3 失敗は失敗のもと

目を覚ますと時刻は夕方の六時過ぎで、すでに一日が半分以上終わってしまっていた。

布団から起き上がり、何か飲もうと台所のドアを開けると、そこには人が居た。

 「よかったです……目を覚まされたのですね」

 そこに居たのは代行人だった。

 声で女だというのは分かっていたが、実際に見てみると、そこに居たのは殺人代行人という呼び名があまり似つかわしくない、同い年くらいの綺麗な女の子だった。

 「君、そういう顔だったんだな」

 僕の口から無意識に、そんな言葉が飛び出した。

 「えぇ、私の顔に何かご不満ですか?」

 「いいや、そういう訳じゃない」

 ポットのコーヒーをコップに注ぎ、それを代行人の前に差し出した。

 「何か飲んだ方がいい。コーヒー飲めるか?」

 代行人は頷いてコップを受け取ると、コーヒーをひとくち口に運んだ。

 しばらくお互いに沈黙を過ごしたのち、三口目のコーヒーを飲み終えた代行人が先に口を開いた。

 「あの……申し訳ありません」

 代行人が深々と頭を下げた。

 「いったい何のことだ?」

 「昨日のことです。怪我を負わせてしまったこともそうですが、なにより依頼を成功させることが出来なかったことについてです」

 「そのことなら、僕は腹を立てるどころか、君に感謝している」

 僕は言った。

 「失敗してよかった。正直、衝動的になっていた部分があったし、殺したいくらい憎い奴がいても、本当に殺すのはいささかやりすぎだと思ったよ。自分が殺されそうな状況になった時、初めてそれに気が付いたんだ」

 「言っておきますが、私なんかに気を遣う必要も、私の失敗を庇う必要もありませんからね? 私はあくまでも、自分自身のせいで失敗を引き起こしたのですから」

 「分かってるさ。僕は本当に思ったことを言っただけだ」

 僕が表情を変えずに言うと、代行人は小さな声で呟くように「そうですか」と言った。その姿にはどこか寂し気な雰囲気があった。

同時に僕のこころの中が僅かに騒いだ。

その感情を僕は良く知っていた。僕は気を紛らわすためにコーヒーを口に運んだ。殺人代行人に対してそんな感情を抱くのは見当違いにも程がある。

 「それを飲み終わったらここを出て行ってくれないか? 知らない人間が居るというのがどうにも居心地が悪いんだ」

 僕はわざと突き返すような口調で言った。

 代行人に妙な感情を抱く前に、はやく姿を消してもらいたかった。

 すると、代行人が気分を害したような表情で言った。

 「余程私のことが嫌いなのですね。まあ、仕方がないですけど。人殺しと同じ空間に居て嫌に思わない方がおかしいですから」

 そういうわけじゃない、と言おうとしたのだが、代行人はすくり、と立ち上がると玄関の方に歩いて行った。

 「それでは人殺しの私はこの辺で退散することにします。コーヒーご馳走様でした」

 「ああ、気をつけろよ」

 「はい。あなたのような不人情な人に会わないように気をつけます」

そう言うと、代行人は玄関の戸を開けて出て行った。

 こんな別れ方をしたのだから、代行人とは二度と会うことはないだろうと思っていたのが、僕はすぐに代行人と再会することになる。それもその日のうちに。


 時刻が十時を過ぎた頃、僕は小腹を満たすためにコンビニに向かおうとしていた。

あの後確認すると、上の服は着替えさせられていて、腹部の傷は包帯とガーゼで綺麗に塞がれていた。痛みもそこまで酷くなく、数日もすればそこに傷があったことも忘れてしまいそうだった。

結局、代行人が言ったことが正しかったと言うわけだ。あそこで、過剰に反応した僕が救急車を呼んでいたら、僕は今頃取り調べをうけていることだろう。

玄関の戸を開けると、雨が降っていた。

僕はビニール傘を抱えて、アパートの階段を下りて行った。

 階段を降り終わり、傘を開こうとしたその時、僕は背後に人の気配を感じて振り返った。

 そこには代行人が居た。

 階段の真下にうずくまり、膝を抱えて顔を埋めていた。

 全身雨でぐっしょり濡れていて、寒さで小刻みに揺れている。

 「こんなところで何してるんだ?」

 僕は代行人の頭上に傘をさして言った。

 代行人は顔を隠したまま答えた。

 「何もしていません」

 「そうか、僕には君が困っているように見えるんだが。もしかして、この雨で帰れないのか? だったら傘を貸すくらいしてやるさ」

 「必要ありません」

 「ならどうするんだ。この雨じゃ帰れないだろう? まさか止むまでここに居座る気じゃないだろうな?」

 「違います」

 「それなら尚更どうするつもりなんだ? そもそも、出て行ったのは三時間近く前じゃないか、今まで一体ここで何してたんだ?」

 僕が問い詰めると、代行人は黙り込んだ。それは単なる沈黙と言うよりは、自分の中で何かを取り決めているような、そんな感じだった。

 しばらくして代行人がぽつり、と呟いた。

 「私は近いうちに殺されます」

 「冗談だろう?」

 僕は思わず聞き返した。

 すると、代行人はゆっくり首を横に振った。

 「いいえ、冗談ではありません。私は機関から確実に殺されます。昨日の一件で、私は仕事を失敗してしまいました。それどころか依頼人のあなたを傷つけるという大失態を犯してしまいました。機関からすれば私なんて邪魔な存在に過ぎません。ですから、もし機関に戻ったのなら、私は……尾を引かず消されてしまうでしょう」

 「いくらなんでも考えすぎなんじゃないか?」

 僕は傘をさしたまま代行人の傍に腰を下ろした。

 「たかが一度失敗をしたくらいで殺されるなんて、あり得ないだろう?」

 「それがあり得るのですよ」

 代行人は言った。

 「もともと私は殺人代行人の中でも最下層の部類に居ました。そこにいる人たちはみんな何らかの事情で機関に入ることを強制させられた人たちで、私もその中の一人でした。通常、そこにいる人たちには依頼の仕事は訪れません。普通ならダークウェブのサイトの管理などを仕事とし、上が要らないと判断したら消される。それだけの役割です」

 代行人は続けた。

 「ですが、先日なぜか私のもとに依頼の仕事が入ってきました。それがあなたからの依頼だったのです。私はもちろん仕事を受けることになったのですが、私は最下層の人間ですからある条件が言い渡されました」

 「それがもし失敗したら消される、というものだったんだな?」

 なんとなく話は分かった。

 「はい。上層部は私の今後を決めるいいタイミングだと思ったのでしょう。私が依頼を成功していたら、これからも殺人代行人として仕事を与えようと思っていたのかもしれません。ですが、あなたからの依頼を成功させることができなかった私には、残念ですが、その機会は訪れないでしょう。今機関に戻っても最下層の人間に相応しい最後を迎えるだけです」

 「なるほどな」

 「ですから、放っておいてください。どの道私は死ぬのですから、風邪をひいたって構わないのです」

 僕は黙って代行人の方を見る。

 傘から落ちた雨水が彼女の髪にぽつり、と落ちた。代行人は相変わらず寒さで震えていた。

 「そうだな。確かに風邪を引こうが、ここで死のうが君には構わないことかもしれない。だが、ここで死なれたら困るんだ。考えてみてくれ、自分のアパートの下で女の子が無惨な姿で息絶えている様子を」

 「確かにそれは迷惑ですね」

 代行人は実に面倒くさそうに答えた。

 「だろう?」

 代行人はおもむろに立ち上がると、僕に向かって言った。

 「傘を貸してください。どこか別の場所に行きます」

 代行人は僕の手から傘を奪うと、背を向けて歩き出した。

 僕はそんな代行人の手首を掴んで引き留めた。

 「貸してくださいって、まるで返しにくる気があるみたいだな」

 「何が言いたいのですか?」

 「とりあえずシャワーでも浴びてくれ、本当に風邪引くだろ」

 僕がそう言うと代行人は振り返って、僕を見た。

 「えぇと、確認ですが、つまり、私にシャワーを浴びろと言っているのですか?」

 「それ以外にどう聞こえるのさ?」

 僕が言うと、代行人は困ったように言った。

 「いえ……ですが、どうしてそんなことをいうのだろうと思ったのです。今のあなたに私にそうする理由はどこにもないではないですか」

 「こっちは二十万も払ってるんだ」

 僕は言った。

 すると代行人は少し考えてから、思い当たったように言った。

 「要するに、私に二十万円を返して欲しいと言うことですか?」

 「捉え方によってはそうなるかもしれない」

 「あなたは相当、一文惜しみなのですね。ですが、ここで私が文句をいう筋合いもありません。分かりました。それでは一度シャワーを借りさせていただきます。話はそのあとでしましょう」

 そう言うと、代行人は傘を僕に返してきた。


 代行人がシャワーを浴びている間、僕は居間で待機していた。

僕がまどろみに飲まれてしまいそうになっていると、代行人がバスタオルで髪を拭きながらやってきた。

 「タオル、勝手に使わせていただきました。それとジャージも貸していただいて、ありがとうございます」

 「構わないさ」

 僕は代行人に座るように指示した。代行人はそれに頷くと妙に改まった様子で正座をし、背筋をぴんと伸ばした。

 「まずは、シャワーを貸していただき、ありがとうございます」

 「さっきも言っただろう? それくらい構わない」

 僕がそう言うと代行人は「ええ、ありがとうございます」と言って、続けた。

 「さて二十万円の話ですが、今すぐに返すことはできません」

 「ああ、返さなくていいさ」

 「そう言ってもらえて助かります。ではまた後日ちゃんと持ってきます。安心してください。何とかして、殺されるまでに必ず返しますから」

 「君は何か勘違いしてないか?」

 僕は言った。

 「勘違い、ですか?」

 「そうだ」

僕は頷いた。

「僕は二十万を返さなくていいと言っているんだ」

 僕が言うと代行人は驚きとも、蔑みとも捉えられるような調子で、僕の言葉を口ずさむように繰り返した。

 「それは一体、どういうことですか?」

 「そのままの意味さ。僕は君に二十万を返してほしいなんて思っちゃいない」

 「でもさきほど……」

 「あれはそうでも言わないと、君が聞く耳を持ってくれないと思ったからだ」

 「では、私はただ他人の家に上がり込んで、シャワーを浴びただけということになるんですね」

 「そうじゃない」

 僕は言った。

 「二十万は返してもらわなくていい。だが、その代わりに僕に罪滅ぼしをさせてほしいんだ」

 「はい? 何を言っているのですか?」

 首を傾げる代行人に僕は説明した。

 「君が殺される要因を作った張本人は、紛れもなく僕だ。僕が依頼なんかしなかったら君が失敗することもなかったはずだ。だから、どうか僕に罪滅ぼしをさせてくれ」

 「前にも言いましたが、失敗したのは私自身の問題であり、あなたは何も悪くありませんよ」

 代行人は困惑したように言った。

 「そうかもしれない。僕がしようとしていることは、とんだ筋違いなのかもしれない。それでも、たとえ筋違いでも、僕はあくまでも僕のために、君に償いをしたいんだ」

 「要するにあなたの自己完結のために私を利用したい、そういうことですか?」

 「酷い言い方をするとそうなるな」

 「酷くない言い方、というと?」

 「人助けだ」

 そう言うと代行人は皮肉っぽく言った。

 「そうですか。では、あなたはいったい私に何をしてくれると言うのですか?」

 「言っただろう? 人助けだ。僕はこれから君が殺されない方法を見つける」

 「無理ですよ」

 代行人が即答した。

 「機関から逃げることはできません。機関は私の居場所くらい、すんなり見つけしまうでしょう。仮に運よく逃げ切れることができたとしても、彼らは何らかの手段を駆使して居場所を突き止めるはずです。携帯電話の使用履歴で私が何日の何時にどこに居たのかくらい容易く分かってしまいますし、街の防犯カメラをハッキングすれば姿さえもはっきり表立ってしまいます」

 僕は黙って代行人の言葉を聞いた。

 「私が殺されない未来なんてないのですよ。ですから、あなたが今望んでいることは叶いません」

 「いや違うな。必ずどこかに突破口はある」

 「随分、自信過剰ですね」

 代行人が言った。

 「ですが自信だけではどうにもなりません。もっと目の前にある事実に目を向けた方がいいですよ」

 代行人はそう言いながら台所へ行き、小窓から殺人的に降る雨を眺めた。軒天から雨粒が落ちる音が心地よかった。

 「やみませんね」

 「この調子じゃ明日の朝まで降るだろうよ」

 僕は居間から台所に向かって言った。

 「そうですか、それは困りましたね」

 「そうだな、非常に困っているように見える」

 「何ですか? それ。嫌味ですか」

 代行人が台所から戻ってきて、また僕の前に腰を下ろした。僕はテーブルから体を離し、床に仰向けになって天井を眺めた。

 「あいにくこの家には布団が一つしかない。だが、妙なことに僕は床で寝るのがひどく好みなんだ」

 「はい?」

 代行人が首を傾げる。

 「もしかして、泊まれと言っているのですか?」

 「言うまでもない」

 僕は答えた。

 すると代行人は一息置いてから、刃物のような口調で言った。

 「嫌です」

 「だろうな」

 「そう思うならどうして訊いたのですか?」

 「どうしても何も、僕はただせっかくシャワーを浴びたのに、どうしてまた濡れるようなことがあるだろう、と思っただけだ」

 そう言うと代行人は呆れたように言った。

 「私に言わせれば、見知らぬ人の家にやすやす、と泊まることの方が不思議に思えますけどね」

 「確かに一理あるな」

 僕はそう言うと部屋の時計を確認して、居間の電気を消した。日付ももうすぐ変わりそうだった。

 「君が決断するまで起きていられる自信がない。僕はこれからここの床で寝ることにする。信用できないかもしれないが、僕は夜中に女の子の布団に忍び込むなんてことは絶対にしない。そうする勇気も意志も持ち合わせてないからな。だから、君が出て行くならそうすればいい。でも、少しでも僕という人間を信用する気に慣れたなら、そこの押入れから布団を出して寝るといい。どちらにするかは君の判断次第だ」

 「馬鹿なのですか?」

 「どこまでも本気さ。疲れてるんだ、僕は寝るぞ」

 僕はそう言うと腕を首に敷いて、睡魔が迎えに来るのを待った。

 代行人はなかなか動かなかった。

 当然だ。こんなよく分からない人間を疑わない方がおかしい。

 しばらくして、背後でごそごそと物音が聞こえた。

 それは玄関の扉を開ける音、ではなかった。

 押し入れを開ける音だった。

 布団を敷く音が止むと、足跡が近づいてきた。そして、微かに消えるような小さな声で「ありがとうございます」と聞こえた。

 消え入る意識の中で、僕は代行人が自分のことを僅かではあるが信用してくれたことに喜びを抱いた。あるいはそれは夢だったかもしれない、とも思った。


 夜中、喉の渇きで目が覚めた。台所で水を飲んでから居間に戻り、また床で寝ようとしていると、代行人の布団が動く音がした。

 寝返りを打っただけだと思ったが、そうではなかった。

 「私は」

……………………。

 「私は何のために生きてきたのでしょう?」

 僕は反応するかどうか迷って、結局何も言わなかった。

 すると僕が眠ってしまったと思ったのか、代行人は続けた。

 「私はこんなところで殺されるために生きてきたのでしょうか? まだ何も成しえていないのに、ここで死ぬのでしょうか?」

 僕はずっと壁を眺めていた。

だから、代行人の姿はいっさい見えていなかった。だが、それでも声の変わり具合などから、代行人が泣いていることはなんとなく感じ取れた。

 「私、生きたいです。生きたいですよ、まだ。さっきはあんなことを言いましたが、本当はまだ死にたくありません……」

 「なら、生きればいい」

 僕は言った。

 「起きていたのですか?」

 代行人は「それならそうと言ってくださいよ」と言った。

 「盗み聞きして悪かった。すぐ寝るさ」

 僕は目を瞑った。

 瞼の先には真っ暗な闇だけが広がっていた。

 「なあ、代行人さん。寝る前にこれだけ言わせてくれないか」

 「……はい、何でしょう?」

 「一人じゃ持てない荷物も二人だったら、いくらか軽くなる。覚えていて損はないと思う」

 「はい?」

 代行人が「いったい、どういう意味ですか?」と訊いてきたが、僕は黙って夢の景色に身をゆだねた。



 翌朝、僕が寝ぼけた目を擦りながら台所へ行くと、代行人が台所に向かってなにやらひそひそと手を動かしていた。

 代行人は僕に気づくと、手を止めて言った。

 「すみません、勝手に色々してしまって」

 「構わない。ところで何をしているんだ?」

 「料理です」

 「何だって?」

 僕が驚いて声を上げると、代行人は申し訳なさそうに言った。

 「迷惑でしたか?」

 「いいや、料理をする分にはまったく問題ないんだが、ただ、どういう風の吹き回しだ、と思っただけだ」

 「というと、どういうことでしょう?」

 代行人が首を傾げた。

 「上手く表現できるか分からないんだが、てっきり僕は君に嫌われているものだと思っていたんだ」

 「嫌われていましたよ」

 代行人は言った。

 「あなたが私から嫌われていたのは事実です。ですが、昨夜の一件で私の中のあなたに対する認識が変わったのですよ。あなたは私に生きていていい、と言ってくれました。たったそれだけのことですが、それだけで私の抱えていたものがすっと軽くなったのですよ」

 あなたの言った通り、二人だと軽くなりますね、と代行人は微笑んだ。

 「あの状況だったら、誰でも同じことを言うさ」

 「いいえ、普通ならあんな事言いませんよ。だって私人殺しなのですよ。それにあなたにも怪我を負わせてしまいましたし、普通なら殺されて当たり前の人間です。それなのに、あなたは……」

 「分かった、分かったもう充分だ」

 恥ずかしさのあまり、僕は代行人の発言を中断した。長いことそういう経験がなかったからか、人に感謝されるというのがなんだか居心地の悪いものに感じた。

 「この話はもう止めにしてくれ」

 「……分かりました。では朝食にでもしましょうか」

 「ああ、そうしよう。何か手伝わせてくれ」

 「あなたは座って待っていてください。もう少しで出来上がりますので」

 言われた通りテーブルに腰かけて三分ほど待機していると、代行人が冷蔵庫の残り物で作ったオムレツとサンドイッチを運んできた。

 「お口に合うか分かりませんが」

 「合うに決まっているさ」

 そう言うと、僕はサラダサンドを口に運んだ。

 「料理、上手なんだな」

 「そんなことはないですよ。ただ、小さいころからやっていましたので」

 それから僕はオムレツを半分食べ、台所へ行きコーヒーを淹れなおしてから、またテーブルに座り、残りのオムレツを食べた。僕が三杯目のコーヒーを注いで戻ってくると、代行人が唐突に身を乗り出して言った。

 「あ、あの、あなたにひとつやってほしいことがあるのです」

 「頼み事か?」

 僕は訊いた。

 「はい。私の立場でするようなものではない、と分かっているのですが」

 「いいさ」

 僕は即答した。

 「ちょうどいい罪滅ぼしになる」

 「ならいいのですが」

 「それで、その頼み事っていうのは?」

 「はい。私は機関から逃げることはできない、と以前に言ったはずです。そうですね?」

 「ああ」

 僕は頷いた。

 「そう、その通りなんです。あの時私が言ったことはどこも間違っていないのです」

 「分かりやすく話してくれると助かる」

 「つまり、機関から逃げることはできないのです。以前にも言った通り、機関は携帯の使用履歴や、その他の様々な情報から私の居場所を突き止めます。ですから、姿をくらますことはほぼ不可能に近いと言えます。ですが、それは裏を返すと情報がなければ私を見つけることができない、ということなのです」

 代行人は続けた。

 「要するに私という存在を消してしまえばいいのです。そうすれば、機関は私を見つけることができません」

 「その手伝いを僕にしてほしい。要はそういうことだな?」

 「はい」

 「具体的に僕は何をすればいいんだ?」

 僕は胡坐を組みなおしてテーブルに両肘をついた。

 すると代行人が背筋をぴんと伸ばして、恥じるように言った。

 「あなたには私と結婚してもらいます」

 「何だって?」

 僕は思わず聞き返した。

 「ですから、あなたは私と結婚するのですよ」

 「いったい何のために?」

 と僕は口に出してからその意図に気が付いた。

 「まさかとは思うが、結婚して名字を変えるなんて言わないよな?」

 「そう、そのまさかですよ」

 代行人は机の端に置いてあるパソコンの方を見て、言った。

 「昨夜、あなたが寝た後に少し調べさせてもらいました」

 勝手に使ってすみません、と代行人は謝った。

 「それは別に構わないが」

 「そこで分かったことなのですが、名前は役所で手続きをすれば親の承認などは必要ないのに対して、名字はそうはいかないらしいです。ですから、名字を変える手っ取り早い方法となると、やはり結婚して名字を変えることになります」

 「なあ、こんなことを言うと気を悪くするかもしれないが、自分が今どれくらいとんでもないことを口にしているか分かっているのか?」

 「酷いですね。手伝いたいと言ったのはあなたですよ?」

 「そうは言ったが……」

 僕は言葉を中断して、息を吐いた。

 いくら何でも急すぎないか、と言うつもりだったが、やめておいた。そうなる理由もそうせざるを得ない理由も僕にははっきり分かっていたからだ。

 僕はどう言うべきか悩みながら、代行人の表情を窺った。すると、僕の視線に気づいた代行人が目をそらし、おもむろに口を開いた。

 「やっぱりなんでもないです。殺人代行人の立場で、こんなことを頼む資格なんてないですよね。忘れてくれると助かります」

 自身を無理やり正当化しているような口調だった。

 「ああ、そうだな。君はどうしようもなく愚かだ」

 「そうでしょうね」

 「僕がまだ答えを出していないうちに引こうとするなんて、愚かにもほどがある」

 「はい?」

 代行人が困り顔で首を傾げた。

 僕は構わず続けた。

 「その『結婚して名字を変える』という案、悪くないんじゃないか?」

 「えーと、それはつまり結婚してくれるということですか?」

 「それ以外に何があるって言うんだ?」

 僕は答えた。

 「いえ、あまりにも意外な答えだったので」

 「君には、僕が随分卑屈に映っているみたいだな」

 「そういう訳ではないんです。ただ、こんな話受け入れてくれるなんて思っていなかったので」

 「そう思うなら、はやく事を進めた方がいい。僕の気が変わらないとも限らないからな」

 「そうですね」

 と答えた代行人だったが、まだ内心動揺しているように見えた。僕もかなり動揺していたが、代行人に気づかれないように表面上は冷静を装った。

 「詳しいことは分からない。だから時間はかかると思う。そこは許してくれ」

 「はい。大丈夫です」

 代行人は頷いた。

 「それで、まずは何をすればいい?」

 僕が尋ねると代行人も「詳しくは分かりません」と言ったので、僕はパソコンを起動して結婚の手順について検索した。そして、その内容を簡易化して代行人に伝えた。

 「ということは、何をするにも、まず婚姻届がなければいけないということですね」

 「どうやらそうらしい」

 僕は言った。

 「それと、僕は十八歳だから問題ないんだが、君はいくつなんだ?」

 「安心してください。ちゃんと成人していますよ。この間、十八になったばかりです」

 「それならよかった」

 僕は胸を撫でおろした。

「それなら、今からでも役所に行くとするか」

 「今からですか?」

 「ああ、早い方がいいだろう?」

 「ええ、それはそうなのですが……私は行くことができませんよ?」

 「機関の連中ってのは、そこまで深追いするものなのか?」

 僕が訊くと代行人は「ええ」と首を縦に振った。

 「それなら一人で行くことにするさ。それでいいだろう?」

 「はい。あなた一人に任せてしまって申し訳ありません」

 「気にすることはない」

 僕はサンドイッチの皿を流しに入れると、玄関へ行き、コートを身にまとい、外出の支度を整えた。

 「家のものは好きに使って貰って構わない。昼までには戻るようにするよ」

 ドアノブを捻ると、隙間から冷気が流れ込んできた。

 「それじゃあ行ってくる」



 婚姻届を片手に役所を出ると、肌をひっかくような寒さに襲われた。

婚姻届を半分に折り、念のため上着のポケットに入れると、僕はアパートとは反対方向の道に足を進めた。

 少し冷静になる時間が必要だ、と思った。

 僕が今していること、そして今からしようとしていることが、冷静になればどんなに馬鹿げたことなのか、一度頭を冷やして考えるべきだと思った。

 少し歩いた場所にある公園に寄った。小学生くらいの頃によく通った公園だ。

 僕はそこのブランコに腰かけて、風に揺れる草木たちをじっと眺めた。

 いったん状況を整理した方がよさそうだった。

僕は代行人と出会ってから今に至るまでの大まかな流れを頭で復唱した。

人を殺そうとして出会い、雨の中シャワーを貸して家に泊め、命を狙われているのが自分の依頼のせいだと知り、代行人を助けるために結婚することになり、役所で婚姻届を受け取り……。それを八回ほど繰り返して、理解できないのは回数の問題ではないことに気づき、そこでやめた。

これ以上繰り返したところで僕が望んでいるような結果は得られない。そう思った。

少しずつ空が曇り始めていた。

雪が降るかもしれないな、と思った。

僕は一回だけブランコを漕いでから公園を後にした。


 「随分遅かったですね」

 居間に入ると、代行人が正座をして待っていた。

 「悪いな」

僕はそう言うと、上着のポケットから婚姻届を取り出して、テーブルの上に置いた。

 「早めに書けるところは書いてしまいましょうか」

 「ああ、そうしよう」

 「あなたが先に書いてください」

 「僕も丁度、君に同じことを言おうとしていた」

 僕は油性ボールペンを持ってきて代行人に渡そうとしたが、代行人はそれを押し返してきた。

「あなたが書き終わり次第、私が書くとします」

 仕方がないので、僕は氏名の欄にペンを走らせた。

 

 冬平 兼影

 

 「珍しい名前ですね。どう読むのですか?」

 「かねとし、だ」

 「かねとし、ですか……?」

 「ああ、そうだ」

 僕が答えると、代行人が驚いた様子で言った。

 「ぴったりですね……………私たちの関係に」

 「いったい何のことだ?」

 「あなたの名前ですよ。かねとし………。『金』と『死』。まさに、私たちのことですよ」

 代行人の言葉を頭の中で変換する。

 金と死・・・。

 ああ、確かに、よくできた偶然だ。

 大金をはたいて殺人依頼をした僕と、その代行人。

 まるで、最初から僕たちが出会うことを予測していたような。そんな。

 僕は、意識を婚姻届に戻す。


     ふゆひら かねとし


その他の必要事項も記入した。

僕が保護者の欄を書いていると、代行人が婚姻届を覗き込んで言った。

 「以前から思っていたのですが、この家にはあなた一人で住んでいるのですか? ご両親は?」

「両親は僕が中学生の頃に死んでいるんだ」

代行人が控えめに目をそらすのが見えた。

「交通事後だった。二人で電車に乗っていた時にいわゆる、脱線事故というやつだったそうだ。他にも亡くなった乗客はいたけど、ほとんどが軽傷で済んだらしい。行き場を失った僕はしばらく親戚の家に居たんだが、なんとなくきまりが悪くてさ、高校で一人暮らしを始めたんだ。実を言うと今は叔母から仕送りを貰っていてな、それで一応生活させてもらってるんだ」

書き終わった婚姻届を、代行人の前にそっと置く。

「君を助けようと思ったのも、そういう体験があってなのかもしれない。もしかすると自分で気づかないところで、人が死ぬことを恐れているのかもしれないな」

代行人にペンを渡す。

「殺人代行を依頼しておいて、よく言えますね?」

「ああ、大した戯言だと思うよ」

「まあ私も人のこと言えませんけどね」

代行人がそう付け加えて、微笑んだ。

僕はどうしても、代行人のその笑顔を殺人犯のものとして見ることができなかった。

例えば、普通の女の子が綺麗な花を見て笑う。僕にはそんな風に見えて仕方がなかった。

「冬平さん」

代行人が僕の名を呼んだ。

「どうかしたか?」

「その・・・私、名前がありませんでした」

「そういえばそうだったな」

「はい。今の名前で結婚しても、後から変更があると面倒なことになるので、名前の変更を先にする方がいいかと思います。明日にでも私、行ってきますよ」

「ちょっと待ってくれ、外出が危険だと言ったのは君だろう?」

「そうですよ。機関の制服で外に出るのは危険です。ですから、冬平さん何か着るものを貸してください」

「初めからそうしてほしかったもんだ」

「仕方ないじゃないですか、今思いついたのですから」

代行人が不機嫌そうに返した。

 「使わなくなった服しかないんだが、それでいいか?」

 「はい。問題ないです」

 僕は押入れに置きっぱなしになっていたセーターを引っ張り出してきて、代行人に渡した。

 「少し大きいかもしれないが」

 「いえ、着られれば充分ですよ」

 「それはよかった」

 僕は再びテーブルに腰を下ろして、言った。

 「さっきの話なんだが、やはり君ひとりで行くのはどうにも危険な気がするんだ。だから二人で行くことにしないか? 明日は補習があって午前中は無理なんだが、その後なら時間はある」

 「随分心配してくれるのですね」

 代行人は言った。

 「分かりました。ではそうしましょう」

 「それと、もうひとつ、明日学校で証人になってくれそうなやつを探してくるさ」

 「証人、ですか?」

 「ああ、どうやら結婚には証人ってのが必要らしいんだ」

 僕が婚姻届に指をさしながら説明すると、代行人は納得したように頷いた。

 「なるほど。では明日の午後に役所に向かうことにしましょう」

 「ああ」

 僕は軽くうなずいてから、証人になってくれそうな人物を頭に思い浮かべようとした。だが、人脈に乏しい僕はそれが上手くできなかった。

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