」


 何も言えない私に微かに微笑んで言った。


「それとも最初からあなたのことなんてわかってなくて、わかってる気分になってただけなのかな」


 そういうとあの子は出て行った。それが3日前。



 2.

 そうは言っても、いつまでも泣いているわけにはいかない。私達は「終わり」だ。よく鈍いと言われる私にもそれぐらいは分かっている。あんな別れ方をして、元の鞘に戻れるなんてあるわけ無い。きっと、このアパートも引き払わなければいけないだろう。私だけの稼ぎではここの家賃も払えないから。


 だから私は、鉛に漬け込まれたようにずっしり重たい体を引きずり、2人分届いた引っ越し用段ボールに私の分だけの荷物を詰め込んでいく。お揃いのマグカップ。2人で撮った写真。そうしたものを詰め込むたび私の中から何かが失われていく感覚がある。かけがえのないものが止めようもなく流れ出していく感覚。あたかも失血死するような。あの子に出会う前、死のうと思って手首を切ったときの感覚に似ている。


 でも、今の気分の方がずっと最悪だ。そんな事を考えながら片付けを続ける。思い出のかけらが次から次へとでてくる。2人で回った美術館のパンフレット。お揃いで買った銀のネックレス。思いの外十字架部分が大きくて、2人して笑ったな、なんて。そんな思い出の残骸を無個性な段ボールに詰めていく。お揃いのワンピース、お揃いのジャケット。そんなものを見るたびに涙が溢れそうになるのを必死に抑える。泣いても何も変わらないのだから。全ては終わってしまったのだから。そう言い聞かせて。


 クローゼットの引き出しを探っていると、ふと指先に固いものが当たった。手触りからして紙製。指先で押せば潰れてしまいそうな柔らかさ。それを苦労しつつ取り出してみる。


 それは、開封済みの煙草のパッケージと、空いたスペースに押し込まれたオイルライターだった。私は煙草を吸わないから、あの子のものなのだろう。それにしても、と私はパッケージをみる。ピンク色のラメの入った可愛いパッケージに、使い込まれた感じのあるオイルライター。私はあの子が煙草を吸うだなんて知らなかった。だって私の前で吸うそぶりも見せなかったから。それはきっと、私が煙草も、煙草を吸う人も嫌いだと言ったから。


 だからその煙草はクローゼットの中に隠されていたのだ。かつて見た水槽の中の海月のように。ふわふわのお揃いの衣服に囲まれて。


 そう思うと、無性に胸が苦しくなって。抑えていたと思った涙がまた後から後から溢れてきた。


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その煙草は、かつて観た海月の様に 間川 レイ @tsuyomasu0418

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