2 計画開死
予想していた通り、僕が歌い終わった後の部屋の空気は静まりかえっていた。その沈黙を破るように柿本が拍手をした。
「冬平君、よかったよ。勢いがあって凄くよかった」
「そりゃどうも」
僕はカップのコーヒーに手を伸ばしながら言った。
「次、俺歌うな」
司野が僕からマイクを奪い取って、そう宣言した。そうか、僕の後に歌って自分を持ち上げようという魂胆だな。流石だ。卑怯な人間性がただれている。
司野は流行りのJポップを入れた。
司野が第一声を歌い上げたのと同時に、僕の携帯が音を立て震え始めた。僕はポケットから携帯を取り出しアラームを解除した。
「悪い。電話してくる」
僕が席を立つと、柿本が「行ってらっしゃい」と返事をした。司野は横目で僕を見ると、すぐにモニターに目を戻した。
部屋を出ると、僕はすぐそこの壁に寄りかかりメールを確認した。するとやはり、ダークウェブからメールが来ていた。
『時間どおりですね』
「当たり前だ。忘れないようにアラームをかけておいたからな」
『そうでしたか。それはいいことです』
メールの相手は僕に感心した。
『さて、本題に入りますが、計画の実行は今日でお間違いありませんか?』
「ああ、問題ない」
『それでは、計画実行についていくつかお尋ねしたいことがあるのですが』
「勝手にしてくれ」
僕はできるだけ手短に済ませたいんだ、と送った。
『では、標的の特徴を教えてください』
「特徴か?」
『はい。計画実行の際に目印とさせていただきます』
なるほどな。僕は扉のガラスから司野の服装を確認した。
黒のジーンズに白のTシャツ。今は室内だからTシャツだけだが、外では趣味の悪い虎が描かれたジャンパーを着ていた。
「黒のジーンズに、白いTシャツ、上着には虎が描かれている」
僕は簡潔に伝えた。
『かしこまりました』
とメールの相手は注文を受けたウエイターのように答えた。
ドア越しに、司野が歌を歌い終わったのが分かった。そろそろ戻らないとまずい。僕は会話を終わらせようとして、ふと思いとどまった。
「ちょっと待ってくれ」
疑問に思った。
「司野……標的がどこにいるか分かるのか?」
『そういうことなら、問題ありません。あなたの電話番号から、現在地を特定しておりますので。場所を移動する場合も、携帯の電源が入っていれば、問題ありません』
ダークウェブという機関はそんな物騒なことも可能なのか。僕は少し恐ろしく思いながら、返信をした。
「分かった。携帯の電源は入れておく。これで問題ないな?」
『はい。問題ありません。それでは、確認事項は以上ですので、会話を終了していただいて構いません』
「言われなくても」
僕は早々と携帯を切り、ポケットにしまった。
ドアを開けると、不服そうな司野の顔が真っ先に、飛び込んできた。
「長げえよ」
「悪かったな」
僕は椅子に腰かけて、コーヒーを流し込んだ。
「お前が居ない間にみんなで決めたんだけどさ」
司野が僕の顔を覗き込むようにしながら言った。
「次の採点で、一番低かった奴が罰ゲームってことでいいよな?」
気まずそうな金緒さんと柿本の顔を見る限り、みんなで話し合ったと言う訳ではなさそうだった。
まあいい。司野がカラオケに行こうと言い出した時点で、少なくともこういうことが起こる可能性を案じていた。僕に言わせれば、何もかも予想通りの展開だった。
「断ってもどうせやるんだろう? ならやるさ」
「おおっ、のりいいな。じゃ早速始めるとするか」
どの道を通ったにせよ行きつく場所は同じなんだ。僕がテーブルに置かれたモニターで辛うじて歌えそうな曲を探していると、司野がモニターを僕から奪い取った。
「おっと、冬平の歌はもう入れてあるから安心しな」
するとその瞬間、聞きなれない伴奏がスピーカーから流れ始めた。
柿本が苦笑いで、拍手をする。
金緒さんは心配そうに僕の方を見ている。
伴奏が終わり、画面に見慣れない歌詞が表示された。
できるかどうかはやってみないと分からないと言うが、その時の僕は確実に、やってみなくても結果を分かり切っていた。
負けた。というか大体こうなることは予想がついていたので、予想が当たっていたという意味では僕の勝ちだった。
「冬平がダントツで負けだな」
司野が楽しそうに言った。
何が楽しいのだろう? 僕には分からない。結果の分かっているレースも、結末を知っている映画も面白くないじゃないか。
「それじゃあ、罰ゲームどうするかな………重すぎるのは冬平が可哀想だから」
そんなことよく言えたもんだ。
だが、司野の判断は賢明だ。柿本はともあれ金緒さんがクラスメイトである以上、あまり過激なことやると、それは司野の評価の低下に繋がる。
司野がそこまで考えていたかは定かではないが、つくづく要領のいいやつだなと思った。
しばらくして、司野が声を上げた。
「いいこと思いついた」
司野がいつもに増した不快な笑みで、僕を見てきた。
そして、司野の人差し指が僕に向けられる。
「冬平、お前金緒さんと愛してるゲームやれ」
「分かった」
僕は力なく答える。
「おっ、物分かりがいいな。なんかいいことあったのか?」
これからあるんだよ。司野先死亡という特大イベントが。
僕は肩を落とし、金緒さんの方を見た。
おそらく一番傷ついているのは、金緒さんだろう。僕が金緒さんの立場だったら、耐えられないと思う。
「おい。どうした? 冬平。さっさとはじめろよ」
背後から司野が急かす。
これ以上粘ったところで時効になるはずもなく、第一、司野がそれを許すはずもないので、僕は腹を決めて先に口を開いた。
「……愛してる」
金緒さんが僕から目をそらした。何が悲しくて、こんなことをやらなくちゃならないんだろう。これなら一、二発殴られた方がまだ良かった。
「愛して……る…」
金緒さんが溜めに溜めて、本来僕なんかに向けられるはずがないフレーズを口にした。
僕はこの状況ができるだけ早く収束するように願いながら、無感情に続けた。
「愛してる」
愛していない。
「あいしてる」
愛していない。
「愛してる」
愛していない。
「あいしてる」
愛していない。
「愛して……」
僕が咳き込んだと同時に、頭の上から冷たい液体が降ってきた。
「はい、冬平の負けな」
咄嗟に後ろを向く。
ああ、そうか
僕はなんとなく自分が置かれている状況を理解した。ゲームの敗者である僕に、司野が飲み物をお見舞いしたのだろう。
司野が持っている空になったコップを確認する。コーラか。
「冬平くん、大丈夫?」
金緒さんが僕に声をかけてきた。
そして、「ちょっと流石にひど過ぎじゃない?」と司野に対して言った。
「ああ、まあこれでもちゃんと加減はしてるしさ。冬平もそこまで気にしてないだろ、な?」
司野が同意を求めるように僕の方を見てきたが、僕は何も言わなかった。何かが変わるとすれば今がその時だと思ったのかもしれない。
「そういう問題じゃないよ。普通に考えて人に飲み物をかけるなんて、ありえないって言ってるの」
金緒さんが圧をかけるように司野の顔を見ていた。流石の司野もそれには何も言い返せないようだった。
それもそうだろう。
司野に反抗したやつは、必ず制裁を受けると相場が決まっていたが、相手が女子となればそうはいかない。加えて、その相手はクラスで人気を誇る金緒さんなのだ。司野もできれば金緒さんに嫌われたくないのだろう。
司野は深くため息を吐いた後、ポケットを探りながら言った。
「分かった分かった。分かったよ。冬平、悪かったな。ほら、ハンカチ。これで拭けよ」
僕は司野からハンカチを受け取り、それで濡れた髪を拭いた。勢いよくかけられたおかげで上着はぐしょ濡れになっていた。
僕が上着を脱いで、乾かそうと仰いでいると、司野が面倒くさそうに自分の上着を僕に押し付けてきた。
「ほら、これ着とけ」
僕は何も言わずに、それを受け取った。
「そろそろ出ようか?」
柿本が気を利かせて言った。
いくらなんでも、この状況で続きをやるわけにもいかない。
僕が「そうだな」と軽く答えると、頷いた柿本と金緒さんがテーブルの上を片付け始めた。僕は司野のハンカチで濡れた床を拭いた。
司野は黙ったままだった。
「それにしても、本当にあり得ないよね」
カラオケを出て駅に戻る途中で、金緒さんが言った。
「まあ、慣れたもんだ」
僕は力なく答えた。
今は日暮れ時で、機嫌を損ねた司野が遥か前方を歩き、僕らがその背中を追うような状況になっていた。
「そんなのに慣れちゃだめだよ」
たしかに、と思う。
「あの罰ゲームも、なんか馬鹿にされてるっていうか……」
「……まあな」
どうやら、金緒さんは随分と司野に不満を持っていたようだった。というか大抵のクラスメイトがそう思っていることだろう。みんな口にしないだけで、思っていることはきっと同じなんだ。もちろん僕もその一人だったが、僕の場合これから司野の身に起こる運命を知っていたので、そこまで強い感情は浮かんでこなかった。それどころかむしろ少し不憫に思ったりしていた。
「それにしても、かなり遠くに行ったねえ」
柿本がもう見えない司野の背中を見て言った。
「悪いのは自分なのに、なんで機嫌損ねてるんだろうね」
金緒さんが言うと、柿本が苦笑しながら答えた。
「ハジメはさ。ああ見えて繊細なところがあるから、多分傷ついてるんだろうね。確かにやってることはいいことじゃないけど、彼には彼なりの正義があったんだよ」
「柿本くんは考え方が優しすぎるよ。ていうか、そもそも柿本くんは何であんな野蛮な人と仲いいの?」
金緒さんがそう訊くと、柿本は再び苦笑した。
「特に理由なんかないよ。ただ仲がいいだけさ、ハジメとは中学から仲でね。気が合うから、こうやって時々遊んだりすることもあるんだよ」
「ふーん」
金緒さんが納得しない様子で首を傾げた。
そして「気が合う、か・・・」と小さな声で呟いた。
「まあ、人間関係ってのは、本人も意図しないような意外なところで結ばれるってことさ」
僕がもの憂そうに言うと、柿本が「そう、そういうこと」と嬉しそうに手を叩いた。
歩いている間、僕はずっと考えていた。
司野の姿が見えなくなったということは、もう殺人は成功しているのだろうか?
司野が僕らの視界から外れた時点で、代行人が司野を殺したのかもしれない。それで今まさに、その遺体を人目に付かないように運んでいる。あり得ない話ではない、と思った。
だが、それなら連絡の一つや二つよこしてきてもおかしくないだろう。
それかあるいは、まだ司野は殺されておらず、代行人はその機会を今かと今かと待ち詫びているのかもしれない。
どちらにしても、本来僕が気にかける必要はどこにもないのだ。僕は自分にそう言った。だが、気になってたまらなかった。
「ちょっと、自販機寄っていい? 喉かわいちゃって」
金緒さんが僕らに向かってそう言った。
「いいよ。俺もなんか飲もうかな」
「そうするか」
僕も柿本に続いて、自販機に向かった。がたん、と金属同士がぶつかる音がして、取り出し口から100%オレンジジュースが顔を出した。それを金緒さんが取り出し、蓋を開ける。続いて柿本が炭酸水を買って喉を潤した。
僕も自販機の前に立ち、ブラックコーヒーがあることを確認して、ポケットから小銭を探した。
だが、いつもの位置に財布が見当たらなかった。
「冬平くん? まだ?」
「この間に、ハジメが遠くに行かなければいいんだけど」
どこかに財布を落としてきたのかもしれないと思った。来た道を戻って探した方がよさそうだ。まったく、今日の僕はついていない。
「悪い、先に行っててくれ。どこかで財布を落としたらしい」
「一緒に探そうか?」
金緒さんがそう言ってくれたが、どこに落としたかも、いつ落としたかも検討が付かないのに、他人を巻き込むというのは気が引ける。
僕は事情を説明し、「一人で探させてくれ」と言った。
「そっか、気を付けてね。どうしても見つからなかったら連絡して、一緒に探すから」
「俺も、呼んでくれたら手伝うよ」
僕は柿本から連絡先を教えてもらうと、二人にさよならを言い、肩を落としながら来た道を引き返し始めた。
カラオケの料金を払った時には、手に持っていた。それは確かだ。そうなると、落としたのはカラオケからこの自販機に至るまでの道のりということになるだろう。いったい、どこで落としたのだろう。
自販機から数十歩ほど歩いて郵便局の角を曲がろうとした時、寒さで上着のポケットに手を入れた僕は、そこにあったある違和感に気が付いた。さっきは焦っていて気にも留めなかった、その違和感。
その正体とは至って単純なものだった。
これは自分の上着ではない。
僕はカラオケで起こった直近の出来事を、思い出した。
自分の服じゃないのだから、いつもの位置に財布が入っていなくて当たり前だ。着替える時に、財布をカバンに移したことをすっかり忘れていた。
自分の滑稽さに、思わず笑ってしまった。
僕はカバンから財布を取り出すと、来た道を戻った。さっきの自販機まで戻ると、柿本と金緒さんはすっかり見えなくなっていた。
僕は財布から小銭を取り出して、それを投入口に入れた。
近くの公園にでも行って一服してから帰ることにしよう。今日は色々なことが立て続けに起こりすぎた。少し脳を休ませる必要がある。
だがしかし、僕にそんな猶予は与えられなかった。
いいことも悪いことも、起こる時はいつも立て続けなんだ。
僕が自販機に手を伸ばした瞬間、背後から人の手が回ってきた。
僕ははじめ、柿本か金緒さんのどちらかが戻ってきたのだと思ったが、違った。
その手には刃物が握られていた。
突如と向けられた刃物に、血の気が引いた。
どうにかしないと、こいつに殺されてしまう、と思った。ひとまず刺されないように、刃物を奪わなければならない。
僕はなんとかそいつの腕を掴もうと手を伸ばした。
だが、どうやら遅かったみたいだった…………。
次の瞬間、刃物が僕の腹部を突き刺した。
幸い刃先はそこまで深く刺さらなかったが、それでも耐え難い痛みが全身を包んだ。いくらなんでも、素人の行動とは思えない。
となると、まさか殺人代行人か?
だが、どうして?
広がる痛みの中、僕は考えた。今自分が置かれている状況、それがいったいどうして起こったのか。消えそうな意識の中で、考えた。
そして、僕はあることに気が付いた。
僕の今の格好は、黒のジーンズに白のシャツ、その上には虎の絵が描かれた趣味の悪い上着。
司野の上着…………。
まさに代行人に伝えた通りの格好だった。
なんてことだ。僕は絶望を隠し切れなかった。まさか、これほどまでに自分がついていない人間だとは思わなかった。
僕の息がまだあることが分かったのか、代行人はもう一度、今度は心臓部分を目掛けて刃物を振り上げた。
このままではまずい、と思った。
一発目は失敗したものの、今度はそうはいかないだろう。今度こそ代行人は、僕の心臓を確実に貫くに違いない。
なんとかして誤解を解く必要があった。
僕は刃物に警戒しながら、代行人に言った。
「待ってくれ……僕じゃない。僕は司野じゃない。司野先は別のやつだ」
代行人は一瞬、刃物を下ろしかけたが、再び持ち直した。
おそらく、命乞いをしていると思われたのだろう。
考えてみれば当たり前のことだった。
いくら口で言ったとしても伝わるはずがない。何か決定的な裏付が必要だ。そう思い、僕はポケットから携帯を取り出した。
「これは紛れもなく僕の携帯だ。機関側の人間なら、依頼主の現在位置くらい確認できるはずだろう?」
僕がそう言うと、代行人は僕の首元に刃物を突き付け、もう片方の手で携帯を確認し始めた。
刃先は僅かでも動けば喉を刺してしまうくらい、間近にあった。
時折、その冷たい先端が喉に触れ、その度に僕は目を瞑って祈った。この状況が、一刻でも早く収束することを。
しばらくして、代行人が刃物を持つ手をすっと、下ろした。
そして、代行人はその場に崩れ落ちた。
「どう、しましょう……私…」
携帯を持ったまま、両手が重力の通りに伸びきっている。
僕は深呼吸をして自販機にもたれた。
肩の力を抜き、腹部の傷を確認した。そっと、触れてみると激痛が走った。
かなり痛むが、傷がそこまで深くなかったのは不幸中の幸いだ。
だが、このまま何事もなかったようにできる怪我でないことも確かだ。もしかすると見えないだけで内臓にまで被害が及んでいるかもしれない。病院に行くべきだろうが、この状態でむやみに動くのもあまりよくないだろう。
僕は万一に備えて、救急車を呼ぶことにした。
その方が賢明だと思ったからだ。
しかし、一度目のコールが終わる前に、携帯は代行人によって僕の手から奪われた。
「待ってください……救急車はやめてください」
「いや、この傷じゃあ自分で歩くのは難しい。救急車を呼ぶのが賢い選択だろう?」
「それと、病院に行くのもやめてください」
「何を言ってるんだ?」
僕は訳が分からず代行人の方を見た。
この状況で病院に向かわないなんて、どうかしている。
だが、どうやら、どうかしているのは僕の方だったようだ。
「私たちダークウェブ、機関は公に存在を明かしてはいけないのです。あなたが病院に行けばその傷が自然に負った怪我ではなく、人為的につけられたものであることくらいすぐに分かってしまうでしょう。そうなれば、私はもちろん、あなたの立場だって危うくなってしまいます。何せ二人とも人を殺そうとしていたのですから。それはもう立派な犯罪なのですから」
「それはそうかもしれないが……」
僕は俯いた。確かに、代行人の言う通りだった。
このまま病院に行けば、治療を受けたのちに僕は警察に差し出されるに違いない。だが、死ぬくらいならそうなった方がましだ。
「それに、その傷は救急車を呼ぶほどのものではありません。あなたは少し大げさに捉えすぎです」
「おい……」
僕は代行人の発言になにか文句を言おうとしたのだが、出血のせいで上手く舌が回らなかった。
代行人も僕に何か言いたいことがあるようだったが、僕の様子を見て寸前まで出た言葉を飲み込んだようだった。代わりに僕の肩を抱えて、言った。
「とりあえず、怪我を治療できる場所を探しましょう。話はあとです。できるだけ、人が少ないところがいいのですが……」
そんなに都合のいい場所なんて、あるはずがない。
そんなの、せいぜい見知らぬ家に上がり込み、そこを使わせてもらうくらいしかないだろう。少し考えて、僕は頭の中で条件に合う場所を見つけ出すことに成功した。
「人が居なければいいんだな?」
「はい。これくらいの怪我であれば治療はできると思います。ただ、その状態を誰かに見られるのは、危険かと思われます」
「分かった。それなら僕の住むアパートに向かおう。そこには誰も居ない。問題ないだろう?」
「……はい」
代行人は少し間を開けてから、言った。
「問題ありません」
僕は代行人に手伝ってもらい、立ち上がった。周りからは十中八九、何らかの事件性を疑われるに違いない。
だから交通機関を使うことは控え、アパートまでは歩いて向かうことにした。そう遠くはない。胸部を刺されていない人間が歩いて、大体十分程度で着くことができる距離だ。
「怪我大丈夫ですか? 痛むようなら、私が抱えることもできますが」
「平気だ」
僕は代行人の提案を断った。自分を殺そうとした人間の手を借りるというのは、いささか癇に障ったからだ。
「そうですか」
血液みたいに真っ赤な夕焼けが、沈んでいくのが見えた。
現れた点滅信号を二回ほど右に折れ、あえて人目に付かないような裏道を通ってまっすぐ進み、アパートの真横に出た。
きしむ階段を上り切る。階段を上って、一番手前にあるのが僕の部屋だった。
なんとか、玄関の前までたどり着き、カバンから鍵を探す。指の先がそれらしきものをとらえた。僕はそれを取り出した。
一瞬、視界が揺らいだ。
おそらく、急な出血による貧血のようなものだろう。
僕はまだ意識が保てているうちに、早く鍵を開けてしまおう、と思った。
そして、鍵穴に鍵をさそうとした。
「あっ」
と代行人の驚いたような声が聞こえた。
その声で、僕も遅れて状況に気づいた。
そこで意識が途絶えた。
金と死で結ばれた僕ら 八影 霞 @otherside000
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