10 もうひとつの海へ

 結局、一睡もしないまま朝日が昇った。壁の時計を見ると六時を回ったところだ。隣を見ると拓海は寝息を立てて眠っている。わたしは音を立てないように起き上がりバッグを持って玄関へと向かった。途中ギシッと床を踏む音がしたので慌てて拓海の方を見たが彼は眠ったままだ。ほっと胸を撫で下ろし剣道の摺り足のようにゆっくりと外に出る。鍵を掛けられなかったのは申し訳なかったが何とかなったと安堵した。

 あちこちにある水溜まりを避けながら急ぎ足で駆けてゆく。雨上がりの空の下は思った以上に寒かったので両手をポケットの中に突っ込んだ。

 やがて弥生台駅が見えてくる。コンビニに寄ろうと思ったが、もしも拓海が追いかけてきたらまずいので、別の駅で寄ることにした。パスモを使ってプラットホームに立つと時間帯も手伝ってか、指折り数えるほどに人が少なかった。電車が来るまでに残された時間はおよそ五分。そんな短い時間なのに時の流れが永遠に感じられた。腕時計の秒針はなりふり構わず進んでゆくというのに。

 駅構内にアナウンスが流れてきた。それを聴いた瞬間、現実に引き戻されたと同時に、迷いという名の氷が溶けた。


 電車がやって来た。乗り込む寸前、わたしは拓海の幻影に抱かれた感覚を得た。彼はまだ寝てるのだろうか。起きたときわたしがいなくなってたらどんな感情を抱くのか。そんなことを考えながらわたしは電車に揺られていった。図々しいのだが、わたしは考え事をしたいときには優先席に座る。もちろん車内が空いているからこそできることなのだが、一般席に座るとどうしても大勢の人と向き合う形になって落ち着かないからだ。

 車窓から見える景色を映画のように楽しみながら、わたしは父のことを考えていた。優しい父と怖い父。あの日叩かれた頬に右手をやると記憶の蓋が開き、突発的な痛みが襲ってくる。きっとトラウマとして残ってしまったのだろう。それにしても海で念ずる、とは一体何なんだろうか。全く見当もつかない上、想像すらできない。何が真実で、何が虚構か分からないがまずは父に会ってみるしかない。


 三十分程でようやく横浜駅に到着した。そこからいつものように乗り換えて桜木町へと向かう。電車が速度を上げるとわたしの胸は高鳴った。いよいよだ。まるで何ヶ月も帰ってないような感覚があった。それほどまでにわたしの深層心理は父から遠ざかろうと頑張っていたのだろう。

 車内アナウンスが流れてきた。ついに桜木町に到着したようだ。駅に着いた後、コンビニでサンドイッチとペットボトルの紅茶を二人分買った。水族館に行ったあの日と同じものを選んだのは、心のどこかで優しい父に再会できることを期待していたのかもしれない。

 駅を出ると時間が経ったお陰か少し暖かくなっていた。わたしは首からスカーフを外しバッグにしまうと何度か深呼吸をする。待っている先が地獄か天国か分からないが、今は娑婆世界の空気を思いっきり味わっておこうと無意識が囁いたのだろう。

 自宅まであと五分ほど。迷いなどはなくなっていたはずが、足取りの重さだけはどうすることもできない。恐怖は渦を巻いて頭の中で暴れ回っている。それでも拓海と一緒に来なかったのにはちゃんとした理由がある。わたしたち家族のことで、もうこれ以上彼を巻き込みたくなかったからだ。それにしっかりと約束をした。何があっても生きるから、と。


 懐かしい路地に入るとついに父の待つ自宅前に到着した。家自体は何も変わっていないが、ここに住む人間は変わってしまった。否定したいが紛れもない事実である。

 玄関のドアに手を掛けると、鍵は掛かっていなかった。ギィと音が鳴り、開いたドアの隙間から目をやると中には父の靴があった。わたしはまるで他人の家に忍び込んだような緊張感に襲われながらも何とか声を振り絞ってみる。

「ただいま」

 静寂の家の中わたしの声はやけに大きく響き渡った。するとスリッパで歩く足音が聴こえてきた。段々音が近づいてくるとわたしの中のあらゆる感情が爆発しそうになってきた。

「おかえり、ノヴァ」

 玄関に現れたのは以前の優しい雰囲気を持つ父だった。わたしは安堵して溜息をつく。

「お父さん、心配かけてごめんね」

 父は血色の良い面持ちで何事もなかったかのように眼鏡を押し上げる。

「気にしないでいいよ。お友達は一緒じゃないんだね?」

「うん」

「じゃあ、お母さんも待ってるし、早速行こうか」

「あ、その前に」わたしはバッグに手を入れてコンビニの袋を取り出す。「お腹空いてない? 一緒に食べてから行こうよ」

 父の表情が和らいだ。ありがとう、と笑顔で返してくる。わたしは靴を脱いでリビングへと向かった。整理整頓されたその空間からは、今までのことがまるで嘘だったかのように思わせられた。一瞬、父は演技をしているのだろうか? などと勘ぐったが、それにしては様子があまりにも自然体だった。ただ、父は電話でこう言っていた。

 、と。

 テーブルにサンドイッチと紅茶を並べて一緒に食べていると、あまりの静けさに気まずさを覚えた。やきもきしたわたしはこう切り出す。

「ねえ、海で念ずるって言ってたけどあれってどういうこと?」

「海に身体の一部を浸けて瞑想するんだ。その後ゾーンに入ったら海に身体ごと沈める。これは全部お母さんが教えてくれたんだよ」

「ゾーン?」

「うん、集中力が究極に研ぎ澄まされた状態のことね」

「…………」

 なぜか無性にゾーンという言葉がわたしの中で引っ掛かった。しかし父の顔つきにも、雰囲気にも全く狂気が感じられない。

「じゃあ、そろそろ行くよ」

「あ、待って。アトランティス大陸に行ったとしたら会社はどうするの? この家は?」

「会社は辞めてきた。家はこのままにしておく」

「え……」

 わたしは絶句した。何を言ってるのだろう、父は。頭の中がモノクロームに染まってゆく。必死で次の言葉を探すが、思考回路がうまく機能しない。

「大丈夫だよ、心配すんな。何があってもお父さんはノヴァの味方だからな」

 味方——。この言葉を父から言われたことはないような気がする。しかし、会社を辞めたとはどういうことか。全てを投げ打ってでも何かを掴もうとしてるのか。

「じゃあさ」とわたしは言った。

「ん?」

「みなとみらいの海でもいい?」


 潮風が吹く海岸沿いはやや寒かった。わたしたち親子は人気のない場所を求めて歩く。平日の朝というだけあって辺りは通勤する人々でごった返していた。しかしわたしは知っていた。この街の外れにほとんど人のいない場所があることを。それは拓海と出逢った場所よりも更にもっと歩いたところにあった。もう覚悟はできていた。現世で味わった思い出たちも、わたしの魂も、全て大好きな海に抱き止められてしまえばいい、そう心に強く願っていた。本当に母に逢えるかどうかなんてまだ分からない。唯一決めていたのは海に回帰するという覚悟である。

 歩けば歩くほど人の数は減ってゆき、ようやく目的の海岸に辿り着いた。

「お父さん、この辺でいいかな?」

「ここなら人も来なそうだし大丈夫だな」父は入念に周囲を見回す。「じゃあ靴下と靴を脱いで脚を海水に浸けて」

 わたしは無言で頷き、海沿いに腰を下ろす。裸足になってスカートの裾をたくし上げると寒さがつんと指先から伝わってきた。これで海水に脚を入れたらどうなるのだろう。壊死とまではいかないとしても、冷たすぎて瞑想に集中できるのだろうか。

 すぐ隣に父が座った。その表情はとても穏やかで、とても精神疾患を抱えているとは思えない。

「海水冷たそうだけど大丈夫かな?」

「大丈夫だよ、集中すればすぐにゾーンに入れる。その後レヴィアタンが迎えに来てくれるから」

「レヴィアタン?——ああ、わたし信じる。お父さんのこと」

「うん。じゃ始めよう。脚を浸けたら目を閉じて無になるよう試みるんだ。それだけでいい。もし途中で何かあったらお父さんの肩を叩いてね」

「うん、分かった」

 わたしは思い切って海水に脚を突っ込んだ。予想以上の冷たさにきゃっと悲鳴をあげたが必死に我慢する。

「では始めよう。目を閉じて、深呼吸して、集中して」

 わたしは言われた通り精神を研ぎ澄ませ、出来るだけ無になるよう試みた。段々麻痺してくる全身の神経。次に、外なる海と内なる海が繋がっていることに気づいたわたしは、意識を無に持っていくのをやめて、祈ることにした。父の幸せ、母の幸せ、拓海の幸せ、自分を含めたあらゆる命の幸せを——

 左手はあのときと同じようにアクアマリンを握っている。奇跡が起こるのではないか、そんなことを感じた矢先、超意識が全身に伝わってくるのを感じ取った。

 自我が消えてゆく。何もかもが溶けるようにして消えてゆく。両脚の神経は完全に麻痺し、もう何も感じない。ついに海に回帰するときが来たのだ。


  ——お母さん、今行くからね。


 飛び込もうとしたそのときだった。背後から何者かに掴まれ、体全体仰け反るようにして海水から引き抜かれた。意識を取り戻し振り返ると拓海の姿があった。わたしは彼に取り押さえられたまま身動きが取れなくなる。

 物凄い音が聴こえてきた。誰かが海に飛び込んだような激しい音。水しぶきが辺り一面に広がった。

「お父さぁん!」

 拓海の腕を振りほどいて駆け寄ると、父の姿が消えていた。わたしはもう一度叫ぼうと思ったがやめた。海は陽の光を受け、きらきらと輝き、何事もなかったかのように微笑んでいた——父と母の幸せそうな顔を朧げに映し出しながら。



 了

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二つの海 松本玲佳 @reika_fumizuki

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